絶望の始まり


 壁外調査へはすでに何度も経験していることだった。それ故に回数を増すごとに巨人への恐怖は薄くなっていった。ただ、増していくのは死への恐怖であった。だが、ベティは知っている。彼女の仲間たちは強い。巨人には屈しない。負けるわけがない。彼女たちが生き抜いていけば、いずれ人類は巨人を一匹残らず駆逐することが出来るのかもしれない。いつも、そう思って出陣していたのだ。

 だから、今回も、またみんな無事に帰ってこれるものだと思っていた。

『ベティ、すまない。××、××××××××××』

 何か、言われた気がした。

「―――っ、ハイネッ!」

 ふと目を離した隙だった。その一瞬の隙に、ベティのすぐ後ろにいたはずのハイネが巨人の手に捕らわれていた。

「ハイネ!?」

 討伐完了した後の撤退途中の出来事だった。ベティたちはリヴァイ班と二手に分かれて任務を遂行した後馬の元まで撤退していたところ、倒した巨人の下に隠れていた巨人がいたらしい。
 ベティの声にすぐ異変を察知したのは同じ隊のミアとリーマンであった。彼女の近くまで来ると、彼らは酷く困惑していた。

「ハイネ分隊長…!」
「ベティさん、どうしますか?」
「私が巨人を引き付ける、ミアとリーマンはその隙を突け」
「はい!」
「行くぞ!」

 一刻を争う瞬間だった。今の指示通りに動けば、ハイネを掴む手首ごと切り落とせるはずだ。まずはベティが巨人の目の前に姿をチラつかせ、急旋回する。その後、ミアとリーマンの二人で手首を前方と後方から一気に切断する。今までにないくらいにガスを噴射した。ハイネが何か言っているが、そんなものは三人とも聞こえないふりをしていた。その前に、彼はさっき何かを言っていなかっただろうか。
 とにかくベティはその手首を切り落とす為に動くことで精一杯だった。巨人の注意を引き付け、時間に猶予が期待できたその時だった。

「ベティ!後ろだ!」

 ハイネの声がやけに頭によく響いた。もう目の前にハイネを捉えた巨人の腕がある。作戦を変更し、このまま私が腕を切り落とせば、ハイネは助かる。そう思い、ベティはハイネの警告を無視し、突進した。

「ベティ!」
「ハイネ、もう少しだ…っ!」

 言葉の通りあと少しだった。あと数センチの距離で巨人の腕を切り落とせた。はずだった。
 ベティは何者かの手によりその軌道を大きく捻じ曲げられ、ハイネからどんどん遠ざかってしまう。

「おい、何をする…」
「すぐ後ろに巨人が迫っていただろうが。背後も確認しないで突進する馬鹿がどこにいる!」
「そんなことどうだっていい!あともう少しでハイネを救えた!今からだって間に合う!」
「………チッ」
「リヴァイ!離せ!頼む、離してくれ!ハイネが!このままじゃ、ハイネが…!」

 ミアやリーマンらもその光景を目の当たりにしていた。おそらく彼女らの集合が遅かったことに異変を感じたリヴァイ班が、駆けつけていたらしい。
 近くの立体物に着地し、すぐに先ほどの巨人の方を見やる。既にその手からハイネは消え去り、今にも閉じられそうな歯と歯の間からこちらを逆さまに見ていた。
 ベティは全身が騒つくのを覚えた。鳥肌が立ち、そして、酷い頭痛と吐き気、最終的に込み上げてきたのは憎しみだった。
 酷く気持ちの悪い音が、ベティらの耳に届いた。

「ハイネ…、助けなきゃ」
「ベティさん…、分隊長は、もう…」
「まだ間に合う。顎から垂直に分断して、かっ捌けば、どこかにいる」
「…ベティさん、無茶だ。気持ちは分かるが…」
「私の何が分かる!?私だけで行く。お前らはリヴァイ班に合流しろ」
「…ベティ」

 口先では何とでも言えた。実際に顎から垂直に分断なんて出来っこない。そんなことしようものなら、刃の方が先に負けてしまうだろう。理屈では分かる。でも、今彼女は感情が追いついて来ないのだ。だから、ベティは今自身を制止するという正しい行いをしているリヴァイが理解できない。
 そして、彼越しに見える血飛沫にも理解ができない。

「退け、リヴァイ」
「ベティ」
「退けよ!リヴァイ!」

 分かっているのだ。本当はリヴァイだって苦しいことを。だってリヴァイは良い奴なのだ。本当はリヴァイだって、ハイネを救いたかったはずだ。でも、どこかで分かってしまっていた。あの状態で、ハイネを助け出すことは無理だったのだ。まさか、あんな形で奇襲を受けるとは思わず、呆気に取られるままに、惨劇は幕を下ろした。
 気付けば、ベティはリヴァイに拳を振り上げ何度も何度も殴っていたらしい。エルドやオルオ、後から駆け付けたハンジらが羽交い締めにして制止するまで、殴り続けていた。リヴァイは文句一つ言わずに、ずっと殴られ続けていた。それが、また悔しくて、ベティは泣きたいわけではないのに、涙が止まらなかった。
 集まってきていた巨人は、いつの間にか地面に倒れていた。もう少し早くこれだけの兵士が集まっていれば、ハイネの死は回避できていたのかもしれない。

 ハイネとは、古い仲だった。ベティが調査兵団に所属するきっかけをくれた人物だった。
 複雑な家庭環境で育ったベティにとって、ハイネは父親のようであり、兄のようであり、そして友人でもあった。
 まだシガンシナが陥落する前、エレンやミカサ、アルミン、そしてハンネスやハイネらと笑って過ごした日々がずっとベティの頭の中を埋め尽くしていた。

「奥さんも子どももいるのに…」

 そう発言する頃には、彼女の拳は力なく重力に負けてしまっていた。

 調査兵団はせっかく壁の外に出てきたにも関わらず、壁が破られたとの報告に早急に帰還することとなった。彼女は未だに信じられなかった。前を向けば、ハイネの背中があると思ってしまう。心に穴が空いたようだった。この空虚を埋めるために、どうすればいい。
 あの時、掴まれていたのが、ハイネではなく、私であれば。あの時、リヴァイの制止を振り切ってでも、特攻していれば。
 巨人に食われるのが、私であれば、なんてそんな縁起でもないことを考えてしまう。全くもって宜しくない考えだ。どうか、その考えはおかしいと注意してほしい。怒ってほしい。だが、その役目をする者は、呆気なく死んでしまった。

―――私の唯一の居場所が、崩れていく。

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