*組織の下っ端夢主
母はいなかった。わたしが生まれたときに死んだのだと聞かされている。父はいつもなにかに怯えるように生活していた。仕事以外で出かけることはほとんどなく、仕事で外に出るときも必ず帽子を目深にかぶった。帰宅すると彼はバケツをひっくり返すように酒を飲み、寝た。父にとって起きている間の生活に安寧はなかったが、眠りの中にも平穏はなかった。暗い部屋で眉間にしわを寄せてうなされる父のうめき声は、生活の一部だった。携帯電話が鳴ると恐々と電話に出て、慌ただしく外に出ていく。帰ってくると台所へ駆け込み、冷蔵庫の前で浴びるように酒を飲む。彼は眠っても癒されることはなく、月日が経つごとにその精神がすり減り、なくなっていく様子が目に見えた。
父が死んだのは中学校の卒業式に参加していたときだった。家には二人組の男と床に倒れ伏した父がいた。男のひとりは銃を持っていた。その銃口が灰色の煙をあげてわたしを威嚇する。
「……土足」
男の足元を見て、思わず口に出してしまった。せっかく昨日床拭きをしたのに、と心の中で付け加える。ずんぐりとした背の低い男がわたしに太った指を突きつけた。
「どうしますか、コイツ」
長身の細い男がわたしに銃を向けたまま近寄ってきた。男からは死の匂いがした。銃口の黒い穴から目がそらせない。わたしの背後には大きな鎌を持った死神がいた。そしてその鎌はいまにも振り下ろされんとしている。
「死にたくないか」
男は低く訊ねた。わたしは小さくうなずいた。床に横たわる父が目に入る。額の真ん中に小さな穴が開き、そこからダラダラと赤黒い血が際限なく流れ出ていた。翳った瞳が呆然と宙に視線を投げ出している。足元の床が抜けたような、内臓がふわりと浮かび上がる感覚に襲われる。
気づくと男たちの車に乗せられていた。車が揺れると座席の下に投げ出された死体が転がり、足に当たる。わたしは決して下を見なかった。
「裏切ったら父親と同じ道をたどることになる」
彼らの言葉は脳と心に重く深く刻み込まれた。
* * *
中身を聞いてはいけない荷物を運ぶことにも慣れた。今日も人ひとりが入りそうな重いスーツケースを指定の場所まで運び、顔見知りの処理屋に手渡してきた。ここのところ、組織は慌ただしい。今までにないスピードで人を“処理”している。
疲れ果てた体を引きずって、ようやく家にたどり着いたのは朝日が昇り始めた頃だった。とにかく眠りたい。機械的に足を動かして階段を上った。鍵を差し込みドアを開ける。玄関に足を一歩踏み入れたところで、わたしは自分の部屋にありえない匂いがすることに気づいた。煙草の臭いだ。とっさに一歩後ずさる。目の前にある暗い部屋はいつもと変わらないはずなのに、なにかがおかしい。身を翻して逃げようとした。
突然、大きな影が前に立ちはだかり、わたしの腕を掴んでひねり上げた。アッと声を上げる前にすべては決着がついていた。手首に冷たい鉄の輪がかかる音がした。
捕まった。――誰に? 背筋に冷汗が流れる。個人的に恨みを買ったような覚えはない。でも、組織の一員として恨まれている可能性は大いにある。殺されるのだろうか、あの日の父のように。わたしは目を閉じた。死んだ父の濁った目がこちらを見ていた。
「高崎」
聞き覚えのある声がした。おそるおそる瞳を開けて仁王立ちしている人物を仰ぎ見る。わたしはあんぐりと口を開けたまま固まった。
「……バー、ボン」
そこに立っていたのはスーツを着た、組織の優秀な探り屋だった。彼がコードネーム持ちになったばかりのとき、顔を合わせたことがあった。それ以後、彼から仕事を頼まれたことも何度かある。
「なんでバーボンがここに? なにが起きてるの?」
努めて平静を装う。なんでそんな格好をしているのかという言葉はすんでのところで飲み込んだ。スーツに身を包んだ彼はまるで警察みたいだった。
バーボンはなにも答えなかった。そのかわり、わたしの腕をつかんで引っ張った。無理やり立ち上がらされて足がもつれて転びそうになる。上ったばかりの階段を下りて、いつの間にか止まっていた車に乗り込んだ。わたしがおとなしく後部座席に収まると、バーボンが運転席に座り、助手席には見知らぬ男が座った。眼鏡の上からのぞく眉毛が特徴的だった。
車がゆっくりと発進する。景色が流れるように変わって、次第に都心へ近づいていった。最近はこのあたりに来ていなかったことを思い出した。昔は道路に立つ警官を見てもなにも思わなかった。一方的に後ろめたさを感じるようになったのは、この仕事を始めてからだ。
どきどきと心臓の音が激しくなる。車通りのほとんどない深夜の道をわたしを乗せた車は静かに走り抜けた。バーボンはある建物の前でゆっくりと徐行を始めると敷地のなかに入った。背中の後ろで手を固く握りしめる。バウムクーヘンのかけらのような覚えやすい形をした建物の入口前で車が止まった。
どうすればいい? どうすれば逃げられる?
必死に考えた。でも、わからなかった。上から指示されたことを遂行するしか能のないわたしに、自らピンチを切り抜ける力などあるはずがなかった。
バーボンが――わたしが仲間だと思っていた男が、スーツの内側に隠された銃をちらつかせた。妙な動きをすれば殺すというジェスチャーだろうか。小さな赤黒い穴が自分の額に開くところを想像した。ジンの研ぎ澄まされたのこぎりの歯のように冷たい声が喉元を撫でた。
――裏切れば殺す。父親と同じように。
絞首台へ向かう死刑囚のような重い足取りでわたしは警視庁に入った。