呪われた峠


 記録―――2007年春

 宮城県仙台市■■町■■峠。ここは隣接する■■町へ行くための山道で、交通量が多い大通りの抜け道となっていた。普段から車の往来は然程なかったものの、ある日を境に好奇心で若者が数人でやってくるようになった。しかしながら毎回体調不良者、負傷者を出す事例が多発した。それがおよそ半年前。そしてこの春を迎えるにつれ、負傷で済んでいたものが、死亡事例へと変わる。この場所に訪れた人の誰かしらが異常死する事例が続き、興味本位で来る者は愚か、抜け道として利用していた地元の人々さえ寄り付かなくなった。
 そうしてこの場所は「呪われた峠」として曰く付きの心霊スポットと化したのである。現在では周辺住民の恐怖から凶悪な呪霊が発生していると考えられ、東京から呪術高専に通う二名の呪術師が派遣された。



 佐狐泉は当時5歳だった。
 その日は母親の令美と弟の光と三人で出かけていた。いつものデパートで令美の買い物に付き添い、その後は同じ年くらいの子どもたちがたくさん遊んでいるところで目一杯遊んだ。程よく汗を掻き疲れたところで、令美が泉の大好きなりんごジュースを買ってくれた。父親の護は仕事で夜が遅くなるからということで、夜ご飯は外で済ますことになっていた。

 令美は黒い普通車の後部座席に泉と光を乗せた。そして車をゆっくりと走らせる。外食が嬉しくて終始陽気だった泉と光は、この車の行き先を疑う余地もなかった。
 車が走ること30分。泉が想像していたファミリーレストランには中々辿り着かなかった。いつもと違う風景に違和感を覚えた頃、隣にいた光は疲れ果て眠っていた。

「おかあさん、どこにいくの?」

 まだ小さな背丈で辛うじて見えた窓の外は明らかに街並みとかけ離れた山の色だった。不安になった泉が尋ねるも、令美の表情が窺えないまま「もうすぐだからね」とはぐらかされるばかりだった。

 泉は物心ついた頃から、生者では無いものが見えていた。それは父親、光も同様だったが、令美だけは違った。泉は車が進むにつれて、不快な音に気付き始める。この世を咽ぶような断末魔、聞くに耐えない文字の羅列、泉の違和感と不安はやがて恐怖に変わっていった。
 母にはこの音や不気味な雰囲気が分からないのかもしれない。光も眠ってしまっている。自分がどうにかしなければ、と必死で「おかあさん、かえろう」と訴えた。
 しかし、令美は「大丈夫だから」の一点張りだった。

 泉の恐怖が頂点を迎えた頃、車はトンネルに差し掛かる。そのトンネルはある峠を越えるためのものだった。まだ漢字が読めず、土地勘も無い泉がそのトンネルの名称があの「呪われた峠」と同じものだと知ったのは、この時から数年経ったときであった。
 トンネルの中は異様な空気だった。押し潰されるようなプレッシャー、すぐ隣からか真上からかどこからか分からない鈍い声、すぐ近くに人以外の気配を感じた。恐怖に屈した泉は目を瞑って頭を抱える。眠っている光が起きて怖がらないように、しっかりと手を握っていた。
 車はトンネルを出ると減速した。ようやく着いたのかという安堵と、こんなところにお店なんかがあるのだろうか、という疑念が渦巻く。すると車を停車させた令美は、エンジンは掛けたまま運転席から降りた。そして後部座席のドアを開け、何の説明もなくまず泉を降ろし、次に眠っていた光を起こして車を降りさせた。
 寝ぼけた光はもとより、泉には全く意味が分からず「どうしたの」と尋ねるも、やはり令美から何の言葉もなかった。令美の表情が見えずに、泉は必死に母の洋服を引っ張ったが、それを軽くあしらわれた。

「お母さんね、さっきのお店に忘れ物しちゃったの。取りに行ってくるからここで待っててくれる?」
「…ここで?泉もいっしょにいく」
「大丈夫よ、すぐに戻ってくるから」

 まだ何か言っている泉の言葉を遮り、令美は運転席に乗り込んだ。泉は訳が分からず大きな声を出す。令美は全く降りてくる素振りを見せなかった。泉が声を振り絞っても、ここは見たことのない山奥で、この声が誰にも届くこともなかった。そんな泉の懇願も虚しく、令美はそのまま車をバックさせ来た道をUターンして戻って行く。

