VIOLET


※アンケート企画「もしも夢主が夏油について行ったら」をベースにしたほんのりSFなお話しです
※ご都合解釈 何でも許せる方のみお読みください




 白昼夢―――日中、目覚めている状態で、現実で起きているかのような空想や想像を夢のように映像として見る非現実的な体験、または、そのような非現実的な幻想にふけっている状態を表す言葉。



「今帰ったよ、…ってあれ?」

 彼はそう言いながら最近凝りがひどいと言っていた肩を自分の手で押さえながらおそらくいつもと少し違う状況に戸惑いを示した。

「泉は?」

 部屋で寝転びながらゲームをしている美々子とテレビを見ていた菜々子は、傑のその質問に罰が悪そうに彼を見上げる。いつもおしゃべりな菜々子までも黙りを決め込んでいたため、これは余程のことがあったのだ、と解釈した傑はひとまず袈裟姿のまま、美々子と菜々子のちょうど間に座った。

「何かあったのかい?」

 朗らかに笑うその表情で美々子と菜々子の頭をそれぞれ撫でると菜々子がようやくその縛られていたかのような口元を開いた。

「泉と喧嘩した」
「それはまた何故?」
「…なんか最近、学校で泉に言い寄ってる奴がいて」

 それを聞いた時点で傑にとっても面白くない話であると思ったらしく「ふむ」と顎に手を当てていた。

「今日お昼ご飯一緒に食べてたら、無理矢理割って入ってきて。ムカついたから文句言ったら、泉に怒られたの」
「うーん…菜々子の気持ちは痛いほど分かるな」
「そうでしょ?泉ってそういうところの警戒心なんてまるでないから、こっちは心配して言ったってのに」
「まああの子はだいぶ平和主義者だからね」
「だとしても腑に落ちないのー!」

 菜々子は抱えていたクッションをさらにきつく抱きしめて、不機嫌さを露わにしていた。それを見た美々子が更に口を開く。

「多分菜々子は寂しかったんだと思う」
「なっ!?べっつにそんなんじゃないし!」
「自分の事を庇ってほしかったんだろう?」
「〜〜〜っ!そういうのじゃないってば」

 もうほとんど雑音と化しているテレビの音声は彼らの耳に届いていなかった。

「で、なんで泉がいないの?」
「その人と放課後に出掛ける約束、してたんだって」
「何!?それは放課後デートじゃないのか?」
「夏油様、そういうの知ってるんだ」

 美々子と菜々子の両方から意外そうなまん丸な瞳で見られると、傑は如何に自分がおじさんと捉えられているのかと痛感し悲しくなった。しかし、今はそのことよりも泉のことが気になった。呪力はあるとはいえ、それは猿たちには何の武器にもならない。まあただ相手が泉に好意を寄せているだけの男子ということなら、少し様子を見ても良いだろうか、と自身の学生の頃の気持ちを思い出す。
 自身の淡くて脆く痛かった青い時間を思い出していると、美々子が最も重要なことを言った。

「そういえばその人と遊びに行ってくるって、連絡があったきり、返信がない。既読もついてない」

 開いた口が塞がらなくなった傑は血相を変えてその場で袈裟を脱ぎ始める。

「えっ!?夏油様!?ちょっと、どうしたの?」
「泉を捜しに行く。時間が惜しい」
「いやでもここで脱いでも結局着替えは自分の部屋でしょ?」
「学校から残穢を辿れば…」

 慌てふためく菜々子をよそに、呪力は使ってないから残穢なんて当てにならないのにな、と冷静に心の中で突っ込む美々子。そして袈裟を鬱陶しそうに脱ぎながら自室に向かう傑。部屋はとても賑やかであった。

「ただいまー」

 そこに更に明るい声が舞い込んでくる。その声を聞いた途端に、傑も菜々子も挙動を止めてしまう。そして美々子はぽそりと「泉だ」と呟いた。そしてまず最初に彼女に声をかけた傑だったが、その一言に泉はかなり困惑した。

「怪我は!?」
「怪我?してないですけど…」
「何もされていないのか?」
「えっ?え?何、どういうこと?」

 ただ外から帰ってきただけなのに変に心配をされていることに困惑しっぱなしだった泉に、美々子から説明が入る。それを聞いて納得した泉は「なんだそういうことか」と笑った。

