急速に廻り出した歪が嗤う

__...っ、...そ■□...ろ*□*ダ■?


頭の中に歪な声が響く。何を言ってるのか分からないのに、妙に纒わり付いてきて気味が悪い。それに伴ってガンガンと頭の内から殴られているかのような頭痛もあり、名前の気分は最悪だった。


名前は、軽く顳顬こめかみに手を当てて小さく息をつく。

「.....」
「知ってる?横の廃ビルついに壊されるらしいよ」
「そうなの?何か結構揉めてたって話だったけど...」
「でも良かったんじゃない?見た目からしても気味悪かったし」
「この辺じゃ有名な心霊スポットだったもんね」

昼過ぎから予定されていた会議が終わり、小休憩をとることになった。集まって雑談を始める同僚達に交ざっていたが、不調のためか中々その話題に集中できない。

会議の間はどうにか持たせていたが、そろそろ限界かもしれない。遂にはゆらゆらと揺れ始めた視界に名前は唇を噛む。こうしていても事態は変わりそうにないが、多少の痛みであと数時間だけ持って欲しいなんて思いながら、手に持つ水のペットボトルの蓋を開けて少し口に含んだ。


「__.....、ね?七海ちゃん」
「えっ、あ.....、ごめん。ぼーっとしてて聞いてなかった」
「大丈夫?昨日も思ったけど、顔色悪いよ?」


同僚から声を掛けられてはっとする。一人が名前の顔色の悪さを指摘すると、他の子たちも「確かに...」と頷いた。


「......もしかして、新プロジェクト大変なの?」
「うーん。大変といえば大変かも.....」
「しっかり休みなよ」
「うん。今回は色々初めてのこともあるから、疲れてるだけだと思う」

普段の業務だけでなく新しいプロジェクトの資料の読み込みや、資料作り、関連する文献などでの学習に会議などやらなくてはならないことが増えて大変ではあるが、それはそれでやり甲斐があると感じていた。

しかし、いつものプロジェクトとは違う部分も多くあるため、慣れない部分や取り組みも多々ある。それによって疲れが溜まっているのかもしれない、と考えながら同僚の言葉に返答する。


「結構大きめのプロジェクトだし、気付かないうちにストレス溜まってるのかもね」
「そういう時は美味しい物食べて寝るに限る」
「私は温泉にエステ、あとは買い物に...」

なんて新しい話題について話し始める子たちの会話を聞きながらこくこくと頷く。

「ま、その前に1回病院行っといた方がよくない?その顔色はやばいって」
「確かに。こういう時って何科?内科?」
「さあ...」

最近頭痛も治らないし、倦怠感も強い。確かに彼女たちの言う通り1回病院には行っておくべきかもしれない。そんなことを考えながらその会話を相変わらず頷きながら聞いていた時だった。

「ちょ、七海ちゃん。鼻血鼻血」
「え...、あ?」

そう指摘されて初めてそれに気付く。つい鼻を押さえると生ぬるいものが手に当たる。

「ちょ、誰か拭くやつ!
「え、え?これとか」
「ばっか、それ書類よ!」
「焦りすぎて間違えた」
「はい、ティッシュ!」

名前よりも同僚の方が大慌てである。「下を向け」だの「いや、上じゃない?」だのと言われ顔を上げる角度を言われるがまま変えたり、「この辺押えると良いらしい」と言われたところを押さえる。

幸いすぐに気づいたため服や床にも被害はなかった。誰かが持ってきてくれた椅子に座り片手はティッシュを持ち鼻に当てつつ、もう片手で鼻を摘む。思った以上に量は出ず、すぐに止まったが、小休憩の時間のはずなのに疲れた。口の中も鉄の味がして少し顔を顰めてしまう。

「大人になって鼻血でこんなに大騒ぎするなんて思わなかった」
「私も」
「...ごめんなさい」

ちょっとした騒ぎを起こしてしまったので、謝ると同僚たちは「こんな日もある」と言って肩を叩いてくれた。それにこくりと頷いて、まだ違和感の残る鼻を手で押さえる。


「.......」

頭がまたぼんやりしてくる。最近、こんなことばかりだと考えながら、腕時計に目をやる。あともう少しで設定された小休憩も終わる。それから少し時間が経てば定時が来る。会議が長引くこともあるため、するべき業務は、前もってできるものは昨日までに終わらせていたし、今日の分も午前中にはある程度はできているから...、とまで考えて少しだけ目を閉じる。


