青天の霹靂



午前の授業がすべて終わった事を知らせるチャイムが鳴ると、教師が授業の終了を宣言していないのにも関わらず教室内の空気は僅かに浮足立つ。教壇に立つ教師はまだ何か説明したそうな顔をしつつも、「今日の授業はここまで」と締めくくって、教材と諦め顔を携えて教室を出ていった。

昼休みに突入した教室の活気には、いつも気後れする。座ったまま近くの席の仲がいい人同士で今日のお弁当は何だろうとか、示し合わせて席を立つ人たちで今日は何を食べようとか、そういった、私には関係の無い会話で周りが満たされるとどうしたって居辛くなってしまって。けど、今日はそんな益体の無い感想を抱いている場合ではない。

「じゃあ遊鳥さん、行こっか」

楽し気に振り返る前の席の彼女に、私は気合を入れて頷く。今朝、彼女から受けた頼まれごとをこの昼休みで行おうと、先の休み時間で話はついていた。彼女が質問をしたいと言っていた教科のノートと教科書、筆記用具に小銭入れを持って席を立つ。

「遊鳥さんは何食べる?」

他の生徒に紛れて教室の扉を潜る。購買のある方へと向かいながら、彼女の質問に答えるために少しだけ頭を悩ませた。

「パンが食べたいかな。チーズが入ってるの」

おにぎりでもいいかなと思ったけど、ご飯の後に勉強をする事を考えると食べる事に時間もかからず手も汚れにくい選択が一番だという結論に至って、そう答える。

「いいね。私は甘いのにしようかなあ」

ご機嫌な様子の彼女と、購買にあるあのパンが美味しいだとか、コンビニで最近発売されたあのパンはどうだったとか。そんな頭を使わない軽易な会話を繋げている内に購買へとたどり着く。昼休みに入ってそんなに時間は経っていない筈なのに、購買の前は食堂程ではないにせよ人だかりが出来ていた。普段ひとりで購買にお昼を買いに来るときは人混みを避けるために少し時間を空けてきていたから、私には新鮮な光景だった。

「人凄いね」
「わたしちょっと買ってくるよ。遊鳥さん、チーズが入ったパンだったら何でもいい?」
「うん」
「おっけ。これ持ってて」

人の壁に臆した私に言うが早いか、彼女は勉強道具一式を差し出す。ありがたい提案にお礼を述べる暇もなく、彼女は人垣を掻き分けて真っすぐパンの方へと向かっていった。人混みの中に飛び込んでいくメンタルも、押し集まる人を掻き分けて進むフィジカルもない私には絶対にまねできないと思いながら、少しだけ購買から離れて待機する。無事お昼を買ってこの場から離脱する生徒を何となく目で追う。人混みを抜けて息を吐く生徒を6人ほど見送った時、廊下の向こうに牛島先輩の姿を捉えた。

手ぶらで真っすぐ廊下を歩いていく牛島先輩。完全に不意打ちで見る事のできた先輩に視線が釘付けになる。同じ学校の生徒だし、校内で偶然見かける事もそりゃあるよねなんて、無意識に胸が高鳴った。

「お待たせ! 遊鳥さんパニーニにした!」

単語と単語が直列で繋がれた言葉に、少し肩が跳ねたのが自分でも分かった。視線を戻すと、戦利品とでも言う様にパンを4つ掲げる彼女。手渡されるパニーニを「ありがとう」と言って受け取って、ちらと廊下の先を確認する。牛島先輩の姿は当たり前にもうなくて「じゃあ行こっか」と私の手元から自分の勉強道具を抜き去る彼女の後を追った。


本校舎を離れて一階。前の彼女に案内されたのは理科実験室だった。普段使いの無い教室が集まる棟で、昼休みの喧噪が遠い一角。こんなに自主勉にぴったりな場所があった事に感心を覚えてしまう。少し前にここの扉の施錠がされていないと知っていたら、サボり場に使うくらいしていたかもしれない。いやでも、体育館と違って隠れる場所もないし、やっぱりサボりに使うには不向きかな。なんて、必要もなくなって収まりつつある悪癖がつい顔を覗かせる。