「とりあえず、夏油さん。その脱ぎかけの袈裟をどうにかしてきてください」
「…はい」
「あと菜々子はこっちに座ってて」
「…うん」

 そう言って泉は美々子の真向かいの席に座った。そそくさと自室に戻った傑を見送ると、菜々子は美々子の隣に掛ける。
 泉は鞄の整理をし始めた。いつもなら三人揃えば何かと賑やかなこの空間が今はとても静かだった。しかし泉はそのことに気付いておらず、そう思っているのは美々子と菜々子だけなのであった。
 この何とも言えない空気を遮るように傑が戻ってくる。先ほどまでの袈裟姿とは打って変わったスウェットというラフな格好はあまりにも落差があるが、彼女たちにとってはこれが当たり前であった。そんな傑は泉の隣に腰掛ける。大体彼らの定位置はこの状態であった。早速傑が咳払いをして本題に入る。

「昼間、菜々子たちと揉めたんだって?」
「揉めたっていうか、男子に強い言い方してたから注意しただけで」
「私は泉のことが心配で…」
「でもだからってあんな言い方したら、菜々子ちゃんが恨み買っちゃうでしょ?」
「別にあんな猿、どうだって」
「そりゃ呪術師ではないけどさ…」
「私は!泉と美々子と三人で食べるお昼休みが好きなの!」

 突然テーブルを叩いたかと思えば菜々子が声高らかにそう言ったので、他の三人は面食らってしまう。しかしすぐに傑が吹き出すと、続いて美々子と泉も吹き出した。菜々子のまっすぐな感情を受け、三人はその素直さに愛情が湧いたのだ。

「菜々子はかわいいね」
「うん。菜々子かわいい」
「ちょっと揶揄わないで…って」

 菜々子は鼻を啜る泉を見て再び大きな声を出す。

「何で泣いてんのよ、泉!」
「…ごめっ…菜々子ちゃんが可愛くて」

 泉は傑たちと同じようなことを述べているがその表情は180度違っていた。目尻に溜まった涙はダイアモンドのように輝いていた。
 こんなにも自分との時間を大事にしてくれる菜々子のその想いが嬉しくて仕方がなかったのだ。

「でも連絡取れなかったのは?」

 美々子がずっと気になっていたことを尋ねると、泉は眉を下げてポケットからスマホを取り出す。

「実は充電切れちゃって」
「も〜〜〜!心配するじゃん。今度からモバイルバッテリー持って行ってよね」
「…はぁい」

 眉を下げて笑った泉は仕切り直しと言わんばかりに鞄の隣に置いていた小さな白い箱を「じゃーん」という効果音を付けてテーブルの上に置く。

「何これ?」
「昼間の件は私もきつく言いすぎちゃったかな、と思ってお詫び」
「え、なに?ケーキ?」
「うん。菜々子ちゃんが食べたいって言ってたお店のとこのだよ」
「え、マジ!?あっこの高くなかった?」
「例の猿男くんが買ってくれた」
「げ、泉貢がせたの?」
「違うよ。良いって言ったのに向こうが払っちゃってて」
「…見返りに何かひどいことを要求されたりしていないか?例えば何か破廉恥な…」
「夏油さんは一旦黙りましょうか」

 笑顔のまま泉にそう言われた傑は立場を失い態とらしくしょんぼりとしてみせた。ちらりと泉を盗み見るが、彼女は美々子と菜々子に「どのケーキにする?」と全く傑を気にかけてなどいなかった。その事実を突きつけられ、本気で落ち込んでいるとトントンと優しく腕を突かれる。

「夏油さんどれにしますか?」
「え…」
「美々子ちゃんと菜々子ちゃんが、夏油さんが選んだ後でいいって」
「美々子、菜々子…」
「夏油さん何でそんなに元気ないんですか?」
「…いや、泉、君は強くなったよね」
「え、なんですか急に」

 傑の言っていることが分からない泉は首を傾げるが、彼は早速ケーキを選んでいた。その後に菜々子と美々子が選び、泉は残ったチョコレートケーキを手に取った。

 四人で甘いケーキを頬張るこの瞬間だけは、何にも勝る至高の時であった。



 どっぷりと闇に浸かったような空は少し曇りがかっていた。その雲が余計に空をどんよりと暗く重く感じさせる。そこに浮かぶ月もまた、暗く霞んで見えていた。

「まだ寝ないのかい?」

 縁側から空を見上げているとふわりと上から声がかかり、その人はそのまま私の隣に腰掛けた。ほんの少しだけ跳ねた心臓は、ただ急に声をかけられて驚いただけだということにしておこう。

