クラスメイトの見解
予鈴が鳴る10分前。教室の後ろ側のドアを潜り、大股4歩で辿り着ける自分の机にかばんを置く。「おはよう」と聞こえてくるいくつかの声に、こちらも「おはよー」と一言でまとめて返して椅子に腰かけた。
廊下側後ろから2番目の席なんて、教室内でいえば一等地並みの席が引けたのは僥倖だったなあなんて未だに思いながら、かばんの中から今日の授業に必要なものを取り出していく。それを机に入れようとして、週末はいつも空にして帰っている筈の机の中にノートが1冊残っている事に気が付いた。入れようとしていた教科書やノートの束を一度机の上に戻して、机の中のノートを取り出す。確かにわたしのものであるノートのその表紙を見て、どうして1冊だけ残されていたのか理解できた。表紙の上部にでかでかと書かれた教科名と、大きく下に離れて、主張が激しくなってしまった教科名よりは申し訳程度に控えめに書いたつもりのわたしの名前。その間に貼られた黄色いふせんの文字は簡潔に、それでも丁寧にわたしへの謝意とあの子の名前が綴られていた。
直接渡してくれても良かったのになあ。そう思いながら、首を真後ろに捻ってあの子の席を見る。本人がいないから登校自体がまだなんだと思っていたけど、確かに机の横にかばんがかかっていて、教室に立ち寄った痕跡はある。まあ、授業までに会えたかも分からなかったし、教室でわたしと――というか、特定の人と長々おしゃべりするというのはあの子にとって勇気がいる事みたいだし、仕方がないか。あの子と話すタイミングを早速ひとつ失ってしまって少しがっかりというか何というか。けど、あの子が学校に来てるならおしゃべりする機会はいくらでもある。席も前後なんだし! なんてひとり自分を励ましていると、
「遊鳥なら朝カバンだけおいてすぐどっか行ったぜ」
わたしがあの子の席を見て肩を落としている姿を見られたのか、ひとつ前の席に座る男子が声をかけてきた。
「見たまんまじゃん」
心の中で呟いたつもりが、うっかり口から飛び出してしまう。頭の中に浮かんだことを推敲せずしゃべってしまうのは、以前友達にも指摘されたわたしの悪い癖。
「どこに行ったか……なんて、知らないか」
ついでとばかりに続けたわたしの言葉に、前の男子は苦笑いを浮かべただけで返事はしない。ふいと、わたしの手元にあるあの子に貸していたノートに目を落として、
「お前って遊鳥と仲良いよな」
と、さっきよりは少しだけトーンの下がった声音で言う。
「え、ほんとに? 照れるね」
まさか、2学期に入って初めてちゃんとしゃべった相手との事をそんな風に言われるなんて。わたしはちゃんと喜んでるのにその反応をわざとらしく思ったらしい男子はその事に触れず、
「遊鳥も普通に同級生と話すんだって思ったもんなあ」
と、何となく遠い目をして空を見つめた。
「そうなん?」
わたしと話している時だって、確かにテンションの差はあるけどそれなりに弾んだ会話をしているし、そもそもわたしと話し始める以前に賢二郎と話している所も見てるし。そんな風に感じたことはなかったんだけど。「ああ」と男子が頷くのを見てから出しっぱなしになっていた道具たちを机の中に片付けていく。黄色いふせんはなんだか少し勿体ない気がして、はがれないように下敷きで保護しながら一番上に入れ込んだ。
「でもさあ」
用のなくなったかばんを机の横にかけて、何も考えずに仕舞ってしまった一限目の教科書とノートを取り出しながら前の男子に視線を戻す。
「お前と喋るようになってから遊鳥もちょっと明るくなったよな」
横向きに座って相変わらずどこを見ているのか分からないまま男子はぽつりと言った。……うーん。
「そうかなあ」
あの子と席が前後になった初日の事を思い出す。
「明るさとかは変わってないんじゃん? クラスの人とおしゃべりしてなかったからそう見えてただけで。……多分だけど」
最初にわたしが話しかけた時の緊張とかは、今はもう殆ど感じられない。近頃は少し余裕があるというか、教室にいる事自体に緊迫感をあんまり持っていないというか。それが男子の言う"明るくなった"ということなら、そうなのかもしれないけど。
「そういうもんかね」
漸く空中から視線を戻して、前の男子は首を傾げた。知った様な事を言ったけど、正直フィーリングで生きているわたしの直感でしか無い訳で。分かんないけど、と心の中で肩を竦める。そんな話をしていると、もうすぐ授業が始まる事を知らせる予鈴が鳴り響く。そして、それとほぼ同時に背後の扉が開く音がした。もう一度首を後ろに捻ると、自分の席に座ろうと椅子を引いた遊鳥さんと目が合った。
「おはよー」
と至近距離にも関わらず手を振ると、
「おはよう」
と座りながら返してくれる。ノートと筆箱を持ってる所を見ると、図書室か職員室か……とにかくまた自主勉をしていたのかな。ほんとに、勉強に関してのこのストイックさは見習いたい。マネできる気は正直しないんだけど。
「あの、ノート、ありがとう」
少し小声で言う遊鳥さんに、
「うん、ちゃんと受け取ったよ」
とピースを作って見せてみた。口元が緩む遊鳥さんを見て、ちょっとだけ心が和んだ。そう、そういえばよ。
「ねえ、遊鳥さん」
呼びかければ、一限目の準備をしている動作を律義に止めて遊鳥さんはわたしの顔を見る。
「ちょっと前の授業のことで聞きたいことがあるんだけど、教えてくれないかなーって」
一瞬固まる遊鳥さんの表情を見て、慌てて付け加える。
「あの、ほら先週の。遊鳥さんが休む前の授業なんだけど」
どうかな? と重ねて問いかければ、遊鳥さんは逡巡するように視線を少しだけ泳がせて
「人に教えた事ないから、上手に説明できるか分からないけど……それでもよければ」
とノートの縁を指でなぞりながら小さく顎を引いた。
「ほんと!? ありがと!」
嬉しくなって身体を遊鳥さんの方へ向けるけど、丁度その瞬間に本鈴が鳴ってしまう。タイミング悪……と自然に眉間に皺が寄る。もしかしたら口にも出てしまったかもしれない。仕方がないから斜めに動いた椅子を直して、振り向きざま
「じゃあまた後でね」
と、気持ち頬の紅潮した遊鳥さんに言い残した。