「…魚だ」
海の中を電車が走っている。
波なんて感じられないただ大量の水があるだけの海は暗くはなかった。ドアの隙間から滲み出る海水なんて気にせず電車は往く。電車なんか気にせず泳ぐ魚が、凄いスピードで通り過ぎていく。
__あ、夢だな。
明晰夢ってやつだ。ありえない光景にそう確信して私は周りを見回した。何人かの人がこの電車には乗っていた。みんな顔は影がかかっていて見えなかった。
彼らは革靴やローファー、ズボンの裾を濡らす水のことなどさして気にしてはいないらしい。
「……」
ちゃぷちゃぷと子どものように水の中で足踏みをして、感覚はないのに遊ぶ。現実のような靴下を濡らす気持ち悪さはなく何だか楽しかった。
「__名前」
「…なに」
私は右隣に座る"その人"を先程から視界に入れないようにしていた。次に視界に入れてしまったらきっと泣いてしまうだろうから、と。その努力も虚しく彼が声をかけてくるものだから、ついそちらを向いてしまった。
久しぶりに見た気がする片割れは、ぼんやりと前の車窓に映る自分を見つめているらしかった。
先程まで泣きそうだったくせに、涙も嗚咽も出てこなかった。ただ漠然と私を貫いた違和感が重く重く鉛のように沈下した。
あれ、悠仁ってこんな声だったっけ。
数日一緒にいないことはあっても、こんなに長い期間隣にいないなんてことは今までなかったような気がする。傍から見ればそこまで時間が経って居ないのだろうけど、薄情にも既に彼の声が聞き慣れないそれに変化していた。
「あのさ、名前」
「うん」
「……見られてるよ」
「見られてる?」
何が?どういうこと?誰が?誰を?
頭に浮かんだ疑問符はすぐに消えていく。悠仁に倣って前を向けば、小学生くらいの中性的な顔立ちの子どもがただひたすらにハイライトの消えた瞳で私だけを見つめていた。
目が合えば、彼?彼女?はにっこりと綺麗に笑う。そしてそっと私の隣を指さした。その子が指をさす方、悠仁の方を向く。先程まで隣に座っていたはずの悠仁が悠仁じゃなくなっていた。
「…両面宿儺」
兄によく似た、でも違う彼。詰まらなそうに前を向く横顔を見て私はポツリと呟いた。顔のその刺青のような模様も、悠仁はきっと自分から着ないだろう着物も見慣れない。
私は両面宿儺に会ったことはない。悠仁が指を食べたというのも五条先生から聞いただけで見てはいない。何回か悠仁の頬や腕に勝手に出てきて話しているのをぼんやりと隣で見たことはある。でもやっぱりどんなやつかは知らない。それなのに私は、今隣にいるそれをちゃんと両面宿儺だと認識していた。
兄を返して欲しい、そう呟くことはしなかった。何となくだが、まだ悠仁は死んでいない。現実を認めたくないと笑われたっていい。ただ、まだ、漠然とそう思っている。
「悠仁、元気にしてる?」
「……」
特級の中でも恐ろしいとされる呪霊なのに私はちっとも恐ろしさを感じていなかった。まるで悠仁が生きているかのようにそう呟いて隣の彼に笑いかければ、両面宿儺はチラリと私を見た。そして忌々しげに口を開く。
「小娘、お前はすでに知っているだろう」
「……」
「……ちっ、双子ほど面倒なものはないな。ただの双子なら良かったが、小僧も小娘も異質だ。繋がりは深いのに根本が違う。お互いに影響されやすいというのに…。お前たちは本当に__か?…いや、気にするな」
一体何の話をしているのかは分からなかった。ただ、私の求めている答えに彼は応じてくれなかったということだけはよく分かる。しかも、途中で声がミュートになったように消えた。私たちがどうかしたのか?聞きたいが、何故か聞けなかった。
それにしても思ったより饒舌だ。結局この数秒のやり取りで特に感じたのはそれだった。
「……?」
「ぼんやりと、安穏としているだけかと思えば、小娘の方が小僧よりもよっぽど恐ろしい。……だが、お前の"それ"は"面白い"」
だからさ、結局何を言っているんだ?と話を続ける彼に首を傾げた瞬間、走行していた電車が急ブレーキをかけた。夢の中だというのにリアルに揺さぶられた身体をどうにか横に倒れないようにしていれば、すぐに電車は何事も無かったかのように動きだす。一体なんだ?と思いながら、また右隣を見た。
「……いない」
隣にいたはずの悠仁もそのあとにいた宿儺もいない。ぽつぽつと乗っていた顔も見えない乗客も姿は見えない。夢って不思議だ、そう考えながら前方へと視線を移した。私の目の前に座っていた子どもは相変わらずそこにいた。
にっこりと笑っていた顔は何処へ行ったのか、ただただ感情の見えない真っ暗闇が私を睨みつけていた。そして口を開く。
