13『I love you』を訳しなさい



「ど、どうぞっ……散らかってるけど」
「……お邪魔します」

 あやめがぎこちない手つきで家のドアを開けると、大気がこれまたぎこちない足取りで家の中へ上がった。
 あやめの部屋は勉強道具よりもメイク道具のほうが多く目についた。女性らしいなと思いながら、大気はそっと目だけを動かして部屋の中を見回す。
 ──ずいぶんと狭い部屋だが、都内の学生の一人暮らしとはこんなものなのだろうか。それでもやはり身なりは気になるようで、全身が映る大きさの立派な鏡台がすみにデンと鎮座している。
 勧められた場所に大気が腰を下ろすと、目の前のローテーブルにあやめが湯気の立つお茶の入ったマグカップを置きながら恥ずかしそうに言った。

「ごめんね、狭くて。駅からの距離は妥協したから、これでも広いほうなんだけど……」

 これで広いほうなのか。内心の驚きを隠しつつ、大気は出されたお茶を一口含んだ。

「……桂花茶ですか?」
「へへー、大気くんからいつも金木犀のいい匂いするから、買ってみました」

 嬉しそうに笑ったあやめは、そのまま大気の隣にストンと腰を下ろすと同じようにお茶を口に含んだ。
 部屋が狭いとおのずと座る距離も近くなる。あやめの喉がコクリと鳴る音が聞こえ、大気はなんとはなしに膝の上に置いた手の指先をこすり合わせた。

「……私ね、大気くんのこと、寂しい生き方してるなんて思ってないよ」

 ポツリとつぶやかれ、大気は隣を見た。あやめは両手でマグカップを握りしめたまま、親指でカップの縁を何度も撫でていた。

「ただうらやましくて。頭もよくて背も高くて、華もあって。望めばなんでもできちゃいそうなのに、大気くんてば、なんにも望まないんだもん。私なんて望みばっかりなのに、なにひとつ叶えられてないから、だんだん情けなくなってきちゃって……それで、嫌なこと言っちゃった」

「ごめんなさい」と消え入りそうな声が聞こえた。うつむいた横顔に見える唇が、緊張したように何度も結んではゆるめてをくり返している。
 大気はマグカップをローテーブルに置くと、膝をあやめのほうへ向けた。

「私も、謝らなければいけません。──ずっとあなたに隠していたことがありました」
「隠していたこと?」

 大気の真剣な表情になにかを感じ取ったのか、あやめは手に持ったマグカップをローテーブルに戻すと、大気に向き直り居住まいを正した。
 あやめの目を見て、大気が話しはじめる。

「私は……私たち三人は、ある人を探すためにここへやってきました」
「ある人を探すため?」
「はい。その人を探すため……くにを捨て、ここへ来ました」

 あやめの両目が大きく開かれた。言葉が見つからない様子のあやめに、大気は一度深呼吸をすると続ける。

「ですが、星野はあまり生活力のあるほうではありませんし、夜天は──」

 そこで大気は軽く目を伏せフッと苦笑すると、

「──知ってのとおり、いささか打たれ弱いところがあるので。いまはあまり頼れる状況ではなく」
「……ああ、なるほど……」

 先日の修羅場を思い出したのか、あやめが妙に納得したようにうなずいた。
 大気が続ける。

「そこで私がなんとかしなければと思っていたのですが、右も左もわからぬ土地で途方に暮れていました。──そんな時、あなたに出会った」

 伏せていた目を上げると、あやめをまっすぐに見つめた。二人の視線が自然と絡み合い、あやめが緊張した表情で目をまたたかせる。その初々しいしぐさに大気は目を細めると、しばらくして思い出し笑いをした。

「はじめは驚きました。突然『兄』と呼ばれて、正直おかしな人かと思いましたよ」
「……ごめん」
「いえ、そのおかげであなたに出会えましたから。──あなたは私にいろいろなことを教えてくれました。ここでの生活、たくさんの本と出会える場所、気晴らしの方法、そして──夢」

 大気は視線をあやめからそっと外すと、ローテーブルの上のマグカップに移した。

「おかしいですね。くにを捨てたあの日、夢なんて虚しいものだと悟ったはずなのに。……それなのに、夢を語るあなたの瞳に、なぜか吸い込まれそうになった」

 あやめの息を呑む音が小さく聞こえた。

「あなたの瞳を通して見る夢に、私は……ほんのいっとき、現実の辛さを忘れ、安らぎを得ていたのかもしれません」
「……大気くん」

 いつの間にかうつむいていた大気の頭に、柔らかな重みが乗った。あやめに撫でられているのだと気づいた瞬間、こらえていた感情が塊となって喉の奥をグッと詰まらせる。
 背中を丸めた大気がいつもよりずっと小さく身体を縮めていると、ふいにあやめの両腕に頭を包み込まれた。頭の上にあやめの頬が乗るのがわかり、上からささやき声が聞こえてくる。

