「……ん、う……」
つかのま飛んでいた意識を取り戻したあやめが、小さくうめき声を上げた。
──身体が動かない。身をよじると、ガチャ、と重い金属の音がした。見ると、両手両足に重厚な枷がはめられている。
いつの間にか背後に現れた壁に、あやめは磔にされていた。
「な、に……これ……!?」
胸の前に、装飾のほどこされた薄紅色の鏡らしきものが浮いている。
意識が飛ぶまぎわ、身体の中からなにかを引きずり出される感覚がした。まさか、これが自分の中から出てきたというのか。
「ようやくあなたの夢とご対面ね」
正面から聞こえた声に顔を上げた。そこにはウエーブのかかった金の髪をゆらめかせ、サーカス団のような奇抜な格好をした人物が立っていた。
「……虎島さん……?」
「残念でした。虎島なんて人間、どこにもいないわよ。ボクの本当の姿はデッド・ムーン一族の家臣の一人、タイガーズ・アイ」
「な、なに……?」
──だまされた。
あやめは全身から血の気が引いていくのを感じた。磔にされた手が震えだし、奥歯がカチカチと音を立てはじめる。
「や、やだっ……離してっ! 誰かっ……!」
「バカな子ね。あの『お兄さん』の言うことをあのまま聞いておけばよかったのに」
「……!」
押し寄せる恐怖の中に痛みが混ざり、あやめの目に涙がにじんだ。
──大気は助けようとしてくれていたのだ。それなのに、冷たく突き放してしまった。
後悔に打ち震える中、目の前までやってきたタイガーズ・アイがあやめの胸元に浮かぶ鏡を両手でわしづかんだ。
「見せてもらうわよ、あなたの美しい夢」
「!? やだっ、やめて……大気くん……っ!」
必死の抵抗もむなしく、タイガーズ・アイは腰をかがめると、ためらうことなくあやめの夢の鏡の中へみずからの頭を突っ込んだ。
あやめの全身を貫くように、熱いとも冷たいともわからぬ異物感が込み上げてくる。
「う、あ、ああっ……」
侵入してきた異物は、あやめの夢を踏み荒らすように中を縦横無尽に動き回った。あやめの口から、抑えきれなかった悲鳴が漏れ出る。
〈私、大気くんとお芝居がしたい! 一緒にドラマに出て、共演してみたい〉
生まれたばかりの真新しい夢に、異物が触れる感覚がした。ビクリと身体が跳ね、こらえていた涙がこぼれ落ちる。
「い、やっ……それだけは、触らないでっ……大事にしたいの……」
だんだんと意識が遠のいていくのがわかる。あやめは懇願をくり返しながら、涙を流し続けた。
(ごめんね……ごめんね、大気くん……)
「……あ……ぁ……」
声が弱くかすれ、目の前が暗くなりだした、その時。
「──スター・ジェントル・ユーテラスッ!!」
あたりに女性の声が響き渡り、栗色の髪をなびかせるうしろ姿が視界に飛び込んできた。
(……だ、れ……?)
