知らないままでいられたなら

「……人食い虎」

それは後から思えば余りにも余りにも唐突な出来事だったような気がする。
頭の奥の奥の方から鈍い警告音のようなものが聞こえてきて、僕の中に何か知らないものがぐるぐると蠢き、そして何かを形成していくような、そんな感覚がした。

「僕…ぼく、………あれ?私?」

自分の口から紡がれた音を耳が拾う。
え?僕は今なんて云った?私…、確かに私とそう紡いだ。そこまで考えて頭が真っ白になった。



◇◆◇



特に行く宛もなく、ゆっくりゆっくりとアスファルトを踏みしめて歩いていた。
ふらりふらりとぼんやりとした思考を引き連れて僕は歩いていた。
どこを見渡しても知らない道、知らない景色、知らない匂い、そして知らない人々。
自分だけこの世界から切り離されてしまっているような気持ちになって瞬きをする。変わらない。

少し人が多い通りを通ればすれ違う人々が自分の姿をちらりと見ているのに気づいた。
まあ仕方ないと云えば仕方ないのだろう。今、自分が身につけている服は若干汚れていて、穴が所々に開いていてボロボロだしなあ。こんな襤褸ぼろを来た人間がいれば奇妙に感じて視線がいくのだろう。その視線がなんだか嫌で俯いて溜息をつくのだ。


なんでこんなことになってしまったのだろう。

施設を追い出されてもう1週間ぐらいになるだろうか。とある優しいお婆さんが分け与えてくれたあのパンも昨日の昼にはなくなってしまった。
もう少し考えて食べれば良かったなあ…。どうにかなる、なんてお気楽なことを思いながら食べきってしまった昨日の自分を殴りたい。が、今更後悔しても遅いしなぁ…。

「お腹、空いたな…」

ぐぅぅ、と先程から頼りなく鳴るお腹を片手で押さえてはぁ、とため息をついてまたとぼとぼと歩き出した。お腹と背中がくっつきそう、そう云う喩えを思い出して、今の状況を表すのに的確な言葉だと思った。


少年、……いや少年の格好をしている少女の名は中島尊と云うのだが、そちらの名前を使うことはほぼない。代わりに中島敦と名乗っている彼女は途方に暮れていた。

孤児院育ちのため勿論、帰る家なんてものはない。そして先程も云った通り何処にも行く宛はない。
どうにかしなければ、と頭を働かせてこの状況を打開できる策などを考えてはみるが、何も浮かんでは来ない。どうしたものかと思いながら人気の無さそうな路地へと入りこみ建物の壁に体を預けて座った。
壁の無機質な冷たさが背中に当たり、無性に悲しくなった。
ふと顔を上げてみれば、建物の隙間に見えるそこはとても綺麗な橙色に染まっていた。その優しい光でさえも今の自分には眩しく感じて目を細める。


「此処なら大丈夫だろうか」

橙色が段々と紺色へと変わっていく様子をただ見つめながらため息混じりに呟いた。誰に問いかけるわけでもなく、ただただ口から出たその言葉には力はなかった。

「……」

矢張り何処へ行っても頭を横切るのは彼奴あいつの事ばかりである。真逆こんな所まで追っては来ないだろうとは思うが、それとは裏腹に更に体を縮こまらせた。

"彼奴"と云っても人ではない。
彼奴とはとある"虎"のことだった。


「人食い虎、か……」

つい先日彼奴がそんな風に呼ばれているのを聞いた。人を食ったという話は知らなかったが、やはりあいつは危険だったらしい。却説、本当にどうするか。これからのことも、あの虎のことも。
文字通りお先真っ暗ってやつだ。これからのことに見通しなんてついていないせいで、気分も色で表すなら黒、つまり真っ暗だ。

深い深い紺色の空から視線を外し、道路を見遣る。そこに見えたのは、楽しそうに笑いあったり、忙しそうに駆けていったり、難しそうな顔して思い悩む人々だった。同じところで息をしているというのに、どうしてこんなに違うのだと自分を恨めしく思った。
そして、視線をまた空に戻し、特に意味もなくもう一度その言葉を紡いだ。


「……人食い虎。…いッ…」

もう1度そう云ったのと同時に頭の中で幾つもの映像がグルグルと回り始める。
それと同時に頭に割れんばかりの激痛が伴い始め、段々と耳鳴りが酷くなっていく。
突然のことに驚きつつも、両手で頭を押さえて震えながらその激痛が遠のくのをただただ待った。


どれくらいの時間が経っただろう。
それは一瞬のことだったように思えるし、迚も長い間こうしていたような気もする。
顔を上げればあたりは既に暗くなっており、路地を抜けてすぐの所にある街灯の淡い光が射し込んでいるだけだった。

「僕…ぼく、……あれ?私?」


自分の口から紡がれた音を聞き逃すことなく耳が拾った。
ん?私?と何故か自分から出たその一人称に疑問を持つ。
確かに自分の性別は女である。
だが、幼い時から一人称は僕だった筈だ。
一体どうして…?とそう思考を巡らせた瞬間、サアッと霧がかかったように頭が真っ白になった。


「文豪、…ストレイドッグス」

掠れた声が路地に響くことなくスッと消えていく。
今、自分が呟いた言葉は昔読んだとある漫画の題名である。昔と云っても、中島尊ではなくその名を貰うよりもずっとずっと前に読んだ漫画の名前。
ああ、悪い夢なのだと思いながら、確認のために頬を摘んでみた。きっとこれは夢の中なのだという期待を持って思いっきり摘んだ。
しかし、鈍い痛みが其処にはあって堪らなく悲しくなった。

「…う、そ…」

どうやら自分には所謂 前世の記憶というものがあり、何故かそれを思い出してしまったようだ。
と云っても全部思い出した訳ではない。断片的な例えるならパズルのピースのような記憶が頭の中でふわふわと浮かんでいる。
その中の一つにその漫画の題名があった。

中島敦。
文豪ストレイドッグスの主人公の名前。
自分は中島尊ではあるが、日常では中島敦と名乗っている。
そして、…人食い虎の件。
それを合わせて考えつくことは、


「私が中島敦…?」


ということだろうか?
もし、もしそうだとすると私は成り代わってしまっている。という所まで思考が巡る。

成り代わり、あれ?ということはつまり僕が人食い虎なのでは…?


(そんな、、きっと何かの間違いだ)
(嗚呼、知らないままでいられたなら)

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