人は
確かにそうだろう。"仕合せ"なんて目に見えないものは急に唐突に降り注ぐものだ。
"幸せ"なんて平等に不平等に理不尽にやってくるものだ、__そのはずなのに。
簡単に手に入る者もいれば、それが手に入ったことに気づいていない者もいる。そしてどれだけ探したって、望んだって、掴みに行ったってそれが手に入らない者だっているわけで。
___ぽたぽたぽた
口から"赤"がこぼれ落ちる。生ぬるい、やけにドロドロしたそれは一瞬で手のひらを真っ赤に染め上げた。
「危なかった......」
"彼"はそう呟いた。どうにか間一髪で間に合ったことを安堵する。
「一体、.....どうしてだ?.....名前の身体ならこの魂にだって耐えられるはず。こんなに早く"ガタ"が来るはずないのに」
思いがけない出来事に、慌てて名前と入れ替わった
どうにか服も床も汚していないはずだ。鞄をその辺に放り投げてしまったが中身は大丈夫だろうか。
「.....」
口からまだ滴り落ちるそれがやけに鮮やかで傀は顔を顰める。鉄の味と臭いが酷い。気分は最悪だった。
「......さては、また"あいつ"の仕業か」
ストーカーみたいに永遠と追いかけてくる"奴"を思い出して傀は忌々しげに言葉を紡ぐ。
その1/3がこのいつにも増して"可笑しなご時世"に呼応して、名前の中で暴れ始めたのかもしれない。
「ようやく、ようやくだったのに」
傀は呻くようにそう零した。今にも力の抜けそうな身体を洗面台の縁に手を置き、体重をかけることで必死に耐える。彼の脳内に巡るのはもう遠い遠いあの日の言葉。今だってそれだけはやけに鮮明に覚えている。
__私はいつか"外"を少しでいい、見てみたいのです。
__私の代わりに"外"を沢山見てきて。
__もう1つだけ約束して。
「ようやく僕は、......
__私の魂を食べて。
承知しました。
__あなたが思うように精一杯生きてね。そして動かなくなって。約束よ。
はい、分かりました。
だから、傀は彼女の半分の魂を食べかけて、それからはっとあることを思いついて、彼女の魂を抱えて輪廻を巡ることにしたのに。
本当は"あの子たち"に散々言って怖がらせたように、未熟な魂がこれからもっと美しく、美味しくなるはずだっただろうと後悔して食べかけた訳ではなかった。
いや、一緒に入りこんでしまった呪霊の意識でそう思ったこともあったかもしれない。完熟した魂が食べたい。強い力を手に入れたい。そういう本能に侵食されかけたことだってあったかもしれない。
呪霊の意識をひたすらに抑え込んでから随分経ったからよく覚えてはいないけれど、今はもうそんなことないのだ。この魂を抱えて廻っているのにはちゃんと意味がある。
「.....げほっ」
口からまたそれが溢れる。それが堪らなく苦しくて、生理的に涙が目に浮かんだ。
「ああ、.....くそっ」
誰にも邪魔されず、姫様が、彼女が巡るはずだった生命に宿って、彼女と"外"を見ること。彼女が幸せに生きる姿を見守っていくこと。
それが傀にとっての"思うように生きること"だったのに。
今まで沢山邪魔された。
__人に、呪霊に、呪術師に、そして自分自身に。
魂が適応できない身体はどうしようもなかった。でも輪廻を辿るのなら宿らなければいけない。あの子もその子のことも本当は苦しませたくなんてなかった。
_だから、ある日呪術師を頼った。
もしかしたら、と縋った。しかし奴らはダメだ。彼女たちのことを"呪霊を引きつける餌"としか思っていない。信用ならない。
_それならばと呪霊を頼った。
あの時の僕は疲れ果てて混乱していて、どうかしていたから、つい頼ってはならないものを頼ってしまった。結果、また彼女たちを殺してしまうことになる。
今まで術式を持たない子にしか宿らなかったから、こちらが関わらない限りほとんど呪術師には目をつけらることはなかった。
ただ名前には建人という呪術師の兄がいる。やはり彼は呪術師となったから、見えないふりをさせておいて良かった。2人が幼い頃から、傀は必死になって彼とお互いに興味関心を抱かないようにさせてきた。彼はこちらに恐怖を滲ませていたからそれは簡単だった。誤算があるとすれば、呪術師を辞めたはずの建人がまた呪術師になったことだ。その頃には二人の関係は前よりも良くなっていた。
呪霊に関しては、昔 主人が
しかし、この魂が宿る子たちはみんな"ただのヒトの子"だ。触れて取り込んでも呪力を操れない。放出するしかない。
どうにか傀が補助をしてきたが、中には身体が持たない子もいた。狂って狂って、苦しんで惨めに死んでゆくのだ。
名前に関しては、他の子よりも魂と身体が順応しているようだったし、身内に呪術師がいることもあってか、取り込んで多少体調を崩しても上手く放出することができた。前回の魂が危機的状態で昔 主人が姫様に託した"護"の力が働き、そして"バグ"を起こしてしまったため、一定距離の呪霊を消し飛ばす力も持っている。
主人の強固すぎる結界の成れの果ては、名前が小さいうちはほんとに極わずかの範囲だったから、建人にも悟られることはなかった。それだけは救いだった。
「僕はただあの子が"外"を見て、それから彼女たちの好きなように生きて、生ききって、しあわせだったと死に向かってゆくのを見て、約束通り残りの魂を食べようとしていたのに。こんな残酷なやり方で