それを見たのを最後に、あやめの意識はプツリと途切れた。
* * *
「──さんっ……──さんっ! ──あやめさんっ!」
「……ん……?」
頬を叩かれる感覚がする。
誰かの呼ぶ声に、あやめは小さくうなると目を開けた。
「あやめさんっ!」
「──う……大気、くん……?」
ぼんやりとしていた輪郭が徐々にクリアになり、目の前に顔面蒼白の大気の姿が見えてきた。戻ってきた全身の感覚が、座らされているベンチの硬さを伝えてくる。
ゆっくりまばたきをくり返しようやく焦点があうと、大気が安堵の表情で大きく息をついた。
「よかった……無事でしたか」
「大気くん、どうしてここに……?」
「あなたが心配で追いかけてきたんです」
その言葉で、あやめは自分の身に起こった出来事を思い出した。とたんに目の前が涙でぼやける。
そのまま、正面にかがんで立つ大気に勢いよくしがみついた。
「あやめさんっ!?」
「ごめん……ごめんね、大気くん……っ。私、ひどいこと言って、ごめんね……」
何度もしゃくり上げながら「ごめん」とくり返す。
突然のことにオロオロしていた大気は、その様子を見ると落ち着きを取り戻し、あやめを頭からすっぽり包み込んだ。
「──いいんです、私も昨日は言いすぎました。許してください。……あなたが無事でよかった」
気がつけば、すでに日がかたむきはじめていた。イチョウの木が夕日を受けて輝き、黄色く色づいた木の葉を風が揺らす。あやめがぶるりと肩を震わせると、立ち上がった大気が手を差し出してきた。
「寒くなってきましたね。──帰りましょう、あやめさん」
「……うん」
さわさわと優しい風が二人の間を吹き抜けていく。あやめは二、三度指先をこすり合わせると、ソロリと手を伸ばして差し出された大気の手に軽く重ねた。互いにぎこちなさを残しながら、浅く手をつないで歩きだす。
公園の出口までくると、あやめはふと立ち止まって誰もいない園内を振り返った。
「ねえ、大気くん。ここに駆けつけてくれた時、女の人いなかった?」
振り返った大気が首をかしげた。
「女の人ですか?」
「うん。私を助けてくれた人がいた気がするんだけど……誰かいなかった?」
「……さあ、私のほかは誰もいませんでしたね」
「うーん」と園内を眺め回していたあやめだったが、しばらくすると、しょんぼりうなだれながら前へ向き直った。
「そっか……お礼言いたかったな」
「……行きましょうか」
つないだ手が、大気から強く握り直される。
そして二人は手をつないだまま、イチョウの揺れる公園をあとにした。
* * *
単身向けのマンションの前まで来て、あやめが無言のまま立ち止まった。
並んで歩いていた大気も足を止めると、あやめを見て訊く。
「このマンションでいいんですか?」
「……うん」
目を合わせず小さくうなずいたあやめに、大気は困った顔をした。
手をつないで帰る道中、あやめはずっと口を閉ざしていた。虎島だった男にあんな目にあわされたばかりで動揺しているのか、それともなにか考え事をしているのか。大気は何度か話しかけようと口を開いては、あやめの表情を見て閉じる、をくり返しながらここまで歩いてきた。
その場の流れでなんとなく和解はできたが、大気としては星野のアドバイスもあることだし、今日は話をするつもりでいた。しかしあやめのこの様子を見ると、また別の機会にしたほうがよさそうだ、と考え直す。
「……では、私はこれで」
つないでいた手を放し、あやめに背を向ける。すると、背中の服がクイと引っ張られる感覚がした。
大気が首だけで振り向くと、あやめが下を向いたまま瞳を所在なげに揺らしていた。
「どうしました?」
「あっ……ご、ごめんっ。そのっ……」
声をかけたとたん、あやめは顔を真っ赤にして服から手をパッと放した。
大気が不思議に思いながら目線を合わせると、今度は顔を横に向けて目を逸らしてしまう。
「あやめさん? どこか具合でも悪いのですか?」
「そ、そうじゃなくて……」
──どういうことだろう。両手の指を落ち着きなくすり合わせながら、口をモゴモゴとさせている。
珍しく歯切れの悪いあやめに、大気は顔を覗き込んだまま辛抱強く待った。
あやめは大気の表情をうかがうように何度かチラチラと視線を送ってきたあと、おそるおそるといった様子で続けた。
「その、もし大気くんが嫌じゃなければ……もう少しだけ、一緒にいれない?」
大気の首のうしろがジワッと熱くなった。返事をするのも忘れ、あやめの顔を凝視する。
あまりに長いことそうしていたせいか、あやめの表情が不安げに曇りはじめた。それに気づいた大気は慌てて「もちろんです」と答えると、あやめの頭に手を置いて言う。
「私もちょうど、あなたと話がしたいと思っていました」
あやめが見るからに安堵した表情で笑った。それにつられて大気も微笑むと、またしてもいつの間にか彼女の頭に置いていた手に気づく。大気は内心の動揺を悟られないようにしながら、細心の注意を払ってそっと手をどけた。