「先にご飯にしよー! お腹すいたあ」

既に一仕事終えたかのようなくたびれ感を出しながら適当な席に座る彼女に笑みを零して、彼女の斜め前に向かい合う形で私も腰を落ち着けた。同時にパンの袋を開けて、「いただきます」と唱える。

「遅くなっちゃったね。私から呼び出したのにごめん」

唐突に耳に届いた見知らぬ女生徒の声に、前の彼女と顔を見合わせる。教室の中には依然私たちだけ。声がした方向――教室の外側に目を向けると、二人の人間が窓に影を映していた。人気の無い校舎裏で行われる密談なんて、無関係の人間が聞いたところで良いことなんかひとつも無いだろう。もう一度彼女の顔を見ると、彼女も同じ事を思っているようで、眉毛がハの字に下がっていた。
こっそり教室を出るのも選択肢だけど、途中で物音でも立てて見つかってしまったら物凄く気まずい。とりあえず息を殺して静かに過ごすことを決めた。――のに。

「いや、俺も今来たところだ」

二人目の声を聞いた途端、どきりと胸が高鳴った。意識なんてしなくても、今さっき、廊下の向こうで見かけた姿が思い出される。

「そっか……」

静かに言葉を返す女生徒の声音には少しの緊張が含まれていて、それを耳にした私も胃がキリキリと音を立て始める。
牛島先輩が女生徒に呼び出されて、二人きり。顔を見れないにしても、今から女生徒が牛島先輩に伝えたいことは予想ができた。

「私……私ね」

意を決した女生徒の声はさっきより少し大きくなる。まさかこの教室に人がいるとは思ってもいないんだろう。大切な話を盗み聞きする罪悪感があっても、この場から逃げ出したくても、金縛りに遭ったかのように体は全く動かない。

「三年間ずっと若利のことが好きだったの。……付き合ってください!」

真っ直ぐな、それこそ純情と呼ぶに相応しいストレートさで女生徒は牛島先輩に気持ちを放った。
人生で初めて、人が人に思いの丈をぶつける瞬間に立ち会ってしまい、しかもその相手が牛島先輩だなんて。目の前が真っ暗になる感覚に陥った。胸を占める蟠りは嫉妬なんて殊勝なものじゃない。私とあの女生徒では、そもそもの立っている場所が違うんだから。自分の気持ちを伝えられることを羨ましいと思うなんて、筋違いにも程がある。
――……でも、じゃあ。私はいつになったらこの気持ちと向き合えるんだろう。もっと自分に出来ることが増えたら? もっと自分に自信がついたら? ……もっと自分が、普通になったら? 果たしてそれを自分で認められる日は、何時来るんだろう。その時に牛島先輩が私の近くにいてくれるとは限らない。現実的に考えるなら、タイムリミットは長くて先輩の卒業まで。それまでに誰かと付き合うかも知れない。今先輩に告白した女生徒が、先輩の彼女になるかも知れない。
考えれば考えるほど私の気持ちはどん詰まりで、逃げ場までをも自分で塞いでいってしまう。息が詰まり、呼吸が苦しくなる。それでも自分の中の問答は止まるところを知らず、今まで見て見ぬふりをしていた問題が吹き出したかのようだった。

「遊鳥さん!」

肩を揺すられて、ハッとする。目の前の彼女が心配そうな様子で身を乗り出し、私の顔を覗き込んでいた。

「大丈夫?」

目の前の人間を忘れて自分の世界に閉じていた事を恥じる余裕もなく、嘯いて首を縦に振る事もできず、私は視線を机に落とした。囓りかけのパニーニが袋から顔をのぞかせて転がっている。

「……ちょっと、ここで待ってて」

視線を上げると、落ち着いた声音とは反対に彼女は椅子を蹴り倒す勢いで教室から飛び出していた。呆気にとられ彼女を呼び止めることもできず、一瞬浮かせかけた腰を大人しく椅子に落ち着ける。さっきまでの平常を少しでも取り戻そうと、転がるパニーニを手に取った。
思いのほかボリューミーなパニーニを半分ほど食べ終わった頃、

「あれ、遊鳥ひとりだけ?」

彼女が出て行って開けたままになっていた扉から男子生徒が顔を覗かせた。
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