__□■□、あ□■□っ、.....?


おかしい。ずっと、おかしい。

__こえ が ひびいている。

嫌な声だ。もう聞き飽きた。うるさい。くるしい。静かにして。

「......."おまえ"は一体何なの?」

誰にも聞こえないくらい小さくぽつりとそう呟く。"それ"が何かは知っている。知っているけれど、分からない。

今までなりを潜めていたくせに、ここに来て存在を主張してくるだなんて思いもしなかった。傀からの声は何だか遠いし、視界の隅にいる"ばけもの"たちの様子も変だ。


__きっと何かが起こっている。もしくは起こる前兆だ。


それを何となく勘づいてはいるが、名前は"ただの普通の人間"である。結局見て見ぬふりをするのが1番だろう。ただ自分が巻き込まれた場合のことも考えないといけないのだろうが、残念ながら対処する術などほぼ持たない。そういった場合はどうしようか。なんて考えてみてもどうしようもない。


__何かあれば、傀が勝手に"処理"を終わらせてくれるだろうし。


「七海ちゃん、そろそろ時間よ?鼻血止まった?」
「止まった...。ちょっと、手とか洗ってから戻るね」
「了解!先に戻るね」
「はーい」

同僚にそう伝えてから立ち上がる。少しだけクラッとしたがどうにかなりそうだ。_お手洗いに向かいつつ、ふと窓から空を見上げる。

窓の外にはいつもと変わらない色の空が、いつものようにそこにある。


◇◆◇


「__.....明日が休みで良かった」

心底そう思いながら名前はいつもの道を歩く。どうにか業務を終わらせ退勤する頃には、気力だけで動いている状態だった。

病院に行かなければいけないのは分かっているが、もうそんな体力すら残っていないので明日行くことした。フラフラしながらもどうにか歩いていく。

タイミング悪く赤に変わってしまった歩行者用信号を見て、溜息をつきつつ横断歩道の前で立ち止まる。目の前を通過する車をぼんやりと見つめた後、ふと視線を目の前に移した。


「.....っ!」

そしてすぐに"それ"から目を逸らす。体感だがそろそろ変わるだろう信号に背を向けて、いつもは通らない道へと歩を進めた。


__体調不良なんて今はどうでもいい。早く、早く離れないと。


そればかり考えながら早歩きで、目的もなく進んでいく。


「"あれ"はヤバい。なんであんなに近くに...?」

"それ"が偶に遠くからこちらを見つめることはあった。その度に傀が煩くなるからあの気配はよく覚えている。今までこんなに近くに寄ってきたことはないはずだ。


__人の形をしたバケモノ。


いつもいつも、"昔"から時折存在を主張してくるそれがいつになく近くに、そして目が合った途端蕩けるような笑顔と突き刺すような気配をこちらに向けてきた。


「.....どうしよう」

いつもなら煩く騒ぎ立てる傀の声がやはり遠い。何かを言っている気もするがよく分からない。

頭の中でこの辺のマップをぼんやりと思い浮かべながら、名前は焦った。もしかしたら着いてきていないかもしれない。でも、着いてきていたら?そんなことを考えてしまって、後ろを振り向く余裕もない。

何処かに逃げ込みたいが、こういう時ってお寺などに逃げ込むといいのだろうか?自分の家はこの前"あの置物"が入ってきた前例もあるため決して安全ではないだろうし。


「.....工事中」

こういう時に限って、どうにか覚えのある道は工事で全面通行止めになっていた。はっと後ろを見る。見える範囲には何もないが、相変わらず嫌な気配のようなものが割と近くにある気がしてならない。

引き返すわけにもいかず、仕方なしに見知らぬ道へと入り込む。どうにか"あれ"さえ撒ければ、スマホのマップでどうにか帰れるだろう。

相変わらず頭痛はするし、身体も重いが、それでも歩を止める訳にはいかない。


「.....何かいる」

細い道に入ると、視界の端に何か動くものが時折入る。物もあるため隠れてしまってよくは見えなかった。それが猫などの動物なのか、それ以外なのかは分からない。目を凝らしている暇もないため、気にしないようにして進んでいく。

