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私はきっと幸福を感じる水準が人よりも低いのだろうか。

なんていつかを思い出してぼんやりと考えてみた。この言葉だけ見れば、酷く酷く可哀想で惨めな人間だ。実際私は惨めな人間なのだろう。酷く情けなく酷く頼りなく、1人で生きたいと口にするだけ口にしておいて、結局誰かに助けてもらわなければ生きていけないのだ。例えそれが自分にどんな仕打ちをしようと途端にどうでも良くなってしまう。
なんて、なんてつまらない人間なのだろうか。


___たったそれだけで嬉しく思えるなんて。


◇◆◇




「あーこの高校ね。そうね、別に良いんじゃない」

冷えた声が耳に届いた。そう言って私が手渡したパンフレットにさっさと目を通していく親戚の人。パラパラとパンフレットを捲る音が静かな部屋に響いた。彼女は真白をこの家に住まわせてくれている人の一人だ。

「本当ですか」
「ええ」

その返答を聞いて、良かったと不安でざわついていた胸を撫で下ろす。表情はどうにかなっても、気持ちまではどうにもならず内心凄くビクビクしていたので彼女の言葉にほっとした。


「あ、あとバイトを始めようと思っているのですが…」
「ふーん…。構わないわ、勝手にしてよ」

別に興味はない。とでもいうように彼女から発せられる冷たい声が私にずしりと突き刺さった。
彼女は私のことが嫌いだ。こんな居候早くいなくなれ、なんてきっと思っているのだろう。言葉ではっきりと言われたこともあるし、態度がそれを物語っている。ただ向こうにも私を追い出せない理由があったりもするので、行動には移さないだけである。

私だってできることなら__、それ以上は決して口に出してはいけないものだ

仕方ないんだ、仕方ないよ。何たって私は要らないんだから…。またいつものようにそう心の中で繰り返し言って唇を噛みしめた。この問題たちはきっと時間が解決してくれるはずだ。高校を卒業すれば仕事を始めて家を出ればいいのだ。それまでの辛抱だ。

「じゃあ、もう私は部屋で休むから」

パンフレットを雑に私に突き返すとそう言って彼女は部屋から出ていく。

「はい、おやすみなさい」

頷いて小さく返した。相変わらず返事は無かった。でも心做しか何時もよりも心持ちは軽かった。


◇◆◇



今日はいつもよりラッキーだった、と自分の部屋で呟いた。確かにあの態度は堪えるものがある。しかし、よくよく思い出してみろと自分に促す。
なんたって今日は、いつもみたいに誰も叩いてこなかったし、蹴られなかった、それに暴言もなかった。
しかも、あの高校で良いと言ってくれた。

ほら、ラッキーじゃない。


今日の出来事を思い出しながらゆっくり目を閉じる。ベッドの上に横になって、少しニヤける口をそのままに右手を閉じた目の上に置いた。

瞼の裏で桜が舞う。いや、舞ったような気がした。もしかしたらまたあの夢に引き込まれるのだろうか。あの夢のように日々を過ごせたならきっともっと素敵だった筈なのになあ。ほら、またそんなことを考え出す。多くを望むことは良いけれど、それは確実に私の今の気持ちを真っ暗にさせ、足元に纏わりついて邪魔を始めてしまう。考えないようにしないと。

「……」

あーあ、結局明日だっていつも通りつまらないんだろう。考えないようにしないと、と思いながらもつい考えてしまった。そして今日が偶然幸運だと云うことも思い出させる。そんなことを考えながら布団に潜りこんで深い眠りについた。


◇◆◇



私は至って普通の家庭に生まれた。
小学校に入る前の記憶は全くといっていいほど残っていないので、父についての記憶はほとんど覚えていないし、母は真白が小学校に通っていた時にとある事故に遭い今もずっと眠り続けている。所謂、植物状態というやつらしい。あまり難しい説明はよく分からなかったため、母の状態はその時はよく分かっていなかった。

そのため、育てる人が居なかった真白を仕方なく預かってくれたのがこの家の人達だった。まあ色々と理由があったので快くとまではいかないが、それでも預かってくれた。そこまで良い思い出はないけれど。
ただ毎日のように暴力をうけ、暴言を言われ続ける日々だ。

しかし、数年もすればそれらにも慣れてきてしまっている。決して慣れてはいけないはずなのに…。
きっと傍から見れば相当歪で狂っていておかしな家庭に見えるだろう。いや、自分だって最初はそうだと思っていたのだ。


毎晩毎晩声を潜めて泣き、痛みに悶えてまた泣き、母を呼んだ。答えてくれるはずなどないのに。時には父のことさえ呼んだ。自分の心にほとんど残っていない父をだ。

それだけ苦しかったのだ、最初は。

しかし、少し時がすぎれば諦めてしまい、影で滑稽に思いながら曖昧に生きた。いや、今だって曖昧に薄ぼんやりと生きている。
今では吐かれる暴言は目をぱちぱちと瞬かせ、いつ終わるのだろうと聞き流し、暴力は時計を横目にただされるがままに受ける。
たまに命の危機も感じるが心が麻痺しているのか、やはりぼんやりとした思考に浸ってしまう。生きていられればそれで良い。母が起きた時に私だけでも居ないときっと悲しむから。

しかし、そんな風になってしまう自分が心底嫌いだった。心の底から憎かった。だから、ここから抜け出したかった。出来ることなら今すぐにでもだ。

でも、いざそれを実行しようとしても何も良い案は思い浮かばなかった。
結局高校も近場に決めてしまったので家から通える距離にある。まあ、あと3年くらいならいいか。我慢しよう。

(ふわり、ぼんやり)
(結局、曖昧が一番楽なんだよね)

たまにはいい日もある
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