「少し風に当たってから寝ようかと思って」
「そうか。もうだいぶ夜は涼しくなってきたからね」

 ようやく夏の一番暑い時期が過ぎた頃だった。それでもまだ日中は汗ばむものの、日の照りも少しずつ落ち着いてきていたのだ。

「夏油さんは名前に夏が入ってるのに、どちらかというと冬っぽいですよね」
「…そういう指摘を受けたのは初めてだよ」
「すみません、なんか変なこと言って」
「いいや。泉の考え方や感覚は、私には無いものだから新鮮なんだ」

 夏油さんはそう言って空を見上げた。私も同じく見上げる。どんよりした空に霞む月。せっかくならばもう少し綺麗な月を見たいものだった。

 そう、この前大分の旅館で見た、あの夜のような―――……。

 ―――あれ?

 大分の旅館でも確か誰かと一緒に空を見上げていたはずだ。だけど、その人の顔が、何故か思い出せない。

「さっき泣いていたのは、何か別に理由があるかい?」

 夏油さんは柔らかな口調で核心を突くのが常習だった。きっと仕事でもこんな調子だから、何も知らないめでたい人たちは彼を信用して、信仰しているのだろう。

「家族を、思い出した?」

 そう言って夏油さんはニッコリと微笑む。私はあっという間に見抜かれた図星を躱すことができず、そのまま俯いてしまった。

 私はある日、父と弟に何も告げずに家を出た。私の命を救い、心の拠り所であった夏油さんのもとについて行く決心をしたのだ。彼が表立って行動できないことは知っていた。つまるところ彼は呪詛師だった。だがその決意に後悔はない、はずだった。
 夏油さんは私たちを家族だと呼んでくれた。だから私も夏油さんや美々子ちゃんや菜々子ちゃんのことを家族のように思っていた。
 だけど、今日みたいに誰かから上限のない愛情を向けられると、私は不意に自分の本当の家族たちを思い出してしまう。その時だけは、私は本当にここに居て良かったのだろうか、と悩んでしまう。たしかに猿は嫌いだ。だけど全員が全員、悪い猿ではない。現に悠仁は底無しに善の人間だった。そういう人もいる。そのことも分かった上で、こちらに来たはずなのに―――。

「泉は結構物事を自分の中だけで考えて、狭まった思考で結論づける癖があるね」
「え?」
「正直君が私についてくるのは驚いたよ、誤算だった」
「…迷惑、だったでしょうか?」
「いいや全く、その逆だよ」

 夏油さんは空を見上げていた。その整った横顔につられて、私も再び空を見上げる。
 月にかかっていた雲が少しずつ剥がれていく。するとそこにはあの時に見た月と同じものがあった。

「嬉しかったよ、私を選んでくれて」
「だって夏油さんは私の命の恩人ですから」
「君は賢い。だからこそ、私の違和感にも気付いていたし、そして君なりの解釈も持っている」
「……何を、急に…」

 夏油さんはまるで私に何かを指し示すような口ぶりだった。それが何となくあの日、聖夜前日のことを想像させて、鼓動が速くなった。

 ―――あの時、私の隣で、一緒に月を見ていたのは―――。

「だがね、私のそばのいることだけが、全てじゃない」
「…どう、いう…」

 霞んでいた記憶の中の人物が、やがて象られていく。夏油さんより少し体格が細身だった。色白で端正な顔立ちをしていて、髪の毛がツンツンと個性的だった。切長の瞳は夏油さんと同じくらい初対面の人間には怖い印象や与えるかもしれない。でも彼が優しい人だということは、誰よりも知っていた。

「私は誰が何と言おうと、猿が嫌いだ」
「……それは、私も…」
「確かに君は非術師の母親にひどい仕打ちをされた。でも君は他の非術師に、私ほどの嫌悪感は抱いていないね?」
「…――それは…」

 的確なことを言われて、まるで心の中を見透かされているのかと思った。真っ直ぐに私を捉える夏油さんの顔を見ることができなくなり、思わず視界を下に俯ける。
 何かを言わなければ、そんな使命感を覚えた。鼓動がうるさくなるばかりで、頭がうまく回らない。そんな私の頭にやさしい温もりが降ってくる。夏油さんは眉を下げて笑っていた。私の大好きな顔だった。

