約束・後編
※暗い話になります。ご注意ください。
ベティの衝撃的な一言に、危うくグラスを持っていた手を滑らせてしまうところだったリヴァイは、彼女の言葉の続きを待った。
ベティはゆっくりとグラスをテーブルに置き、「私はさ」と続きを語る。
「地下にいた頃、娼婦だったんだ。生きていくために、自分にできることなら何だってして、お金を稼いで、ギュンターやラウラたちを生活させていくことに必死だった」
リヴァイは娼婦だった、というベティの言葉に、自身が入団直後に起こったある出来事のことを思い出した。そして彼は今になって、彼女の当時の言葉を痛感し、腹の底から込み上げてくる何かに堪えながら、ベティの話に耳傾けた。
「だがお前、元は上に住んでたんだろ?何で地上にいた人間が、地下で娼婦をすることになったんだ?」
つまるところ、ベティ・シュタインフェルトという女性は、審議所で指摘された通りカルラ・イェーガーとの異父姉妹。
「実の父親は最低な男だった」
力強く言ったベティは、空になったグラスに酒を注いだ。
彼女の父親・クラウスは地下街に住んでいた。フラッと上がってきた地上で、たまたま出くわしたカルラの母親を強引に暗闇に引きずり欲望のままに乱暴し、そのまま去っていった。後にベティが聞いたところによると、その時には娼館に行く金銭すらなかったという、何とも自己中心的な理由だった。
カルラの母はそのまま身篭ってしまい、夫にも充分に説明し、納得してもらった上で、身篭った子を産んだ。産まれたのは女児で、名はベティと付けられた。それからはベティにとって幸せな日々だった。姉のカルラとは本当に仲が良く、カルラの両親は、ベティが笑っている姿を見て、残酷な事実に蓋をした。
だが、そんな幸せな日々も呆気なく終わりを告げる。
あの男が、ベティの本当の父親であるクラウスが、再びカルラの母親の前にやってきた。クラウスは、強引にベティを引き取ると言い、止めようとしたカルラの両親に暴力を振るった。それを見たベティは、本当の気持ちに嘘をつき、家族を救うためにクラウスについていくことを自ら決意した。その時、カルラは恐怖のあまり部屋の隅に隠れたまま、出てこれなかった。
「何故、父は急に私を地下へ連れて行ったと思う?」
ベティの質問にリヴァイは想像だにしていなかった彼女の生い立ちに、何も言えなかった。
「とうとう工面しきれなくなって、自分の娘を売ることにしたんだ」
当時まだ10歳にも満たない少女であったが、地下ではそういう年齢の子をわざわざ求めてやってくる連中がいたらしい。
「毎晩毎晩、違う男に扱われていくうちに、私の思考はだんだん歪んでいった」
ベティはそう言って再びグラスに入っていたアルコールを全て飲み干した。カタン、と強くグラスをテーブルに置くと、その瞳からは一筋だけ涙が流れていた。
どうして家族は助けにきてくれないのか。誰もこの惨劇から救ってくれない。助けを求めて差し出したこの手を掴んでくれる人は誰もいない。
ベティの脳内には鮮明に当時の記憶が蘇っていた。
「何度も何度も男たちの反吐が出る行為を受けていくたび、私の悲しみはやがて憎しみへと変わっていった」
彼女の悲しみの矛先はやがて憎しみへと辿り着く。そしてその憎しみの対象は、自分の心に嘘をついてまで護ったのに、助けにきてくれなかった家族だった。
そんな生活が数年続いた。ベティは娼婦を仕事だと認識して割り切れる程には成長していた。生活のレベルは低いながらも、生きていくには不自由ない環境にまで整っていた。しかし、そうすると今度は父・クラウスがアルコール漬けの毎日となっていた。アルコールを摂取したクラウスは傲慢で暴力的だった。
ある日、クラウスはベティと些細な喧嘩になった。やがて喧嘩は暴力へと変貌した。すると、クラウスは何を思ったか、実の娘である彼女の体を撫で回し始める。ベティはクラウスの顔つきを見て、いつも仕事として割り切っていた男たちのことを思い出し、酷い吐き気がこみ上げた。
瞬間、自分を守らなければ、という本能が蠢いた。
「体の底から力が湧いてきたんだ。体をどう動かせばいいか、考えなくても分かった」
「何だと?」
「気付いた時には私の拳は血だらけで、父親は息をしていなかった」
その後は家を移り、新たな場所で娼婦として働いていたところで、ギュンターらと出会う。家も近く意気投合した彼女たちは、協力して生活をしていくこととなった。
憎しみの根源である父親を殺した。本来であればベティの心は僅かながらにも晴れたはずだが、どうしても家族のことが許せなかった。どうして私だけがこんな思いをしなければならないのか。何より同じ家に生まれた姉妹であるカルラに対し、こうも差が出てしまったことが、許せなかった。だから彼女は、地上へ出ることを決意した。そして、家族を探し出し、自身が経験した地獄を読み聞かせ、懺悔をしてもらってから殺してやる、と心に決めたのだ。
