いっとうやさしい孵化の方法
私の爪を彩る鮮やかな色を眺め、どこも欠けていないことを確認してからボーダーの入口をへ一歩踏み出した。どうやら、これは長春色と言うらしい。この色は私の持っているネイルカラーの中でも一等お気に入りの色だ。爪を彩るこの色が、緩く巻いた髪が、私の心を強くする。
私の彼氏の犬飼澄晴は、ルックスの良さと人懐っこさから人気は高い。そんな彼と付き合うことができたという事実は私を舞い上がらせたが、同時に私は澄晴と釣り合う女であり続けたいと思った。容姿も普通、ボーダーでもしがないB級。学校の成績も普通。大した取り柄を持たない私は焦り、とにかく見た目はなんとかしようとお洒落に力を入れるようになった。髪を緩く巻いてみたり、今日のように長期休暇に入ると爪を彩ってみたり。身につける物にも気を使うようになった。それでも、澄晴に可愛いと直接言われたことはない。お洒落した私を満足そうに見つめるだけで、でも私は否定されていないのは伝わるから、それでいいと思っていた。
しかし、ボーダーに来てトリオン体になってしまえば、昨日の晩に綺麗に塗り揃えた爪の色や、今朝時間をかけてゆるふわに巻いた髪だってなんの意味も持たない。それでも私は無駄なことだとは思わなかった。万が一澄晴に生身で会った時に、少しでも可愛いと思ってもらいたいという欲が心の中で大きくなっていたからだ。それに、だらしない格好をしていたら澄晴の友達や女子たちにあいつ犬飼と付き合ってるんだってありえないよねなんて言われてしまう気がする。
今日はB級ランク戦だったため、ボーダーに到着して早々にトリオン体に換装してしまった。さよなら私の努力。ランク戦は何とか僅差で勝ち、ほっと一息つく。思ったより早く終わったので、もう一戦誰かと個人戦でもしてもらおうと思い、解けた換装体をもう一度換装した。ランク戦の観戦ブースに足を運んで、誰か知り合いがいないかときょろきょろしていると、後ろから頭を小突かれた。
「おつかれ」
「あ、澄晴!ランク戦勝ったよ!」
「うん、見てた。腕死んでたね」
「勝ったんだからいいの!」
澄晴に会えて心がぱっと明るくなったのも束の間、今度は周りの女子の視線が気になってくる。やっぱり目立つなあ。そりゃこの顔でこの身長、さらに隊服はスーツ。チャラくて胡散臭いのが玉に瑕だけど、遠目に澄晴を見る女子たちはそんなこと知る由もない。こうなったら澄晴の悪口でも言いふらしてやろうか。そんなことしたら速攻でバレて後で何されるかわかったもんじゃないと身震いしていると、不意に腕を掴まれた。
「ねえ、久しぶりに個人戦しない?」
「え、何急に…いまランク戦してきたばっかなんだけど」
「いいからいいから。どうせトリオン体だし疲れてないでしょ?」
「え〜〜…しょうがないなあ…一本だけだからね」
澄晴と戦って勝てたことなんてほとんどないんだけど。またポイント取られるなあ。鼻歌でも歌い出しそうなくらいにご機嫌な澄晴は、掴んだ腕は離さないまま個人戦ブースに向かった。周りの目が痛いが、少しの優越感を感じる私は性格が悪いのだろうか。
・
予想に反さず、私は澄晴に負けた。ベイルアウトした瞬間に見えた楽しげな澄晴の顔が目に焼き付いて離れない。自分の彼女を蜂の巣にして喜んでる男なんて世界中探し回ってもこの男だけだろう。備え付けのベイルアウト用ベッドから起き上がると、近くの端末から「ねえ、ちょっとそこで待ってて。すぐ行くから」と澄晴の声がした。一方的に言うだけ言ってブツリと会話が切られ、手持ち無沙汰になった私は特にすることもなくトリオン体を解き、ベッドに腰掛けなおした。いい時間だし、もうそろそろ帰ろうかな。澄晴も帰るって言ったら一緒に帰ろう、と考えていると、扉が開いた。
開いた扉から現れたのは澄晴で、それはそれは楽しそうな笑顔で私に近寄ってきた。なんとなく無意識で身を引いたが、急に手を取られて無意味に終わった。澄晴は私の手をまじまじと見たあと、先程よりも笑みを幾分か濃くした。澄晴が観察していたのは私の爪だということにすぐ気付き、なんだか急に恥ずかしくなってきてしまって手を引っ込めようとするが、存外に強い力で掴まれてびくともしない。居たたまれなくなって、慌てて話題を持ち出した。
「ていうか、なんでいきなり個人戦?」
「トリオン体解いてもらおうと思って。ランク戦終わったらすぐ声かけようと思ってたのにさ、見つけた時にはもっかい換装してたし」
「は?」
「個人戦やったらトリオン体解くかな〜って」
「え?なんで?」
「これが見たくて」
私の爪を一つ一つなぞるような指の動きに、ぞくりとした。目の前の男は、さっきまでの無邪気な笑顔はどこへやら、意地悪な笑顔に変わっていた。
「な、なに、笑ってんの」
「いや〜、可愛いなって思って」
「へ!?あ、つ、爪!?爪の色!?」
「うん。名前に合ってるよ」
「あ…ありがと…」
少しだけ、少しだけだけど、私のことを可愛いって言ってくれたのかと思って心臓がひっくり返った。なんだあ、爪の色か。まあでも、このネイルカラーも私のお気に入りの色だし、そもそも澄晴のためにやってるようなもんだし。努力が認められているような気はするから、悪い気はしない。対象が爪とはいえ、可愛いと言ってくれたのだから。一人で自分を納得させていると、でも、と声が続けられた。
「この爪の色より、俺のために努力してる名前が可愛いなあ」
「…………はあ!?え!?」
爆弾を落とした澄晴はするりと巻かれた髪に手を伸ばして指で梳く。ちょっと、巻きがとれちゃう。なんて言葉は喉の奥に引っ込んで、私はただ口をパクパクさせるしかできなかった。「何で、知ってるの」ようやく喉から出た言葉は掠れて、みっともない。何で、なんて聞かなくてもわかっていた。この男が、気付かないわけがないのだ。その証拠に、最初から知っていたと言わんばかりにゆるりと笑った澄晴は、髪を弄っていた手を頬に這わせ、撫でた。
「あんまり可愛くなると、周りの目が気になるから、ちょっとだけ妬けちゃうな」
次から次へと欲しかった「可愛い」の言葉の連続ヒットで、私は顔を赤くすることしかできなかった。今まで私に可愛いと言わなかったのは、このためか。私が言葉を欲しいのを分かっていて、敢えて焦らしていたに違いない。言葉をもらえなくて、私が躍起になって努力していたのは、全部この男の思うつぼだったのだ。
ああ、本当に、なんて悪趣味な男だろうか。心の中で悪態づきながらも、この悪趣味な男の掌で転がされることを満更でもないと思っている自分が確かにいて、一番悪趣味なのは自分かもしれないと妙に納得した。