この道を行った先が知っている道であったり、何ならバス停や駅が近くにあればそこを頼りに帰れるので、そういったものがあることを祈ることにする。


「やっぱり追いかけて来てる」

そっと振り返れば、先程は見えなかった人型がそこにはあって相変わらずニヤニヤと嫌な笑みを浮かべていた。何処かゆらゆらと揺らめいているので人間ではないことは確かだ。

人通りの少ない道を選んでしまったことを後悔しつつ、名前は歩くスピードを上げた。

「.....これじゃあ、撒けるわけないよね」

相手は"人ならざるもの"というやつだろうし。どうせ人もいないだろうからとパンプスではあるが走り始める。

不調な身体も危機的状況ではどうにか働いてくれるらしかった。

曲がり道を何回か曲がって、一応知っている建物や看板などがないかも注意しつつ走っていれば前方に人が見えた。焦っていたせいで気づくのが遅れて慌ててスピードを落とす。

「うわっ」

どうにかぶつかる手前で止まることはできたが、慌て過ぎたせいでそのまま前のめりに身体が傾く。


__あ、転ぶ。


この歳になって人前で盛大に転ぶ羞恥心を既に感じながら、思わず目を瞑った。


「高菜?」
「た、たかな?」

しかし、思っていた衝撃が来ない。そして急に鼓膜を揺らした「高菜」という言葉を思わず繰り返した。目を開けてみると、誰かが支えてくれている。

「あ.....、ありがとうございます」
「しゃけしゃけ」
「しゃ、しゃけ?」
「ツナマヨ」
「つな、まよ?」


慌ててその人から離れてお礼を言うと頷きとともに、また不可思議な返答のようなものが返ってきた。

色素の薄い髪で、口元を隠している男の子だ。思わず首を傾げれば彼も同じように首を傾げた。


「えっと助かりました...」
「しゃけ」


やはり不思議な返答の仕方なので、少し戸惑う。何となくだがおにぎりの具だろう。しかし、何でそれら以外の言葉がないのだろう。王様ゲームか何かで「〇番のお前、今日はおにぎりの具以外の言葉喋るな」という命令でもされたのだろうか。なんてことまで考えてしまう。


「あ、...えっと、本当にありがとうございます。私、行きますね」
「しゃけ」


しかし状況が状況であるし、相手は初対面。しかも明らかに年下だろう。追及はしない方がいいだろうな、と思いながらそう言って、後ろをちらりと見やる。

姿は見えなくなったが、何となく気配がある。きっとまだ近くにいるのだろう。一般人をこんなことに巻き込む訳にはいかないから、と頭を下げてからその場を足早に後にした。


◇◆◇


「.........」

狗巻棘は転びそうになったところを助けた女の人を見送ってから首を傾げた。

ゆっくりと辺りを見回すが、"何もいない"。何だこれは?と内心考えながら注意深く気配や視覚に何か映らないかと観察するが本当に何もいなかった。


__いや、居なくなってしまった。


家屋や施設が密集する場所であったことや、動き回る時間が人が多い時間であることだけでなく、今回の呪霊は行動範囲が広かったため、帳を張る前にある程度場所を特定するために偵察をしていたのだが、本日の目標を確認した途端にそれ自体がなくなってしまったのだ。


「.....明太子、いくら」

最近これに類似した報告は挙がっていたが、実際体験したことがなかったために狗巻は少々戸惑う。それからメッセージアプリを立ち上げて、補助監督や一応五条に連絡を入れた。


「.......__?」

一旦この場を離れよう、そう考えて踵を返そうとした時だった。足元に何か落ちているのに気づき、狗巻はそれを拾い上げる。

それは1冊の手帳だ。表紙のデザインからして女物であるため、きっと先程の女の人が落としたのだろう。色々な予定や個人情報も書かれているだろうし、正直人のプライバシーを覗くのは気が引けるのだが、何か身元が分かりそうなものはないか手掛かりを見つけるため、1番最後のページだけ開けばそこには丁寧な字で名前が書いてある。


__七海名前。


それを確認してから手帳を閉じる。狗巻はその名前に既視感がある気がした。


「こんぶ、明太子」

その名前をつい最近どこかで聞いた。それが何だったかを思い返していれば、スマホに通知が入る。五条からだ。

狗巻はその名前を見てはっとした。そうだった。この前五条が七海をからかっていた時に確かこの名前が出てきた。確かその時、七海には妹がいてそれで名前が「名前」というらしい、というのを聞いたのだ。

それならこの手帳は一旦七海に彼の妹のものかを尋ねた後、もし違うなら交番に届けよう。そんなことを考えながら、五条から送られてきたメッセージを開いた。


(急速に動き出したそれが嗤う)
(そろそろカウントダウンを始める時間だね)


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