それが当時の彼女の原動力となっていたのは、言うまでもない。
「地上に出て、ちょっとやらかしてしまってな。死にかけていたところを助けてくれたのが、ハイネだった」
そこからはリヴァイも知っている話だった。ハイネ本人から直接の聞いた事があったからだ。
リヴァイはようやく一杯目の酒が空になったところだった。ベティは自分よりも進みが悪かったことに、苦笑いした。
「すまない。酒の肴には向かなかったな」
そのベティの横顔があまりにも哀しくて、リヴァイは言葉を失った。そんな中、一つの素朴な質問がリヴァイの頭に浮かぶ。
「この話、ハイネは知っていたのか?」
「…こんな胸糞悪い話、誰から構わずできないだろう」
「そうか」
「潔癖のお前にこんな汚い話は―――」
「よく耐えたもんだ」
戯けてみせたベティだったが、彼女の言葉を遮ったのはリヴァイだった。そしてそのリヴァイの言葉に、ベティはどこでもないところを見ていた視線をリヴァイに合わせる。彼は相変わらず前を向いていた。
「なに、…?」
「お前は、頑張った方なんじゃないか、と俺は思う」
少し歯切れの悪い言い方に、思わずベティは吹き出してしまった。それが彼なりの優しさなんだということを充分に理解したからだ。リヴァイは照れを隠すように、腕を組んだ。
「人を褒めるの下手かよ」
「下手じゃない」
「はいはい」
「返事は一回でいい」
ベティにとって初めてだった。自分の生い立ちは決して肯定されるべきものではなかったはずなのに、否定されなかった。きっと頑張ったと認められたことで、自分でも自覚できたのだ。私は頑張って生きてきたのだ、と。今までそんな風に考えたことがなかったベティの視界は再び揺らぐ。涙が出てくる頃には鼻を啜っていた。
「おい…」
「…酒に酔っただけだ」
そう言ってそっぽを向きなんとか誤魔化そうとするベティ。二杯目の酒を飲んでいたリヴァイは「そうか」とだけ言った。
ベティの鼻を啜る音がしなくなった頃、彼女はようやくリヴァイの方を向く。再び真っ赤な目元のベティに、リヴァイはほんの少しだけ口角を上げた。
「お前そんなに泣き虫だったか」
「…お前の方こそ、そんなに優しい男だったか?」
「俺は元々優しい人間だ」
リヴァイの珍しい戯言にベティは涙目のままに頬を緩ませる。ハイネが亡くなって以降、初めて見る表情だった。リヴァイはほんの少しその笑顔に見惚れていた、気がした。
「前に言ったな。『他の連中の前で、そんな顔二度とするな』と」
「ああ、馬が逸れてしまった時だったな」
「今後また身近な人間の死に直面するかもしれない。俺たちはそういう地獄の道を歩んでいる」
「…そうだな」
リヴァイの言葉に現実を突きつけられたベティの声は少し弱かった。リヴァイは構わず続ける。
「だからお前がまた一人でどうしようもなくなったら、俺のところに来い」
「……!」
「その時は甘えたきゃ甘えればいい。殴りたければ殴って構わない。酒が飲みたければいくらでも付き合ってやる」
「……リヴァイ」
ベティの笑顔が脳裏から離れなかったリヴァイ。だから、その言葉は考えるより前に無意識に出ていた。
「お前を救えるのなら、幾らでも俺を利用してくれて構わない」
そう言ったリヴァイは見た視線の先に驚くべきものを見る。ベティがアルコールのせいか分からないほど、顔が真っ赤であった。
「…お前、酔ったら顔に出るタイプだったか?」
「違う、…あ、いや違わない。そうだ、私は顔に出るタイプだ。最近飲んでいなかったから、耐性が薄れたんだろ」
「…そうか」
微かに笑ったように見えたリヴァイは、空になったベティのグラスに酒を注ぐ。ベティはそれをただ黙ってみていた。考え事をしながら見ていた。そしてその考え事がまとまった時、ちょうどグラスに酒が注ぎ終わる。
「じゃあお前も悲しかったり、悔しかったりすることがあれば、私に言ってくれ」
「…!」
そう言って今度はベティが残り少なかったリヴァイのグラスに酒を注ぐ。そうしてそれぞれのグラスに酒が満たされたところで、ベティはグラスを掲げた。
「約束だからな」
その言葉にリヴァイは再び口元を緩ませた。
「良いだろう、約束だ」
カチン、とぶつかりあったグラスを互いに傾け酒を飲む。その後も二人だけの飲み会は夜深くまで行われた。
その日、調査兵団内で人類最強の二人だけの秘めやかな約束が交わされた。
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