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2ーーー年。かつて人は、重力の井戸の底から宇宙の星々を見上げるだけに過ぎなかった。宇宙進出を夢見た黎明の時代、月面移住も火星開拓もどちらも夢物語に過ぎなかった。
人間という種の起源たる地球。強い重力と分厚い成層圏を持つ地球は、その中で生涯を閉じることも厭わないほど、多彩な美に溢れているという。そんな歴史の教科書の中だけの実情に思わず納得してしまうほどに、『それ』は美しかった。
初めて月を見た時のような白々しいものではない。泣きたくなるほど、切なくなるほどに、美しかった。





轟音、というにふさわしい。商用の四輪バギーにあるまじきエンジン音があたりに響きわたっていた。エンジンは高回転し続けたせいで高い音を立ててその限界を知らせようとし、マフラーからはサイレンサーで消しきれなかった排気音が重く鈍く鳴り響き続けている。ひっきりなしに電子会話を求めるコール音が耳に突き刺さり、運転者のストレスをひどく煽り続けている。
限界までアクセルを踏み込むから、回転数がレッドゾーンに入っては戻り、またレッドゾーンに入るを繰り返していた。エンジンの回転数がレッドゾーンに入れば、バギーの安全装置が勝手に燃料の供給を止めるせいである。ぶっ壊れてもいいから常にレッドゾーンにいてくれよ!そう叫ばずにはいられない心境であったが、無改造のピカピカ純正バギーに言ったところで無意味である。その代わりか、加速はそれなりにいいので追っ手を撒くためにフラフラと蛇行してみたり、急カーブを極めてみたりとしているのだが、一向に減る気配はない。しかしきちんと動いておかないと、追っ手は容赦なく発砲してくる。奴ら私のこと殺してもいいと思ってるんだろうな。
そう漠然と思うが、それによる焦りよりも、5分ほど前から繰り返し耳元で煩く鳴り響いていたコール音に苛立ってついに声を上げた。


「うるっさい!!エミュレイ開いて!!」
《かしこまりました》


これで逃げ道間違えたり、捕まったり、ましてやここで死んだりなんかしたら末代まで呪ってやる。結構心の底から本気で思った。
私が叫べば、耳のインカムから機械的な女性の声がして、ブツリと回線が開く音がした。


『やっと出たぁああ!!!』
「るさい何!!」


回線を開くと同時に、少年のような声がしたが、あいにくこっちは修羅場だ。無駄話に付き合っている暇はない。事実、そうしている間にもプァアン、と高い音を立てて数代のバギーが近付いてきた。やばい、攪乱するの忘れてた。


『おっ前どういうことだよ!なんで火星に追われてんだよ!』
「だぁああ今その説明しろってか!!向こう完全に殺す気だっつのに!」
《4キロ先、80度の鋭角カーブです。あと30秒》
『お前超火星派の超地球嫌いだろ!?何して命狙われてんの!』


人口頭脳《エミュレイ》のオペレーションと、友人の怒声が混ざって意味が分かんなくなった。やっぱりコールに出るんじゃなかった、と心の底から悔いると一瞬だけナビゲーション画面に目を移す。……鋭角カーブか。
私はわざと速度を落とす。どうせ鋭角カーブのことは相手さんも了承済だろう。追っ手も速度を下げたのを確認して、一気に速度を上げるとカーブが目視できる距離に近付いた。カーブの直前で思いっきり後輪ブレーキを踏んでタイヤをロックしてバギーを滑らせた。


『ねぇちょっと聞いてるの!?』
「だ、ま、…れぇえええ!!」


思いっきりアクセルを踏み込み、カーブを抜けるスピードをすこしでも早くせんと前だけを見た。


「エミュレイ!ゲート閉じ始めて!」
《今の速度では間に合いません。95マイルまで速度を上げてください》
「無茶言うな!こちとら商用バギーだっつの!!!」
《では無理です20秒後に閉門開始します》
「それじゃ意味ない!!」


くそっ、と悪態をついてわざとギアを落とす。もちろんアクセルは全開で踏んでいる。回転数がレッドゾーンに入った瞬間にギアを上げると、一気にバギーが加速した。これで95マイルはいっただろう。どうせまた落ちるが同じようにぶっ飛ばせばいい。


《いけます。ゲートを閉じます》
「あと何秒!?」
《25秒。酸素ヘルメットを装着してください》


片手でヘルメットをセットした時だ。ガウンッと大きな衝撃が車体に走り、大きくバランスを崩した。サイドミラーに映るバギーから撃たれたようだった。かなり近いところにいる。
私は口をつむぐと、後方に向かってグーに握った手を向けた。


《使うのですか》
「──……」


エミュレイの言葉には答えなかった。無言で私は手を、パーにした。

どぅん、と思い音がしたと同時、後方から見知らぬバギーの音はしなくなった。
やはり私は口を噤むことしかできず、ギリギリとハンドルを握る。


《速度を上げてください。間に合いません》


エミュレイの声に、黙って速度を上げて閉まるゲートに滑り込んだ。
そこは広い空間が広がっていて、床には機体を固定するための鎖がいくつか転がっていた。
シュウウ、と室内の空気が抜けていく音がする。──ゲートが開きます。そうアナウンスが響く頃にはほぼほぼ真空状態だった。


