「木葉、こっちー!」
「おーい、席あいてるよ!」
どこか懐かしい声に、グラスを手に振り返った。
大学の卒業旅行。春から社会人になる前の、ほんの一瞬の“猶予期間”。
行き先は温泉地。
大浴場と宴会付きの宿に泊まる、まるで修学旅行の延長戦。
だけど私の中では、それなりに“賭け”でもあった。
……だって、木葉がいるから。
4年間、ずっと仲良くしてきた。何度もふたりきりになったこともある。
でも、どこまでも“いい友達”のラインを越えてくれなかった。
(……これで最後かもな)
何度目かの乾杯で頬を赤らめた木葉を見ながら、
そんな風に思っていた。
⸻
夜も深まった頃、何人かが布団へ倒れ込む中、
私は洗面台でクレンジング中。
……そこに、のっそり現れたのは、顔の赤い木葉。
「お〜い……お前、化粧落とすの早くね?」
「ちゃんと寝る準備しないと、明日チェックアウト早いよ?」
「それ言ってくれるのお前だけだな〜……ほんと、助かる」
「ふふ、どういたしまして」
ふたりだけの空間に、ちょっとだけ沈黙。
だけど、変な空気じゃない。
木葉は洗面台に片手をついたまま、ぼーっと私の顔を見て、ふっと笑った。
「……なあ」
「ん?」
「卒業、しちゃうんだな、俺たち」
「……うん。ね」
「……俺さ」
「?」
「ずっと言いたかったこと、あるんだけど」
言葉の先を待つ間に、私はドキドキが止まらなくなった。
見上げた木葉の顔は、少し酔っているようで、でも目は真剣だった。
「なまえ、ほんと可愛いよな」
「えっ……」
その瞬間。
背中を支えられて、私は洗面台の隅に追い詰められる。
そして、柔らかく、でもはっきりと。
木葉の唇が、私の唇に触れた。
キス。
しかも、ただの挨拶とかじゃない。
……ちゃんと“好き”が混じった、大人のキスだった。
気がつけば、私の指は彼のTシャツの裾を掴んでいた。
木葉はそれを見て、少しだけ微笑んで、そっと額を合わせた。
「……おやすみ」
それだけ言って、彼は部屋に戻っていった。
(え……?なにこれ……夢?)
唇にまだ熱が残っていて、眠れなかった。
翌朝。
部屋の空気はなんとなく静かで、
木葉はというと――まるで何もなかったかのように、普通に朝ごはんを食べていた。
「昨日、飲みすぎたー。マジで記憶あいまいだわ」
(……そっか。覚えてないんだ)
みんなが笑ってる中で、私だけがうまく笑えなかった。
キスされたことも、名前を呼ばれたことも、
……何ひとつ、彼の中には残ってないんだ。
──あれから数日。
卒業式が終わり、私は就職先の準備でバタバタしながらも、
頭のどこかに“あの夜”がずっと残っていた。
(あれは……夢じゃない)
(ちゃんと唇に、感触があった)
(でも、木葉は……)
「昨日、飲みすぎた〜」って言葉が、何度もリピートされる。
思い出してもいないのに、思わせぶりなことしないでほしかった。
……なんて、自分勝手にモヤモヤしてるのも分かってる。
そんなある日。
「……え?」
カフェの前を通りがかったとき、私は足を止めた。
窓際の席にいたのは、木葉と、私の知らない女の子。
ふたりは楽しそうに笑い合っていた。
距離が近い。親しげ。……恋人、だ。
(ああ、やっぱり……)
私なんかが本気で期待する方がバカだった。
目の奥がじん、と熱くなったけど、バレないようにその場を離れた。
(もう関係ない。就職したら、きっともう会わない)
そう自分に言い聞かせながら。
その数日後。
「なあ、ちょっと来いよ」
駅で偶然会った木葉に、不意に腕を掴まれて、人気の少ない公園に連れて行かれた。
「何……?」
「カフェ、来てたよな。俺と、○○見てたろ」
ドキリとした。隠してたのに、気づかれてた。
「……べつに。通りかかっただけ」
「お前、勘違いしてるだろ」
「……なにを?」
「○○は木兎の彼女だよ。高校のときのマネで、今も付き合ってる」
「えっ……?」
「俺が相談してただけ。……あの夜のこと、どうしたらいいかって」
「……え?」
「覚えてるよ。全部」
その一言で、頭が真っ白になった。
⸻
「なまえが洗面台にいて、俺が“可愛い”って言って、……キスして、おやすみって言った」
「…………」
「次の朝、話題にできなかったのは、怖かったからだよ。なまえが“酔ったノリだったんだね”って笑って終わらせたら、俺はもう戻れねぇなって」
ゆっくりと距離を詰めてきた木葉が、優しく私の頬に触れた。
「俺、前から好きだった。でも友達の距離感が心地よすぎて、壊したくなかった」
「……壊していいよ。もう、壊れてるから」
笑いながら涙がこぼれた私を、木葉はそっと抱きしめた。
「じゃあ、もう一回キスしていい?」
「……うん」
今度は、記憶にも、心にも、ちゃんと刻まれるキスだった。