01

ざぁ、と水が強く抵抗する音がした。じめじめとしたなんとも形容し難い奇妙な臭いに包まれた。私を中心に何十という男たちが円形に取り囲んでいて、鋭い視線が私を貫いていた。

「てめぇ、今、どこから現れた」
「……え?」

低い声が聞こえて、振り向こうとしたところで、ざわりと背中が粟立つような嫌な感覚が走った。
膝から力が抜けて地面に体が倒れた。受身を取るにも、指一本動かせなかった。そのまま視界が認識出来なくなった。
周囲にバタバタと足音が響き渡っていて、少しうるさい。

──怖い。
そう素直に思ったのはいつぶりであろうか。殺気には慣れているつもりであったが、さきほど受けたのは殺気以上のものだった気がする。まるで殺気に刃物か鈍器かがついていて、実体もないくせに直接殴りかかってくる。そんな感じだ。
しかも、なんだか体がグラグラする。
体調のこともあるけど、ここは…そう言えば、あそこはどこだったのか。見たこともない場所だった。
どちらにせよ、このグラグラをなんとかしたい。

──ああ、それじゃあ、揺れないようにすればいいよね。

ちょっと無理しちゃうけど、いいか
むしろ、なんだろう、ちょうどいい気がする
安定させたら、いいんだよね
ゆっくり、ゆっくり、確実に。





「……ねえ、サボくん」


普段より少し低い声で声をあげたのはコアラだった。呼ばれたサボは面倒くさそうに頭をかいた。

「殺気にゃなんの反応もなかったんでね。警戒程度の覇気だったんだけど」

呆れたように息を吐くコアラを目じりに、サボは倒れた女に歩み寄る。足でうつぶせの女を仰向けにすれば、完全に気絶しているようだった。白目だった。
ちょっと!とコアラが非難するような声をあげたが、サボにとっては非難される言われは少しもなかった。

「ったく、どこから入り込んだんだ…。おーい、だれか倉庫にでも放り込んどけ」
「は、はい!」

はっきりとした返事のあと、数人の兵士が動くのを見届けて、サボはまわりに持ち場に戻るように指揮した。

……それにしても、一体どこからどのようにして現れたのか。ぼんやりとその風景を見届けたコアラは1人ううーんと首を傾げた。サボの言う通り殺気には反応が薄かった。殺気というものを知らないのか、はたまた殺気慣れしているのか。少なくとも覇気は知らなかった様子で、サボの覇気で簡単に気絶した。確かに、警戒程度の──それもかなり弱い──覇気で気絶したのだから、場慣れはしていないのは明らかだ。筋肉も付いていない様子である。

「コアラ」
「なぁに?」
「お前、あの女がいつ乗り込んできたか分かるか」
「……」

黙り込んだコアラに、サボが「おれもだ」といらだちを含んだ声で返した。
気が付いたら、そこに立っていた。隠しもしない気配だ。全員が同時に気付いたあの瞬間に、彼女は文字通り『現れた』。
説明はつかないし、想像もつかない。

なーんか、厄介事が降りかかってる気がする。面倒くさい気持ちを隠すことなくそう呟いたサボは連れていかれた女性を追って船内へと姿を消した。
その姿を見送ったコアラも、船内に入ろうと歩を進める。しかし、不意に足を止めて海原に目を向けた。しばし見つめて、僅かに目を細めたあと、改めて船内に足を運んだ。

どさり、と倉庫にやや乱暴に入れられた女性の意識は戻る気配もない。
床に下ろされた状態のままピクリとも動かない女を一瞥した。

「見張りは2人だ。何かあればすぐ片方か報告に来い」

それだけを言ってサボは一度そこを離れた。報告をしなければならない。
とある部屋の前まで来ると、一言ことわってからその扉を開いた。まず聞こえてきたのは聞きなれたクスクスと潜むような笑い声だった。

「よぉ、サボ。妙な拾い物をしたんだってな?」
「拾い物じゃないですよ。落し物っつー方がしっくりくる」
「変わらないさ。まったく、寄りにもよって革命家が乗る船に乗り込んできたのはどんな奴なのか」
「女だ。殺気には鈍感で、警戒程度の覇気で気絶したよ。完全に一般人レベルだなありゃ。でなけりゃ完璧な演技だ。突然現れて、どこからどう入ってきたのかがわからねえ」

誰ひとり、彼女の出現に気がつかなった。──否、正確には、出現方法、がか。

「ふん、ここは新世界だぞ」
「……何が起きても、おかしくねェってか…」
「違いないだろう」

確かに、人知を超えた事が起きるのがグランドラインで、前半の海でもぶっ飛んだ事は起きるのだが、後半はその比ではない。
それにしたって、何かしら理由はあるのだが、それが見つからないから厄介だ。

