一度だけ。
 たった一度だけ、わたしはあの先輩に的中率で勝ったことがある。
 それはどうしても獲りたかった勝利であったし、どうしても獲りたくなかった勝利でもあった。

 その日、先輩は練習に遅れてきた。ちょうどテストが終わって最初の正規活動日で、さすがに今日はサボりと思しき部員も見当たらない。そんな中での遅刻だった。

 「おーう葉澄、来たな。立ち、入るか?」
 「入るに決まってる!」

 息を乱しながら道場に入ってきた葉澄先輩は、セミロングの髪を束ねながらそう言った。どうやら先生に呼び出しをくらってしまったらしく、おかげで部活に参加するのがこの時間になってしまったというわけだ。
 うちの部では、礼拝をした後に射込みと呼ばれる個人練習をし、そして立ちと呼ばれる実践形式の練習に移る。この立ちは重要だ。なんたって、採点簿と呼ばれる帳簿にその一本一本の的中の記録をつけるのだ。この記録は試合の団体メンバー決め等の参考にも用いられる。当然この結果は、少なからず部員たちに対する印象にも影響する――あいつは中てるから言うことを聞こう、あいつは中らないから尊重せずとも良い、など――この的中率が良いに越したことは無い。これに参加しなければ、うちの部ではその分の的中はゼロ扱いとされる。つまり、その欠席が大きく成績に響いてしまうというわけだ。

 「お疲れ様です、葉澄先輩。射込みなしなんてそんなハンデ、頂いちゃっても良いんですか?」
 「ああ、茉由ちゃんか。調子はどう? ……負けないように、足掻いてみるね」
 「……まあ、わたしはいつも通りですね。これ以上離されないように頑張ります。……今日もご指導、よろしくお願いします」

 軽口を叩ける程度には仲良くなったつもりだった。伊達に数か月、同じ屋根の下で暮らしているわけではない。もう少し付け足すならば、わたしの人見知りな性格が祟って未だにわたしには気軽に会話を出来るような同期がいなかったというのもある。

 じゃあわたしは一立ちめなので、とその場を離れる。葉澄先輩は三立ちめ、わたしの次の次の順番だ。基本的には的中率順に並べられる立ち順だが、今日の先輩は遅刻だ。致し方ない。明日にでもなれば、先輩はあっという間に一立ちめまで戻ってくるだろう。そんなことを、四本目の矢を放ちながら考えた。ぱらぱらと、拍手の音が道場に響く――皆中。これは、葉澄先輩は三中止まりかもしれない。彼女は、すぐ周囲に引っ張られる癖があるから――とは言っても、たかが一本の差なんて、一瞬で詰められてしまうのだろうけど。
 しかし予想に反してその立ちで、葉澄先輩は半矢しか中てなかった。——先輩にしては、控えめな数字だった。

 「皆中おめでとう、茉由ちゃん」
 「……ありがとう、ございます」

 やはり射込みなしだったのが大きかったのかもしれない。こんな日もあるかと、どこか複雑な気持ちでまた弓を引く。四本目で外した。わたしも大概他人のことは言えない。そして葉澄先輩はというと、最後の一本だけを何とか的中させていた――一中だった。

 「……葉澄先輩、どうしたんですか? まさか体調でも」
 「いつも通りだよ、失礼だなあ。なんかね、狙いが定まらないんだ。あはは、どうしよう」
 「あははって……」

 先輩が半矢を切るなんて、わたしが入部して以来なかったことだ。しかも今は総体の全国大会前。こんなこと、

 「……こんなこと、あっていいの?」

 いいわけが、ない。そうは思っていても、後輩、しかも一年生のわたしに出来ることなんて、ない。
 最終立ちだった。わたしは一本目から外して、結局十本という成績だった。八割三分。そして、葉澄先輩は。
 大前の人が、入ります、と声をかける。後ろの人がはい、と了承の返事をした。その中で、葉澄先輩は返事をしなかった。——その代わり。

 「っ先輩!」「葉澄!」

 ガタン、という弓の床に叩きつけられる音、次いでガシャガシャと弓の倒れる音が響いた。目眩を起こした葉澄先輩がそのまま弓立てに突っ込んだのだ。
 今日の先輩は本調子じゃなかった。そんなの先輩の射形を見ていれば一目瞭然だった。まず会が短い。次に、離れに鋭さがない。つまり、全体的に引きが甘い。そして先輩本人が言っていたように、きっと、狙いも。

 「先輩、無理は良くないです。今日はもう帰りましょう、わたし、送ります」
 「私は大丈夫だよ。それに、茉由ちゃん、練習……」
 「葉澄先輩のいない部活なんて、参加する意味ないです。ほら、立てますか?」

 道場にある全ての目が、こちらを向いているのが分かる。わたしの下で、葉澄先輩はこくりと頷いて、わたしの手を取った。