『……出るの…?』


わずかに震える声がして、まだ回線が繋がっていたのか、と私は慌ててその声に集中した。相手はおしゃべりな友人なので、続きがあるかと思ったが友人は友人で私の答えを待っている様子だった。
ゲートが開くと同時に、なかにあった僅かな空気が吸い出されて、外にバギーごと押し出された。
そこに広がるのは、一面が白黒の色のない世界と、果てのない宇宙の景色。


「うん」
『どこにいくの?』
「ううーん」
『だって…地球も、火星も、どっちにもいけないだろ!』
「うん」


心配げな友人の声を聞きながら、私は静かに空を見上げた。


「……研究室の全てを、捨てようって、決めたんだ」
『は…?』


意味がわからない。そんな気の抜けた声だった。しかし、私の今置かれている状況、そして何より、私が今いる場所。大体の検討は、ついたらしかった。息を呑む声がして、思わず苦笑する。


『っ馬鹿だ!それで追われたんだな!?くそ、それなら月にいればいい!月なら、…ここは中立区だ!』
「その中立区で、私はこうして殺されかけたわけだけど?」


悲鳴のような訴えかけをしてくる友人にそう答えながら私はハンドルを握る。
アクセルをふかせば、ぐるぅとバギーがうなった。ちょっと無茶な運転をしたから心配だったが、まだ頑張ってくれるようだ。私はバギーの隅っこから端末を取り出して今の通話画面を操作する。


『ただの学生が研究放棄でこんなことになるかよ!まだなんかあんだろ!何を隠してやがる!』
「さて、次なる追っ手が来る前に私は逃げなくちゃいけないから、切るね。間違っても研究を渡すわけにはいかないし」
『は!?おいふざけんな!今どこにいる!?この俺にも黙ってこんな』
「エミュレイともはなすことがあるのー。じゃ」
『おい、ちょ、待っ』
「……ありがとう」


それだけを言って、ぷっつりと端末を打ち切った。着信履歴は34件、メールは10件。…月中を走り回って、探してくれたんだろうな。アイツはそういうやつだから。
また連絡が来ないよう、端末の電源を落とし、ポイッと明後日の方向に投げ捨てた。空気もなく、重力も薄いこの場所では、いづれ何かにぶつかって壊れる。
私は改めてバギーに乗り込むと、無理をしない程度にアクセルを踏み込んだ。目的の場所が見えてきたが、空気のないこの場所で『かろうじて見える場所』というのは、実は果てしなく遠いところである。まだまだ時間はかかる。


「エミュレイ」
《はい》
「酷なこと、聞くね」
《AIに酷なこととは、一体どのような指令なのやら》
「はは、……まあ、君は、あんまり酷なこととは、思わないんだろうなぁ」
《つまり、人間の感情的な部分ですね?考慮した上でお答えいたします》


本当に、よく出来た子だと思う。人口頭脳《EMURAY─エミュレイ─》作ったのは親友で、私の為を思って作ってくれた。正直私にはもったいない。少しだけ声を出して笑ったが、笑う気などすぐに失せた。


「迷ってるの。…エミュレイを完全削除するか、凍結するか」


一瞬だけ、エミュレイが押し黙った。考えた様子である。


《そうですね。完全削除をおすすめいたします。今後私を起動することがあれば凍結でも構いませんが、少々安全性に欠けます。私の中には研究データも入っています。後々が危険でしょう》
「……そう言うと思った」
《何故呆れているのですか》
「んー、…親心?教育間違ったかなー、なんて」


まあ、AIに完全な心なんて、宿るはずもないよね。と少々途方に暮れる。少しだけ期待したのだ。研究の全てを闇に葬るためには、長年連れ添ったこのAIも抹消しなくてはない。
ちょっとだけ期待したのだ。たかだかAIではあるが、この子が『生きたい』と、『消えたくない』とそう言うのを。まさしく、親の心子知らず、である。あー、いや、少し違うかもしれない。


《現在人格エラーは確認しておりませんが》
「あー、違う違う。こっちの……」


こっちの話、と区切ろうとした会話は、不自然に途切れた。
ギュッとブレーキを握り、私はバギーを停止させた。私はただただ呆然と、唖然とそれをみつめた。


《どうかしましたか?……心拍数がわずかに上がっています。至急》
「綺麗…」
《え?》


AIにしては、素っ頓狂な声だった。いつもならエミュレイをからかうところだが、それも忘れて、私はそれを──地球を見つめていた。
初めてみたけれど、本当に水ばかりで……青い。


「初めて見た…。憎いばかりだと思ってたけど、…綺麗だね」
《地球のデータを見ますか?》
「大丈夫。ごめんね、心配かけて。もう行こう」


頭を振って意識を戻す。地球を横目に粗いレゴリスだらけの大地を突き進んだ。
どれくらい進んだだろうか、不意に、私はエミュレイに話しかけた。


「ねぇ、エミュレイ」
《はい》
「──合言葉作らない?二人だけの、合言葉」