「……___」
それが言葉として聞こえる前に私の意識は浮上してしまっていた。
目が覚めて最初に感じたのは首のこりだ。あとを引きずるような眠気も倦怠感もなく、すんなりと起きることができた。どうやら勉強机に突っ伏して眠ってしまっていたようだ。状況を確認したあとは、時間を確認しようと壁に掛けられた時計へと目を向けた。
19時33分。
そう示された時計を見て、約30分くらい寝ていたのだということを理解する。首に手を当て回そうと思った。しかし、すぐにやめた。そういえば何かのテレビ番組の特集で、首は重要な神経があるところだから首の音を立てて回したら危険だとか言っていなかったか。それが頭を掠めたのだ。首をゆっくりと横に傾げるだけにしてから、ぐっと伸びをする。
「……コンビニでも行こうかな」
寮生活とはいえ呪術高専は他と異質であるためか規律が普通に甘い。この前も21時前に先輩たちとコンビニに普通に行った。何なら先生にお小遣いを貰ってだ。まあ任務によっては深夜も駆けずり回るような所だ。俗にいう深夜徘徊は黙認されているわけだし。普通に19時や21時に出歩くことなんて造作もない。何となくある門限も出ては行けない、というよりはできるだけ出歩かないでね〜くらいの存在だ。
トークアプリを開いて、先輩たちや同級生にコンビニに行く旨と何か要るものはないか尋ねる。真希先輩だけ「カップのアイス」で、他は「いらない」という返事だった。真希先輩から返ってきたアイスという返信に、私もアイスが食べたくなってきた。コンビニに行こうとは思ったが、何を買おうかまでは決めていなかったのだ。
「……あ、棘先輩からだ」
大丈夫。いらないよ、という返信から数分して届いたメッセージを見る。
【暗いから一緒に行く】
表示されたその言葉を読んで笑みをこぼす。最近、先輩方に過保護だとからかわれている棘先輩は、私から見ても確かに過保護だ。
まだ19時だよ。もうすぐ20時だけど。普通の高校生ならまだしも私は人よりも腕っ節は強い。逃げ足も早い。今日は調子がいいのでぶっ倒れることはないだろうし。それを知っているというのにそういう気遣いをくれるので嬉しくなった。変に断るのは逆に失礼だと返信する。
【お願いします。5分後に寮の前で大丈夫ですか?】
そう返信すればすぐに既読がついた。OK!という意味を示す可愛らしいスタンプが送られてきた。何だこれ、猫?兎?謎の動物に疑問を持ったが、トーク画面を閉じて出かける準備を始めた。といっても、パーカーを羽織り、小さなバックに財布とスマホを入れるだけだが。それからローカットのスニーカーを履いて部屋を出た。
「棘先輩!」
「しゃけ」
寮の前に辿り着く前に棘先輩と会うことができた。棘先輩は、黒マスクに黒のスウェット姿のためか制服のときと色合いが変わらず何だか面白い。ニコニコしている私を不思議そうに見ているので、何でもないと首を振った。
近くのコンビニまでは近いといっても歩くと少しだけ距離がある。まあ高専の場所が場所だから仕方がない。先輩とぽつぽつとお喋りをしながら歩いていればあっという間についた。
いらっしゃいませー、という店員の声を聞きながら来店する。
「真希先輩はカップのアイスかあ。じゃあ最後に選ぼうかな」
「しゃけしゃけ」
店内を歩きながらそんな会話をする。1番奥のペットボトルが大量に並べられたそこの前に立ちどまる。そういえばこの前熱を出したときに1本ストック使ったんだよなあ。熱を出した時は決まって飲むスポーツドリンクを1本手に取った。普通に飲むと味が濃いので水で割るため減るのは少ないが、最近はよく発熱するため必須である。
ちらり棘先輩を見ると飴のコーナーをじっと見ていた。そういえばこの前も飴くれたな。術式も術式だからポケットにはいつも入っているらしかった。
私は次にヨーグルトの置いてあるコーナーを見た。この系列のコンビニか、特定のスーパーにしか置いていないお気に入りのそれを手に取る。これもストックが減っていたのだ。
私は、小さい頃もよく体調を崩して熱をだしていた。倦怠感からか食欲はなく何も受け付けない私を見て、死んでしまう!と勘違いした悠仁が涙目で買ってきたらしいこのヨーグルト。小さなフルーツの果肉が、ヨーグルトの甘さがちょうど良かった。本当は何も食べたくなかったが、悠仁が泣くからと頑張って食べたら意外と食べれた。そんな私を見た悠仁は、私が体調を崩すと決まってこれを買ってくる。そのせいか食べ物を受け付けなくてもこれだけは食べれるようになってしまった。
