二日目_C

「…………」
 暗闇の中、深すぎる眠りに落ちた女の頬に触れる。ここまで眠りが深いと、もはや気を失っていると言った方がいい。いくら触れてもぴくりとも動かない女が静かに涙を流すのを拭いながら、以前よりも必要になった睡眠を取るのがこの女と再会してからの習慣になっていた。〇〇は気付いていないようだが、この明らかに異常な睡眠の原因は己にあるとこちらで初めて同衾した日の夜に一目で分かった。
 肉体が変わっても尚癒えない傷を付けたにもかかわらず、未だに我を慕っていると近付いて離れないこの女に脆くなった肝が掻き乱されて名の知らぬ感情に何度縛られたか分からない。
 
 思い返してみても、長い時間の中で〇〇と共に歩んだ時間はほんの一瞬だった。業障に蝕まれた弱き魂は魔に転じ、女と共にいた時間よりも遥かに長い時を掛けて祓いきった。業障があそこまで他人に作用することは初めてだった。……それほどまでに過密になりすぎたのだろう、魂そのものが密接に関わってしまった。我と深く繋がる度に嬉しいと幸せそうに笑う女の表情はやがて骨をも蝕む苦痛に歪み、それでも共に在りたいと握った手は最期まで温かかった。
 その後は毎夜、摩耗した女の魂が死して尚襲いくる業障に「痛い」「怖い」と泣き叫びそれを数時間掛けて祓う。数百年それを繰り返し、女の泣き声と痛みに喘ぐ声が耳にこびり付き離れなくなった頃、それらに混じって「魈さん」と我の名を呼ぶ声が少しずつ近付いてきているのに気付いた時にぴたりと女の魂が現れなくなった。それから更に数百年、女と別れてから数千年が経ち、女の声が耳元で聞こえるようになった頃。呼ばれるように引き寄せられた初めて女と出会った場所で、久しく女と再会し目の前で名前を呼ばれたのを最期に覚えている。
 
「〇〇」
 名を呼んでも反応を示さない女の頬を涙が伝い、シーツに染みを作る。泣くな、と無意識に口から出た言葉は闇に溶けて消え、女の柔い肌を傷つけないように布で涙を拭いてやる。これほどまでに傷を負っても笑って抱きついてくる女にひどく醜い感情が湧いて、これを今だに手放してやれそうにない己に反吐が出る。それでもこの女が再び甘い夢を見れるようになるまで、魂に刻まれた深い傷を癒してやるのが己の責務だと心に決めている。そのためなら何度命を繰り返しても構わない。――例え〇〇が人で無くとも、我を覚えていなくても関係ない。
 零れる涙が少し引いたのを確認して、ふっと息を吐く。どれだけ長い時間を共にしても、この女の涙には思考がかき乱される。少し乾燥した淡い色の唇を撫でるとふにゅりとした柔らかさが指に伝わる。どれだけ触れても目を覚ましそうにはないが、意識のない人間に触れるにはそれなりに気を遣う。
 頬にさらりと流れる髪を払って、誘われるように淡く色付く唇に口付ける。触れるだけの接吻を数回繰り返して、吐いた空気を吸わせるほどの距離で女の名前を呼ぶも当然返事が返ってくることはない。
 先程の触れ合いで溜まった欲を吐き出すように深く息を吐いて、体内に渦巻く鈍い熱を吸わせても反応を示すことはなく、不安になる程安らかな寝息が聞こえるだけだった。
 〇〇の背中に腕を回し、力の抜けた身体に身を寄せる。身体が動いた反動で目尻に溜まっていた涙がつぅっと頬を流れた。熱のあるそれを吸いとるように口を寄せると、ほんの一瞬ぴくりと女の身体が動いた。
 小さな身体を引き寄せて、じっと観察すれば静かになった部屋に女の寝息が響く。そろりと女の頬に手を這わせて、白く滑らかな肌を首筋までなぞる。閉じられた瞼から伸びた長い睫毛は濡れていて、時折眉をしかめて小さく唸っている。首筋には先程の触れ合いで噛み付いた痕が赤く浮かび、風呂から上がった女に服から出るなどと小言を言われたのを思い出した。
 
「〇〇、」
 名前を呼んでも返事はない。息をしているのを確かめるように口元に触れれば、しっかりと空気が出入りしている感触が指に当たった。意識のない女の口に吸い付いたせいで、唇はまだ少し湿っている。
「……もう、怖くはないか」
 痛くはないか。
 返事など返ってくるはずもないが、いつもこうして声を掛けては眠りについている。
 意識を失い、夢をみることもなくただ暗闇の中で時を過ごすなどこの女には荷が重い。それでもあの時よりは恐怖を払拭できていて欲しいと、身勝手な思いを願わずにはいられない。
 
 眠っている女に触れる過程でずり落ちた布団を女の肩の位置まで戻す。少し冷えた足先を絡めて、小さな身体を抱えて目を閉じる。明日は朝から講義だと言っていた女が遅刻しないようにしなければ、と女を起こす時間を考えながら布団の中で投げ出された小さな手を握る。
 起きている時ならば必ず握り返されるが、意識のない今はそうもいかない。力の入っていない手に指を絡めて、体温を分け合うようにすればどろりと意識が溶けていくのを遠くに感じる。少し下にある女の額にこつりと己の額をぶつけてから睡魔に意識を手渡した。
 ──これほど近くで眠りについても、同じ夢を見ることはまだ叶わない。

backnext