「君は"やっぱり"こちら側じゃない」

 そう言われた途端、バチンと電気が流れたような気がした。










 あの日一緒に月を見ていたのは、夏油さんじゃない。彼じゃなかった。
 一緒に見ていたのは―――。
 隣にいてくれたのは―――。








「…ふしぐろ、くん…」

 泉の小さな声が静かな車内に響いた。

「珍しい、泉が寝落ちしてる」
「最近任務立て続けだったから、疲れてるんでしょ」

 助手席に座る五条はバックミラー越しに見た泉の様子に口元を緩める。運転手の伊地知もまた「少しずつ気を許してくれてるんですかね」と微笑ましそうにしていた。当の恵は、肩にもたれ掛かられながら、自身の名前を呟かれたことに満更でもない顔をつくっていた。

 その数分後、泉が目を覚ます。うつらうつらとした様子だったが、自分が恵に頭を預けていたことに気付くと慌てて謝っていた。体を動かしてしまったせいで、膝の上に置いていたものが落ちそうになってしまい、間一髪のところで泉がそれを掴む。

「ん?…これ…」

 それは先程美々子と菜々子たちへのお詫びに買ったはずのケーキ屋の箱であった。

「泉寝ぼけすぎじゃない?それ、泉が行きたがってたとこのでしょ?」
「え…?私が…?」

 行きたがってたのは私じゃなくて菜々子ちゃん、と頭に言葉の続きが浮かんだ時、泉は冷静に我に帰る。

 ―――菜々子ちゃん、て誰?

 そう思いつつも彼女の頭にははっきりと美々子と菜々子のことが記憶されていた。そして彼女たちの真ん中には泉が敬愛して止まない夏油傑が泉の好きな笑顔を浮かべていた。
 訳が分からなかった。だが記憶の中にいる彼女たちが美々子と菜々子という名前の少女であること、そして彼女らを救ったのが夏油傑だというを、泉は理解していた。しかし何故そんなことを自分が理解しているのかが、泉には分からなかった。

「そんなに寝惚けるほど、充実した夢でも見てた?」

 更に五条からそう尋ねられ、泉は今まで実際にあったことのように経験していた記憶の全てが、夢であったのかと思う。しかし夢にしてはあまりにもリアルすぎた。何もかもが本物のように感じた。夏油傑はもちろん、美々子と菜々子という少女も本当に実現する人たちであるかのように描かれていた。
 何より頭を撫でてくれたあの感触は、本当に鮮明に覚えている。

「あ、ちなみに途中で恵が泉の頭撫でてたよー」
「バッ…ちょっ…!」
「ま、僕が撫でてみてって言ったんだけどね」
「そう、ですか…」

 泉はそれを聞いた途端にすんなりと腑に落ちてしまった。おそらく夢と現実が混同してしまっていたのだろう。頭を撫でてもらった柔らかな感触は、おそらく恵の温もりだったのだろう、と解釈したのだ。

「でも撫でたあとに、泉も恵の名前呼んでたよ」
「えっ!?」
「………。」
「うわー恵も泉も顔真っ赤っか」

 助手席からケタケタと笑い声がしてくると、顔を林檎のように染めていた泉と恵も顔を見合わせて思わず笑ってしまう。
 先ほどとは打って変わって、車内は賑やかになったのだった。





 夢にしてはあまりにもリアルだった。じゃあ何だったのかと聞かれると分からない。だから夢だということにしたが、このことを誰かに伝えることはなかった。
 でも時間が経っても鮮明に覚えているあの光景が、いつまでも私の脳内から消えなかった。あの幸せな空間を、私は確かに享受していた。四人でテーブルを囲んで食べるケーキは何よりも甘く、今まで食べたどんなものよりもおいしかった。

 そして私はある日、出会う。

 街中から少し外れたビジネスビルが立ち並ぶ通り。そのビルとビルの隙間を通り過ぎようとしたその時、私は確かに見覚えのあった二人の少女を目撃した。

 彼女たちがこちらを向く。彼女たちはその瞳を大きく見開き、そして私の知る愛くるしい表情を向けてくれていた。

 しかし、そこに夏油傑はいなかった。

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