あーあ。また、私は悠仁のことばかり考えてる。
ブラコンというよりは、もはや依存しているような気がする。彼が当たり前にいた頃はこんなことなかったのに。
「すじこ、こんぶ」
「……うわっ、びっくりした。…と、棘先輩?」
ぼんやりしていた私を心配そうに覗き込んできた棘先輩と目が合う。彼の手にはのど飴が入った袋が握られていた。特に何もいらなくても来てしまったらつい何かを買ってしまうのがコンビニだなあ。そんなことをぼんやりと考えた。「すいません、ぼんやりしてました」そう言って小さく笑う。そんな私を見て棘先輩は私の頭を撫でた。思わず目を瞑ると直ぐにその手は離れた。
「こんぶ?」
他に買うものは?多分そう言ってる。まだ出会ってまもないが何となく言いたいことは分かるようになった。動きと言い方と状況、そしてその瞳。それを見て察せるようにはなったが先輩たちにはやはり敵わない。
「あとはアイスだけです。カップのやつらしいんですけど、真希先輩ってどういうの好きなんですか?」
2人でアイスの並ぶそこを覗き込む。棘先輩が1つのアイスを指さした。
「これですか?」
「しゃけしゃけ」
「おいしいですよね。私も食べよう」
「しゃけ」
同じカップのアイスを2つ取る。小さめのカゴにそれらを入れて棘先輩を見れば、棘先輩も何か買うらしくアイスをじっと見ていた。視線の先には棒アイスがある。しかも当たりが出るともう一本貰えるやつだ。
「これだとおすすめはこれで、これだとこれです」
「こんぶ?」
私が指さしたいくつかの棒アイスに視線を彷徨わせ、棘先輩は首を傾げている。それから私が指さした棒アイスのうち1つを手に取ったのを見て、レジに向かった。奢ろうとしてくれたが、さすがにと断った。
「さ、帰りましょ。溶けちゃいます」
「しゃけ」
そう言って2人で小走りで帰る。近いようで遠いような道のりはやはりあっという間だった。
寮の中に入り、共有の談話室まで来ると真希先輩がいた。「棘も一緒だったんだな」とぽつりと呟いてから、私に近寄ってくる。
「はい、真希先輩」
「ありがとう。いくらした?」
「いえ、いつもお世話になってるのでお金は大丈夫です!それよりも早く食べるか冷凍庫に入れないと溶けちゃいます」
そう言うと真希先輩は渋るが、私が引かないのも知っているためすぐに折れてアイスを受け取ると部屋に戻っていった。それを見送って私は談話室のソファに座る。何となく部屋にはまだ戻る気はしなかった。
「あれ、先輩もまだ戻らないんですか?」
「しゃけ」
私の左隣に棘先輩が座る。うん、と頷いた彼は、マスクを下げると袋から棒アイスを取り出してかぶりついた。それを見てから私もカップのアイスを取り出して蓋を開けた。店員につけてもらったスプーンで1口分をすくって食べる。
「おいしい〜」
「しゃけ」
久しぶりに食べたそれはほんのり甘い。私の大好きな優しい甘さ。思わず声にその嬉しさを乗せると棘先輩が「良かったね」というように微笑んでいた。
「先輩、1口いります?」
「……っ!?」
「ん?」
この美味しさを共有しようと声をかければ、棘先輩が固まってしまった。あれ、どうした?そう思って隣を見れば、こちらを見ていたらしい先輩の耳が赤い。視線はあっち行ったりこっち行ったりしてる。1口分すくって、もう一度「どうです?」と声をかけた。数秒してから溶けそうになったそれをパクリと棘先輩が食べる。
「しゃ、しゃけ」
「ですよねえ。おいしいですよね」
「ツナマヨ…?」
「良いんですか?じゃ、一口だけ」
食べる?と差し出された棒アイスを1口食べた。こちらも久しぶりに食べたためか懐かしい味が口に広がる。「美味しいなあ」と呟けば、棘先輩は軽く頷いた。
「こ、こんぶ!」
アイスが溶けないうちに食べてしまっていると、隣から嬉しそうな声が聞こえてくる。そちらを見れば、"あたり"と書かれたアイスの棒があった。
「私の言った通りですね?」
「明太子?こんぶ、ツナ??」
何?なんで分かったの?的な感じだろうか。それとも本当に当たったんだけど?かもしれない。驚いて私を見ている棘先輩に笑いかけた。
「昔からどのアイスに当たりがあるか分かるんですよ」
「いくら」
「また一緒の時はこっそり教えましょうか?」
なんて言ったら棘先輩は嬉しそうに笑う。つられて私も笑顔が零れた。
(そういえば先輩)
(……?)
(さっきの、間接キスってやつですね)
(…し、しゃけ!おかか!…ツナ!!)
(ふふ、逃げちゃった。"そうだね!いや違う!…誤解!!"って何の話だ?)