空虚を救う
上官への暴力罪で勾留されたベティは、窓一つない暗い牢屋でただぼうっとしていた。彼女の瞳には何も映ってなどいなかった。
数時間前まで確実にいたハイネが、今はもうこの世にいないという信じられない絶望を未だに受け止め切れていないのである。
松明の火が燃える音だけしかしなかった空間で、唐突に足音が聞こえる。「おい」と淡白なテノールの声に、見張りの兵士たちは慌てて敬礼をつくり応答する。
「こいつの様子はどうだ?」
その声の主は見張りにそう尋ねる。見張りはなんとも苦々しく「先程拘束された時と同じです。牢屋に入っても全く動きもしません」と答えた。その返答に声の主・リヴァイは舌打ちをして、牢屋の中のベティに目を向ける。
「おい」
「………。」
「ベティ、悪かった。俺は―――」
「なんでリヴァイが謝るの?」
リヴァイの言葉を遮り尋ねたベティは、だらしなく胡座を掻き、ずっと壁を見つめたまま彼を見ようともしなかった。その瞳はやはり何も映してなどいなかった。ひどく憔悴しきった横顔に、リヴァイは思わず目を見開く。
「リヴァイは何も悪くない。正しいことを、きちんと、行っただけだ」
覇気のない声を出したかと思えば、ベティはようやくリヴァイの方を向く。その瞳越しに自身の傷だらけの顔を見たリヴァイは一体何を思ったのだろうか。
「まただ」
「何?」
「私は、また、選択を誤った」
そう呟いたベティに対して、リヴァイは言葉を失った。彼女の言葉の重さを、真意をしっかりと認識していたからだ。彼が入団したての頃、彼女が言っていた言葉がある。
『どれだけ成績が良くたって、強くたって、選択を誤ればそれで終わりだ』
初めてその言葉を聞いた時、リヴァイはその意味を理解し得なかったが、その後すぐに仲間が肉片になるという犠牲と共に理解した。エルヴィンは選択を後悔するな、と言った。だから後悔はしないようにしていた。
ベティもその言葉を聞いていた。だからこそ、敢えて「後悔」ではなく「誤り」と「終わり」という言葉を用いたのだ。
「ハイネじゃなく、私だったら良かったんだ」
「………。」
「私には失うものもない、死んで悲しむ人間ももういない。私だったんだ」
「違う」
「違わない。ハイネは死ぬべきじゃなかった。私が死ぬべきだった。ハイネに助けてもらった時、この命を捨ててでも恩を返すと誓った。だから、私が死ぬべきだったんだ…」
リヴァイをその瞳に映しながら、淡々と述べるベティは、まるで何かに取り憑かれたようにも見えた。その異様さにリヴァイも、見張りの兵士たちも圧倒される。
それまで床に座っていたベティを立って見下ろしていたリヴァイは、ここにきてしゃがみ込み視線を合わせる。格子越しにベティを見つめるリヴァイは、やはり彼女の瞳に映る自分の顔の傷の多さを痛感した。
「捨てていい命なんて、あるわけないだろう」
その言葉は一瞬にしてベティの空虚だった視界に色を映した。
「今回の壁外調査の前日に、ハイネと話をした」
「…うん」
「アイツから手紙を預かってる」
「は…?」
「自分にもしものことがあった時、お前に渡してくれ、と頼まれていた」
「何で、リヴァイに?」
そう尋ねたベティに対しリヴァイの頭にはその当時のやりとりが蘇っていた。
「見つけられなかったら困ると思ったんじゃないか?」
「…そうか」
「ここから出たら俺の部屋に来い。それまで俺が預かっておく」
「分かった」
「それから、エレン・イェーガーはお前とハイネの馴染みだったな?」
ベティはリヴァイの問いかけに目を見開いた。その表情はまるで「何故お前がエレンの名を口に出すのか」と言わんばかりだった。
「それが、どうかしたのか」
「お前はトロスト区での一件後、すぐに勾留されていたから知らないだろうが、例の壁を塞いだ巨人の正体が、エレン・イェーガーだった」
「はあ!?どういう…」
「近々エレンについての軍法会議が開かれる。情報によると巨人化した際、同じ訓練兵に攻撃をしたらしい。その点も含めての処遇を問うものだ」
「待て待て待て、情報が多すぎる。意味が分からない」
「悪いが詳しく話している時間はない。おそらくエルヴィンはお前を証人として軍法会議に呼ぶつもりだ」
「…何の、ために?」
「エレンを調査兵団預りにするため、だそうだ」
リヴァイは彼女らが昔から顔馴染みであることを知っていた。だが、知っていたのはそこまでであった。だからこそ、今ベティが嬉しいような、悲しいような表情をしている意味がよく分からなかった。
「…そうか」
「今から勾留中のエレンのもとに行ってくる」
「…よろしく伝えてくれ」
「ああ、分かった」
そう言って立ち上がったリヴァイは身なりを整えていた。そして見張りたちと会話をした後に、ベティを一瞥し去ろうとする。そんな彼を見てベティは、彼を呼び止めた。
「何だ?」
「痛むか?」
罰が悪そうに自身を見つめてくるベティの言葉の意味を容易く理解したリヴァイは、フンと鼻で笑って自身を見上げるベティを見た。
「俺はそんなにヤワじゃない」
ベティを揶揄うように言い放ったリヴァイに、おそらく彼女の心は救われた。溢れてきた涙を見られたくなかったらしく、そっぽを向く。控えめに鼻を啜る音がしていた。
「分かったら慎ましくお勤めしていろ」
「はいはい」
「返事は一回でいい」
リヴァイは牢の中にいる涙目のベティを見て、少しは救えたのだろうか、と考えた。
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―――数日前の夜。これは先程リヴァイが思い起こしていた、ハイネとのやりとりである。
その時、リヴァイは受け取った封筒を見つめることしかできなかった。
『どうして、俺なんだ?』
もしもの時、だなんて縁起でもない大役を自分に任されたことに理解できなかったリヴァイは、託してきた本人に尋ねる。
『ベティを一番理解してやれるのが、お前だと思ったからだ』
『は…?』
『俺の次にだけどな』
そう言って太陽のように眩しい笑顔をつくるハイネに、リヴァイはどう返答していいか困ってしまった。
『リヴァイもベティも、俺から見たら本当によく似ている』
『どこがだ』
咄嗟に反抗的な言い草をするリヴァイだったが、ベティが同じことを言われると今の彼と同じ返しをするだろう。そう思ったハイネは吹き出してしまった。「何がおかしい」と尋ねるリヴァイに「悪い」と笑いながら謝った。
『ベティのこと、頼んだぞ』
その当時、リヴァイはその言葉を軽く受け止めていた。それを今になって酷く後悔していた。
ただ何故彼が急にそんなことを言い出したのかが分からないままであった。
エルヴィンの元へ向かう途中、リヴァイは階段を一段一段確実に踏みしめながら、あの夜のことをもう一度思い出していた。
「縁起でもねえこと言うからだろうが、馬鹿野郎」
弱々しい言葉は、暗闇に溶けて消えた。リヴァイもまたハイネを失ったこと、そしてあの状況でハイネかベティか選ばなくてはならなかったこと、その判断のせいでベティをひどく悲しませることとなったことを、哀しんでいた。だが、最も深い悲しみを味わっているのはベティで、だからこそその元凶の一部となってしまった自身の不甲斐なさに腹を立てていた。だからせめて、そんなベティの前で自身の悲しさなど見せてはいけないと、彼もまた必死だった。
―――霞んだ視界は、彼に入団した直後の惨劇を思い出させていた。
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