疑惑


 夏油の呪霊操術により泉と光らは山の麓に待機していた補助監督の車まであっという間に降りる。補助監督の男は光を見るなり顔面を蒼白させ急いで車を出した。
 助手席にはルート案内も兼ねて七海が乗った。後部座席には夏油と泉と光が乗り合わせ、今できる限りの処置をしていた。とは言っても、医者でもなく病院でもないので、悪化させないように寝かせることしかできなかった。

「光…光…っ、ひかる」

 泉はまるで取り憑かれたようにずっと弟の名を呼んでいた。相変わらず返事はないが、まるであの世に行ってしまわないよう必死に引き留めているその様は、夏油らの心を痛めつけた。
 後部座席は泉、夏油、光の順番で座っていた。光は夏油の太腿に頭を乗せて体を休ませているという状況だ。

「君、名前はなんて言うんだい?」

 泉は夏油越しに光を見ていた。その視線を夏油へ向ける。顔は擦り傷と涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。夏油はその涙を優しく拭き取る。

「佐狐泉、です」
「ありがとう。光くんは大丈夫だから、泉ちゃんも休んでるんだ。君にも傷がある」
「でもわたしはおねえちゃんだから」

 その言葉は自分に言い聞かせているようだった。今彼女は必死に自分に言い聞かせ、そしてそれは相反して自身に責任を課していることに気付いていない。いずれ、彼女は姉である自分が弟を護らなければならなかった、と後悔し始めるだろう。それが分かってしまった夏油と七海は、これ以上泉に言葉をかけられなかった。



 あの峠から一番近くの病院で光はすぐに緊急手術となった。泉も医者に診てもらい処置を受けていた。その間に補助監督が泉の親へ連絡を取るためあちこちに電話をかけていた。光の手術が行われている手術室の前には夏油と七海が座って待っていた。

「おかしいと思いませんか」
「ああ。おかし過ぎる」

 彼らは今回高専からの任務でたまたまあの場所へ向かっていた。その情報が現地の人間に漏れていたとは考えにくい。だからおそらく今回泉たちがあの場所にいたのは、本当に偶然だった。だとしても。

「あんな山中に子どもが二人きりでいたなんて、おかし過ぎる」

 夏油はそう言って頭を抱えた。混乱している様子の泉に詳しく聞くことはあまりにも酷だと考え尋ねなかったが、考えられるのは二つ。一つは誘拐などの事件に巻き込まれ自力で逃げ出したものの、その場所が運悪く例の峠だったということ。
 そしてもう一つ。

「光!泉!」

 夏油らのもとに聞き馴染みのない男の声がした。その声は酷く憔悴しきっており、背広を乱雑に手に持ち、腕まくりをして息を切らしていた。その様子から余程急いで来たのが充分に窺えた。男はそこに呼んだ子どもたちがいない代わりに、高専の制服を着た少年たちがいるのだと分かると、呼吸を整えるように咳払いをした。

「今、手術をしているのが光か?」
「はい。あの泉さんたちの、お父様ですか?」
「ああ。泉はどこだ?」

 泉と光の父親である佐狐護は辺りを見回して泉がいないことに気付く。それに関しては「彼女も怪我をされていたので処置を受けています」と七海が説明した。護は泉同様酷く混乱した様子で「そうか」とその場にしゃがみ込み前髪を無造作に掻き上げた。

「君たち、呪術高専の生徒だろ?」
「はい、そうですが」
「君たちが泉と光を助けたのか?」
「はい」
「何故だ?」

 夏油と七海には俯いたまま話す護の表情が窺えなかった。薄暗い通路で非常口の緑色が煌々と輝いていた。

「私達の任務中、呪霊に襲われていたお二人を発見したので」

 夏油は自身らを呪術高専の人間だと見抜いたその鋭さから、敢えて呪霊という言葉を使った。すると護は「呪霊に?」と勢いよく顔を上げた。その顔はまだ混乱をきたしていた。

「呪霊に、二人が?」
「…はい」
「場所はどこだったんだ」
「■■峠です」

 七海がそう答えると護は再び頭を抱えるようにして尋ねた。

「そこに、二人だけしか、いなかったのか?」

 その質問に夏油は先ほど自身が考えた最悪な方の見解を再び巡らす。
 泉と光は故意的にあの場所に連れて来られ、そしてあの場所に置き去りにされたのではないか。

 その時、看護師と補助監督に連れられた泉が戻ってきた。頭部には包帯を巻かれ、左目は眼帯を付けて、手や足にも包帯やガーゼがいくつも見えた。泉は床に座り込んだ人が父親だと分かるなり「おとうさん」と駆け寄る。護はすぐに振り返り、泉を優しく抱き寄せた。護の体にすっぽりと埋まってしまった泉が声を上げて泣き出した。看護師はそのまま頭を下げて去って行った。それを確認した護は泉の泣き声が少しずつ落ち着いてくると、ゆっくりと泉と向き合い片方しかない目を見つめて、こう尋ねた。

「泉、お母さんはどうした?」

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