「おかあ、さん…?おかあさん、まって、おいていかないでッ!」

 車が見えなくなるまで泉は叫んだが、令美が戻ってくることはなかった。何が何だか分からない泉だったが、光の手はしっかりと握って離さなかった。
 薄暗くなってきた山奥で、風が轟々と吹き上がると、そこらじゅうの木々がどよめきあった。寒くないのに体がピリピリと冷えてきた。

「おねえちゃん、ママどこいったの?」

 光がそう尋ねてきたので、泉は心配させないように取り繕う。それでもこのどよめきが怖くて足が竦みそうだった。
 しかし、そのどよめきが消えたと思った、その瞬間。

「ひっ…」

 この場所は複数の体調不良者、負傷者、異常死者を生み出した「呪われた峠」と呼ばれる場所。
 泉たちの前に人の血に飢えた魑魅魍魎の呪霊が立ちはだかった。

 泉は恐怖のあまり硬直して動けなかった。息をすることさえ、許されないと思い、呼吸すらままならなかった。光は泣き喚いて、泉にしがみ付く。
 泉は光の手をしっかりと握っていた筈だったが、次の瞬間にはしがみついていた光が、呪霊の触手によって空中に舞っていた。気持ちの悪い声と悍しい姿をした呪霊が、泉を見ていた。光はそのまま地面に叩きつけられ、耳を劈くような悲鳴を上げながら血塗れになって横たわっている。そして別の触手に泉が捕まってしまう。高く宙に掲げられながら、泉は私はこのまま死ぬのだ、と悟った。どうしてこんな目に遭っているのか。そもそも何が起こっているのかすら分からず、自分は死んでしまう。次は私の番なのだ、と光を見ながら思ってしまった。ただ恐怖に晒されつつも、必死に光の名前を呼んでいた。だが圧迫する締め付けに、声が出しづらくなってきたその時であった。
 
 上空から別の呪霊が降ってきたかと思うと、その呪霊は泉たちを襲った呪霊を頭部と思われる箇所から丸ごと飲み込もうとしている。その様子はあまりにも恐ろしく泉は開いた口が閉じなかった。
 しかし、お陰で自身をきつく締め付けていた触手が緩む。だがこのまま手放されると地面に落下し、自身も光のように血塗れになってしまう。そうなると、光を助けられない、とあくまでも自分より弟のことを心配していた泉に、聞き慣れない人間の声が確かに耳に入った。

「大丈夫だよ」

 その声と共に泉は自分が誰かに抱きかかえられているのだと分かった。真っ黒な衣服を纏ったその人物は同じく黒い長髪を束ねており、前髪の部分だけが空中に靡いていた。細く切れ長の瞳をにっこりと三日月形にさせると、彼は泉を丁重に優しく包みこんだ。泉は一瞬にしてその人物が善人だと分かる。そうすると安堵から意識に反して涙がぼろぼろと零れ落ちた。
 しかし彼女の意識はすぐに弟の方へ向く。

「光が…!」
「ああ、彼の方にも今一人向かってる」

 その言葉通り光のもとにも同じように黒に身を包んだ男性がいた。泉を救出した男が「七海、その子は?」ともう一人に問いかける。その頃にはその大きな背中越しに、泉と光を襲撃した呪霊が飲み込まれ祓われていた。その呪霊が塵になりゆく様は非常に衝撃的だったが、それが泉を抱えていないもう片方の掌に集まって円形になると、男は躊躇なくそれを飲み込んだ。その様子を目の当たりにした泉は、ただ彼を見ていることしかできなかった。

「夏油さん、すぐに病院に連れて行かないとマズイです」
「補助監督に連絡を」

 光のもとにいた男性・七海建人は泉を抱える男をそう呼んだ。彼女を抱えていた夏油傑がゆっくりと泉を地面に下ろすと、泉は自身の体のことよりも先に光のもとへ向かう。

「光、ひかるッ…」

 衣服がひたひたになるほどの多量出血、そして手や足は通常では有り得ない方向に向いている有様だった。光に泉の声は届いておらず、ヒューという歪な呼吸音が繰り返される。

「私達は山の麓まで、」

 夏油はそう言って地面に向かって手を翳した。そこから再びあの悍しい空気が流れたかと思いきや、それは泉たちを攻撃しなかった。

最速・・で行く」

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