「貧血だろうね」

 今日一日大人しくしてたら大したことはないと思う、と付け足して、部屋まで葉澄先輩を送り届けた鳴海さんがそう言った。細い指が、新橋色のマグカップの持ち手に触れる。中身はホットココアで、きっと今頃葉澄先輩も同じものを飲んでいるはずだ。

 「……よくある、ことだったり?」
 「否定はしない」

 葉澄先輩は元々身体が丈夫とは言えない。その上テスト期間のために徹夜が続いて、かと思えば次は部活の全国大会のプレッシャーときた。なるほど、体調を崩すのも無理はないのかもしれない。

 「茉由ちゃんが花璘ちゃんと同じ部活で良かったよ。ありがとうね」
 「……いえ」

 なんでもない平日に、こうして早く帰ってくるのは初めてのことだった。静かな寮は、どうも慣れない。わたしと鳴海さん、それから葉澄先輩以外はみんな課外活動で外出していて、唯一例外のはるせ先輩は現在葉澄先輩に付きっ切りである。

 気まずいのを誤魔化すために、わたしも露草色のマグカップに口を付けた。甘い。口に広がるそれを鼻から逃がして、なんとか顔を顰めないように抑える。次いで視線を逃がすように八人暮らしを前提としたリビングを見渡した。いつもより広い。そこに、二人ぼっちだ。歳が四つ離れているせいか、なかなか会話も発生しない。
 そんな状況に気を遣ったのかそうでもないのか、鳴海さんはさっさとココアを飲み干すと、「予習あるから部屋戻るね」とリビングを出て行った。わたしもわたしでそのままリビングに居座り続ける気も毛頭なく、ぐいとココアを流し込む。鎖骨の下辺りがじわりと滲むように温かくなった。

 空っぽのはずだった流し台に、水の張られたマグカップが二つ並ぶ。今日の夕飯はなんだろう。ふと目をやったホワイトボード、わたしの書いた「グラタン食べたいです」の文字に矢印が引っ張られて、「しつこいのでまゆげのには底に米詰めます」と付け足されていて笑ってしまった。間違いなく未湖先輩だ。そう言えば、少し前に玖音先輩が作ってくれたキッシュももう一度食べたい。また書いておこう、と決めてわたしはリビングを出る。二階へ続く階段へ向かう途中で、玄関のドアの開く音がした。「ただいまあ」と聞こえてくる間延びした声は、未湖先輩のものだ。

 「おかえりなさい」
 「ん、まゆこじゃん。そっか、花璘ちゃん送ってくれたんだってね。仁瀬ちゃんに聞いたよ」
 「茉由です。……まあ、部活をサボる口実にもなりますし」
 「うーんまゆげは悪い子だなあ。ていうかさ、上行くの? その前に米炊くの手伝いな」

 いいですよ、と返してリビングに向かう未湖先輩の後に続いた。
 冷蔵庫の扉を開けながら、「ところでさあ」と未湖先輩が口を開く。手の泡を流しながらはい、と返事をすると同時に、ぱたんと冷蔵庫の閉まる音がした。

 「正直さ、花璘ちゃんって弓道どうなの? 上手いの?」
 「え、何ですか、急に」
 「いや、関東大会とかはしょっちゅう行ってたんだけど、あの子。でも本人は才能ないとか下手とか言ってるから、どうなのかなって」

 なんだそれ、と思った。葉澄先輩に才能がないなら。葉澄先輩で、下手なら。
 じゃあ、わたしは、一体何なの。

 「……上手、だと思いますよ。少なくとも、うちの部では、一番」

 素直にそう言うと、未湖先輩は手元を見たままふーん、と頷いた。「まゆこよりも?」「はい」頷き返せば、そうなんだ、と先輩が言う。

 「謙遜も行き過ぎると嫌味だね」

 米を三合計りながら、それには返事をしなかった。ただ、全くその通りだと思った。
 葉澄先輩と同じ道場で弓を引き始めて、そろそろ三ヶ月ほどが経とうとしている。それだけの日があって、わたしは未だあの先輩に勝てたことがないのに。
 あの先輩は、これを歳の差だと言うだろうか。わたしの方が歴は長いのに。運だよとでも言うかもしれない。それだって実力の内なのに。
 今日だって、勝ったのは茉由ちゃんじゃん。そう言うあの先輩の声が、容易に想像できた。手の内の、水に浸された米がべしゃっと音を立てる。

 葉澄先輩の引退までいよいよ日がない。フェアな条件で、今度こそ、わたしはあの先輩に勝つことができるのか、或いは、先輩が大学に進学してからも弓を続けてくれたなら。

 「あの……葉澄先輩って、卒業したら」
 「えー、うちの附属大学行くんじゃない? 学部は……経済だっけなあ」

 やはり附属推薦を使うつもりらしい。ならば、うちの大学にも弓道部はある。続けるのか、と安心したも束の間、ああでも、と未湖先輩は付け足す。

 「部活は続けないって言ってたよ」

 他の大学からセレクションの話もあったみたいだけどね、そう言う未湖先輩に、へえ、そうなんですね、とうっかり棒読みにならないように返した。未湖先輩は聡いから、わたしの脳の裏まで見透いているかもしれない。水を捨てながらわたしは息を吐いた。

 逃げるんですね、わたしから。それだけは、なんとか思うに留めた。その代わりに、「残念、です」と喉から声を絞り出す。ずるい人。

 「炊飯、押していいですか」
 「いいよ、そこのターメリック入れてからね」

 わたしは頷いて、指示通り張った分量通りの水の上にターメリックを浮かべた。白米じゃないならなんだって好きだ。
 頼まれた仕事は終えた。ありがとう、まゆこの分はチーズ多めにしといたげる。そう言う未湖先輩に、やったあ、ありがとうございます、と返してリビングを出た。

 階段を上ってすぐ、わたしの部屋。その更に、対角線上の部屋。

 「ずるい人」

 あの先輩の部屋に向かって、小さくそれだけ吐き捨てた。