05

思わずニックさんの襟首をつかんでがくがく揺らしまくった。私は悪くない。悪いのはこの広大な水の世界だ。

「なにこれなにこれなにこれ!?!?でかい!!うっそでかすぎるていうか広い!なんなのこの貯水池!!」
「ち、ちょす、ちょすい…ぐる゛じい゛…」

ガクリとニックさんから力が抜けた。明確な答えが返ってこなかったために、私は仕方なくニックさんの襟を離して水たまりの方へ駆け寄った。
巨大、という言葉にも収まらないほどの水が、そこにあった。

サボさんらが、所謂犯罪者集団であったことに目を回した私は例の医務室へ連れていかれていた。目が覚めた私はまず、あのトラウマ化しそうな看護師さんたちと引き合わされ、長い問診と手探りな情報整理を行った。もう気が遠くなるような話で、頭がパンクしそうだった。見かねたサボさんが息抜きしてこいということで何かと心配してくれていた兵士のニックさんの案内のもと甲板に出た。果てのない貯水湖がそこにあった。そう、いわゆる『海』だ。地球の大半を占めるといわれる、広大な水の世界。
見上げると、そこには太陽がある。目を潰さんとするようにまぶしくて、じりじりと肌にダメージを与えてくるかのようだった。太陽の画像を見たことはあった、と思う。けれど、こうしてその光を生身で浴びるのはきっと初めてだ。妙な確信を覚えつつ、私は天井のない、青く高い空を見上げつづけた。地球は青い。それは知っていた。けれど、地球から見た空も青かった。正直見慣れない。とても不思議な気分である。
続いて海に焦点を合わせたアルカはその底を見んとヘリに近づくが、底が見えない海が怖かったので2、3歩離れた所から眺めることとする。生命の起源は海にあるという。正確には水の有無で生命の誕生が可能か否かが決まる。…とされている。いまだに人類は他惑星起源の生物と相対したことはない。

「……こういうことは、ポンポン出てくるのになあ…」

自分に関係あることはてんで出ない。
しかも、そうしたポンポン出てくる事柄のほとんどが、この革命軍の人々にとっては奇妙なことばかりだったようだ。また見上げた空には人口のものなどない。もちろん、その空の彼方にもない。
じりじりと照り付けてくる太陽の光を、雨でも受けるように掌を天に向けた。吹く風は周囲の水分量の所為か少しじめっぽい。独特の水の臭いがして、全くもって嗅ぎなれない。むしろ一瞬は臭いとすら思った。臭いごと身体にまとわりつくようで、この調子だと毎日二回はシャワーだな、と内心で小さく呟く。しかし、不思議とそれを嫌だとは思わないのだから面白い。本能的な部分だろうか。こんな臭いやじめっぽさに囲まれるのは心底ごめんなのだが、意思に反して身体が喜んでいる。なんだか体がすっきりして軽い気がするのだから不思議だ。


「あ、きみ!」

突然かけられた声に、びくりと肩を揺らして見てみれば、なんとも可愛らしい顔立ちをした女性が立っていた。何故話しかけられたのか分からずその女性を見ていると、やっと回復したニックさんが後方で「あ…」と弱弱しい声を漏らした。

「わたしコアラ!よろしくね!」
「…あ、ああ、うん、よろしくお願いします。…あ、私はアルカです」

気さくな性格らしいコアラさんは人好きする笑みを浮かべてわたしのすぐ近くに立った。…なんて素晴らしいプロポーション。
戦闘員が多いのか、この船の乗組員は皆屈強だとは思うが、それにしては大柄な人が多い。ナースさんたちも総じて身長が高い。正直見慣れない。呼ばれて振り返って見ても、相手の顔の位置が想定よりずっと高くて視線を合わせるのにワンテンポ遅れたり、いまだに一瞬はびくつくときがある。

「アルカちゃんね、覚えた!困ったことがあれば是非言ってね」
「は…はい…」

そういえばサボさんと同じで帽子にサングラスという出で立ち。何か関係あったりするのだろうか。
地味にしどろもどろな私など知らない様子で、コアラさんはぐいぐい近づいてきて不思議そうに私を観察しだした。