___どうして毎回邪魔をする?
もしかしたら僕が今までやってきたことは失敗だったのか?
呪霊から守りたくて、呪霊を嫌うよう仕向けるために"僕"は彼女たちにわざと色々言い聞かせて怖がらせてきた。僕に嫌悪を向ければ向けるほど、この非凡な力を忘れてくれると信じていたから。
呪術師なんていう信用のならないやつから守りたくて、"普通の子"になれるようにと願って沢山のことをしてきたのに。
特に見えてしまう名前には呪霊のことを、部屋の隅にあるホコリや塵とかそういったものと同じだと、気にしなくていいと、あれに関心を向けすぎるなと言い聞かせて、呪術師たちに"見える子"だと勘づかれないようにしていたのに。
「.....ごめん。ごめんね」
気の遠くなるくらい前に忘れてしまっていた"悲しい"という感情を久しぶりに思い出した。主人の意識から無理やり切り取られてきたものなのか、名前に宿るそれが出てきたのかは分からないが、その感情が今にも飽和しそうなくらいに胸にいっぱいで、傀は真っ赤な口元を拭くこともせず顔を歪ませる。
「......今の時代には五条の六眼を持ってる奴がいる。そして宿儺もいる。アイツらのおかげで呪霊たちの均衡が可笑しい。おかげで変に強力な奴らが集まってきている」
勝手にやり合ってくれるのならそれはそれで良いが、どうにも巻き込まれそうな気がしてならない。
もしかしたらこの生は諦めた方がいいかもしれない。余計なことに巻き込まれると、名前のことを、この魂を、付け狙う"奴"に不意をつかれてしまう可能性がある。
「いっそ共闘関係にでもなってみるか?」
__.....それはダメだ。
呪霊はもちろんだが、呪術師なんてクソだ。
例え名前の身内がいたとしてもだ。彼らが"ただの一般人の彼女"には好意的でも、"これ"をばらしてしまえばどうなるか分からない。
例えば、彼らによって"魂"の均衡を保つ傀が無理に封印されてしまえば、名前はすぐに壊れてしまうだろう。それを知らないアイツらはきっと傀のことを厄介がって、名前のことを哀れに思ってきっと弄ってくる。
「でも、もうそろそろ"奴"もどうにかしないといけない」
呪霊たちの均衡が可笑しくなっているせいで、"奴"の力もいつもよりも強力だ。どうにか必死に押さえ込んでいた"奴の意識"がまた出ようとしてるので、よく分かる。
万が一でも呪術師が"好意的"なら一緒にどうにかできたかもしれないが、それを解決した途端裏切られる可能性は高い。こんな体質の人間が近くにいて放っておけるほど呪術師は阿呆ではないのだ。
「ごほっ、.....げほっ」
さて、どうしようか。
「__"奴"をどうにかしない限り、持たなくなるのは名前の方だ」
未だに溢れてくる血を忌々しげに見つめて、それから傀はゆっくり目を瞑る。
「ごめんね、名前。どうかまだ僕に
("普通のしあわせ"が欲しいだけなのに)
(どうしていつも用意されていないの?)