「それなら、私が大気くんの代わりに夢を追いかけ続けるよ。大気くんが、またいつか自分の夢を大事に思えるようになるまで。……その時まで、大気くんのぶんも私が夢を追いかけるから」
「……夢を追い続けるのは、ときに辛いことでもありますよ」
「わかってる……それでも」

 抱きしめる腕が強くなる。大気はゆっくりと目を閉じると、柔らかな温もりの中で深く息をついた。
 ──人の温もりなど、もうずいぶんと忘れていた。こんなにも安らぎを感じるものだったのか。……それとも、これが彼女の温もりだからなのか。

(これが夢ならばいつまでも覚めないでほしい……なんて、どうかしていますね)

 大気は口をゆるりと上げると、両手を伸ばしそっと温もりを抱き寄せた。


 * * *


 マンションの玄関まで来て、大気はうしろにいるあやめへ振り向いた。

「では、ここで」
「大気くん、本当に送ってかなくて平気?」
「あなたを送り届けにきた私をさらに送る必要はありませんよ」

 大気が苦笑すると、「それもそっか」とあやめが笑った。そのままポケットへ手を入れると、

「次は……って、もう待ち合わせする必要ないんだったね」

 あやめが苦く笑い、ポケットから取り出しかけたPHSを元に戻した。
 撮影の仕事は今日ですべて終わってしまった。虎島も今後はもう現れることもないだろう。

「なんか、大気くんと会う口実、なくなっちゃったね」

 あやめが寂しそうに笑った。対照的に大気は明るい表情で問いかける。

「では、私はもうあやめさんの兄でいる必要はないということですね」
「そう、だね……いままでありがとう、大気くん」

 視線を下げうつむいたあやめに、大気は一歩近づくと、

「それはよかったです」
「……え……?」

 キョトンと見上げてきたあやめの身体を包み込んだ。腕の中で、あやめが驚いたように両肩をキュッとすくめる。

「たっ、大気、くん……?」

 呼んできた声は少しだけうわずっていた。大気は耳元へそっと唇を近づけ、

「……正直、これ以上あなたの兄で居続けるのは、できそうにありませんでしたから」

 甘くささやくと、息を呑む音が聞こえた。見る間にあやめの耳が赤く染まりだす。
 近すぎる距離は互いの胸の鼓動まで伝えてしまいそうで、大気は緊張するように唾を飲み込んだ。

あやめさん、これからは──」

 身体をさらに抱き寄せながら口にした、その時。


──ピリリリリリリッ


「ひゃっ!?」

 突如、空気を切り裂くような電子音が鳴り響き、腕の中であやめがビクッと飛び跳ねた。あまりにも間の悪いタイミングに、二人はしばし身体を寄せ合ったまま黙り込む。
 なかなか鳴り止まない電子音に大気は息をつくと、

「……電話、出ますか?」
「え……あっ、うん、ごめんっ! ほんとごめんっ!」

 あやめが弾かれたように大気の腕の中から飛び出た。顔を真っ赤にしながらポケットの中を探りつつ「もう、いい時にっ」と小さくこぼす。それを聞き逃さなかった大気は、あやめにバレないようにひそかに忍び笑いをした。

(──本当に。いい時にとんだ邪魔が入ってしまいましたね)

 あたふたとポケットからPHSを取り出すあやめに、大気は軽く片手を上げると「では、私はこれで」と言って背を向けた。

「え、ちょ……大気くん、いま帰るのっ!?」
「また連絡します。おやすみなさい、あやめさん」

 立ち去る大気の背中から「そんなあっ」と嘆くあやめの声が聞こえてきた。振り返らずともどんな顔をしているか目に浮かぶようで、大気は歩きながら笑いを噛み殺す。

(きっと私たちの関係に名前をつけるのは、まだ早いということかもしれませんね)

 見上げると、宵の口の空に三日月が浮かんでいた。夜空をひっかいたような細い細いその月が、今宵新たに始まったばかりの名もなき関係を象徴しているようで、なぜか愛しく思えてくる。

「ああ、月が綺麗ですね」

 自然とこぼれた言葉に、大気はおかしくなって一人で笑った。

(なるほど……かの文豪のたとえは、こういうことだったのかもしれませんね)

 だんだん愉快な気分になってきた大気は、ゆるやかな足取りで歩きながら、まだ答えていなかったあやめの問題について考えを巡らせた。
 ──この気持ちを、月の光が届かぬ場所でどうたとえようか。

「ふむ……これは意外に難問かもしれませんね」

 楽しそうにつぶやくと、大気は仲間の待つ家へと帰っていった。


Fin.(後編へ続きます)




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