「ところで、何してたの?」
「え、ああ…。うーん、たぶん、私海とか初めて見たと思うんですよねえ…」
「…へ?そうなの?」
「うん。ちょっと感動しちゃったなあ…壁もなければ天井もない、果てもないから」
「あははは!そりゃあ海だもん!!」

海だから。果てがないことも、底が見えないことも、この壮大な景色も、そんな簡単な言葉で片付いてしまう。

「空が青いって本当だったんですね」
「え?」
「あっ…ああと、あ、そっか。当然ですよね。はじめてのことばかりで…すみません、こんなにはしゃいじゃって」

大気の性質と光の性質を思えば日中の空が青いのはどう考えても当然だった。騒ぎすぎたな、とすこし反省した。コアラさんはというと、人差し指を頬に当てて少し考えた様子だった。
それから、直ぐににっこりと笑う。

「ふふ、知らないことはね、これから知っていけばいいんだよ!」

ぱっと笑う彼女の、なんと眩しいことか。
正直、少し驚いた。

そして、少しだけ。ほんの少しだけ、安心した。

「……そっか」
「そうだよ!わからないことは知ればいいの!知ることは悪いことじゃないよ!」

そっか。そうだよね。そりゃそうだ。
ひどく納得して、私は思わず口元が緩む。知ればいいんだ。

「特に、この海のことは知っていないと命取りなこと、多いよ!いわゆる異常気象、天変地異が常識なんだから!」
「へ、へえ…」

それってつまり…どういうことだ?何か想像しえないことがよく起こるということだろうか。
返事の割に反応の薄い私に、あまり理解されていなことを察したのか、まあそのうちわかるよ、とコアラさんは私の頭をぐりぐりなでた。あれ、なんか妙に子ども扱いされてませんか、私。

──────。


「……ん?」
「うん?どうかした?」
「いや、デジャヴを感じただけだからなにもない」
「…そう」

一応、アルカが記憶喪失だと知ってはいたので、コアラは何も言わずにアルカを観察していた。まあ、それ以上に、コアラは彼女の対応が考えちふけるあまり、素の性格に戻っていることが喜ばしかったのだが。
そんなこともつゆ知らぬ私は、やはり考え込んでいた。今、私は何にデジャヴを感じたのか。頭を撫でられたことか、それともコアラさんの言葉か。景色なのか、この状況なのか、はたまた全てか。どれも合ってるようで、どれも違う気がするので堂々巡りだった。すぐに思い出すのは諦めて、私はいきをはいて考えを中断した。

「思考タイムは終了?」
「……終了です」

隣にまだいたらしいコアラさんに、内心びくつきながらも平常心で返した。完全に彼女の存在を忘れていた。

「今日は何か予定はあるの?よければ船内を案内するよ」
「ああ、いえ…。大丈夫です。ニックさんもいるし、まだこれから医務室に行かなきゃいけないので」
「そ?それじゃあ私もお暇しようかな。じゃあね、また話そ!」

肩をすくめたコアラさんは軽く返すと踵を返して颯爽とその場を立ち去った。
その後ろ姿から視線をそらすように海に目を向けると、ニックさんが苦笑しながら隣に立った。

「コアラさん、いい人でしょ?」
「うん…そうだね…」
「あれでもすっごい強い人なんですよ」
「エッそうなの?」
「しかも優しいんです。あの人に救われた人、少なくないんですよ」
「へぇ」

でも、革命軍──犯罪者なんだよねえ…。
私的にはニックさんの方が話しやすい。なんだろう。人見知りなのか、話しかけてくるほとんどの人に対してどこか馴染み切れない。…まあしばらくすればなくなる関係なので馴染み切る必要はないのだけれど、…こんな船だ。危険の芽は少しでも摘んでおきたいところである。

「アルカさん、そろそろ…」
「……そだね」

ふと脳裏にサボさんたちが過り、そう簡単によろしくできそうにないなあ、なんて考えていたら、ニックさんがまさしくそれ関連の話をぶち込んできた。
戻ろっか。
そうニックさんを見ずに帰した。これから、ない記憶とある記憶の整理である。サボさんのやつ、搾り取れる情報はとことん搾り取るつもりだ。正直、かなり疲れるが仕方あるまい。どうせ自分のためにもなるのだ。これくらいの疲れ、享受してやろう。