「そんなことより、外がおもしろいことになっているようだぞ」
「え」


時を同じくして、バン、とやや乱暴に甲板への扉を開けたのはコアラだった。

「コ、コアラさん!」

助けを求めるような声がしたが、コアラがそちらに目を向けることはなかった。ただ景色だけを見て小さく歯噛みした。異変があったのは船内に入ってすぐのことだった。

「いつから…」
「正直はっきりとは…。波が小さいとは思ってましたが、変だと気づいたときにはこれです」

どうなってる、なんだこれぇ、そんな驚きと困惑に満ちた声が甲板に広がっていた。船内にいたコアラでも分かった『海の異常』。どう考えても厄介事だと無表情な海を眺めた。
ただの凪ならコアラもなんとも思わない。しかし、『船だけを狙ったような凪』なら話は変わる。遠くに波は見えるのに、船に近付くにつれ波は凪いで消えていく。凪は船の周辺だけを包んでいる様子だ。

どん、と小さく重い音が響いてきて、見てみれば船の後方から黒い影が真っ直ぐ空に飛び上がっていた。カラスだろう。
カラスは暫し船の頭上を旋回したあと、真っ直ぐに甲板に降りてきた。そこにはサボもいた。

「おいおい、どういうことだこれ。完全に船の周りだけが凪になってるぞ」
「ああ、なんとなく気付いてた」

しばし海を眺めたコアラはふと船内に意識を飛ばす。

「ねぇ、さっきの女の子は」
「今兵士が見に行ってる。後でおれも行く」

皆思うことは同じだろう。この数時間の間に船にあった異変といえば、あの女性の出現だけだ。
サボが行くなら問題はないかな。コアラはそう思案する。あの女性が凪の原因なら、それを解かせねばならない。そうじゃないなら、原因を探らねばならない。
何れにせよ経過観察しかなかった。






「女の手錠は、海楼石にしたんだな?」
「ついでに海水もぶっかけてやった」

相手は女性だよ、と言いかけたコアラの言葉は喉の奥で消えた。そんなことを言っている場合ではないからだった。
波の一切立たない所謂凪 が、かれこれ半日以上続いていた。風はあるのでなんとか前には進むが、海流がないのでその速度も知れている。船が立てる波さえ押さえつけられるようにすぐに消えていく始末だ。潜水が得意な者に深くまで潜らせてみると、ある一定のところから海流が現れているという。

サボが女性の仕業かと思って倉庫に走ったが、そこにいたのはぐったりと気絶したあの女性だけ。拘束具を海楼石の手錠にして、念には念と海水をかけたが結果は変わらず海は凪状態を維持した。これで悪魔の実の能力の線が薄れた。絶対とは言えないが、並大抵の能力だとこの地点で消える。
いっそ海に沈めたらどうだ、というのはカラスの意見で、サボも神妙な顔で頷いていたのだが、如何せん真相が定かではないので何もできない状態である。これで女性が亡くなっても凪が続いてしまえば事である。さすがにそのまま放置、というわけにはいかないので何か対策を、と思った矢先に、革命家ドラゴンからストップがかかった。
……やることがなくなって、万策尽きている。外からの攻撃を疑って周辺を調べ尽くしたし、船内も隈なく異常がないか調べて回った。それこそ船底まで調べさせたが、どこにも問題はなかった。
そうなると、当然ながらサボらの疑念は突然現れた『女』に向く。こんな状態になるきっかけとして、やはりあの女性しか浮かび上がらない。

「もう1日経つ。そろそろたたき起こそうかと思ってる」
「そう簡単に女に手をあげるものじゃない。原因もそいつと決まったわけじゃない」
「けど、明らかにこの凪は異常だ!もしサイクロンが来てもこれだったらにげきれない。何とかして打破しない、…と?」

サボが驚いたように言葉を詰まらせた。これは巨大な船だ。普段の航行ではあまり揺れないが、さすがに全く揺れていない状態から、普段通りのふわりとした感覚に戻ればすぐに気が付く。
慌てて窓の外をのぞいてみれば、すぐそこに波が打ち寄せていた。長い凪が終わっていた。
呆然と海をながめるサボに、ドラゴンがくつくつと笑った。


「サボ、女性の様子を見てくるんだ。起きていたら、申し訳ないが軽く気絶させるんだ」
「え」
「いいか、軽くだぞ」

唐突の上司からの提案に、さすがのサボも顔を引き攣らせた。