蘭丸は何杯の酒を飲んでいたことか。いつにも増して口が軽くなっているところとか。今までしたことのない行動をとったところとか。そういう面を考えるとそれなりに酔いは回っているのだろう。そのわりに足取りはしっかりしていたし、今も運転に危うげがない。かといって、なんの心構えもなしに突然バイクの2人乗りで走ることになると不安になる。蘭丸が公衆の面前で口付けをしたこと以上にとんでもない行動にネビロスの頭はなぜあんなことをしたのかという疑問よりも何事もなく目的地につけるかの不安を占めていた。
口付け以上に強烈かつ想定外の出来事があれば思考はそちらに傾くだろう。大変荒いやり方であったが、蘭丸の思惑通りである。
「とーちゃくー」
「1つ聞いていいか?」
「なあに?」
「なんで海?」
「んー、好きだから?」
「もしかして毎回このバイクで来てたのか」
「…………」
「目を逸らすな」
「……これで来てるなんて言ったらお酒飲めなくなるじゃん」
ネビロスと会える日、蘭丸はいつも浮かれていた。抱えている恋情を隠そうとしているとか、友人の関係を維持をしようとしているとか。あれこれ拗らせているが、要するに片思い相手なのだ。関係性がどうであれ、行き先がどこであれ。2人で出かけることに浮かれるに決まっている。前日に服を引っ張り出して1人ファッションショーを開き、会うのは夜だというのに朝早くに目が覚める。ラットからしたら蘭丸の方が恋する乙女だと言うくらいだ。ネビロスに知られるわけにはいかない。けれど、平常心を装うよう意識すればするほど頬が緩む。それを隠すためには酒を呷り、酔いを回していくしかないのだ。バイクで来ているなんて知られた日には没収されかねないのでいつも待ち合わせ場所から離れた駐輪場に停めて、ネビロスと別れたあと酔い覚ましに散歩してから帰っている。などということを言えるわけもなく、蘭丸はそろりと目を逸らす。
適当なところにバイクを停めてからネビロスの追及から逃げるように砂浜へ走る。分かりやすい反応に図星なのかと溜め息を吐き、ヘルメットを外してからゆっくりとした足取りで蘭丸の後を追う。
「明日の仕事は大丈夫なのか?」
「細かいことは気にしなーい!」
「細かくはないと思うぞ」
「わっ、思ってたよりつめたいっ!」
「……はは、楽しそうで何よりだ」
靴を脱ぎ、波打ち際できゃっきゃと遊び始める蘭丸。夜の海は思っていたよりも冷たく、バイクに乗っている間もずっとぐるぐるとしていた思考が落ち着く。……落ち着きはしたが、ネビロスと海に来れたことが想像以上に嬉しく物事を冷静に考えることはできてもそれを制止する理性が弛んだままであった。
ふっと静かになり、ジャケットの裾が濡れることを躊躇わずその場にしゃがみこむ。飲酒運転そして遊ぶ。振り幅の激しい百面相にとうとう気持ち悪くなったかと少し慌てて蘭丸の傍へ駆け寄る。大丈夫か? そう声をかけて手を差し出そうとする。そして、ネビロスの視界がぐるりと一回転する。
「……」
「にひひ、引っかかった引っかかった」
「おい」
「油断大敵というやつだよ」
「人が心配したっていうのにこれは意地悪じゃないか?」
回った視界が安定したとき、ネビロスが真っ先に感じたものは海水の冷たさであった。ぱちくりと目をまばたかせ、何が起きたのだろうかと蘭丸を見上げる。悪戯が成功して喜ぶ少年のようににんまりとした笑顔に、差し伸べた手を利用して綺麗な背負い投げで海に投げ込まれたのだと理解する。ぽかんとしているネビロスにご満悦な蘭丸はぱちゃり、ぱちゃりと音をたててはしゃぐ。腰までびっしょりと海に浸かってしまえば蘭丸の動きで飛んでくる水飛沫などもう気にならない。垂れてきた前髪を掻き上げ、してやられたと笑う。
衣服は肌に張り付き、鍛えられた身体のラインがはっきりと分かる。前髪を掻き上げた際に黒い髪が濡れる。月の光をきらきらと反射させる水面により紅色の瞳は妖しく光っているように見える。まさに水に滴るいい男。きゅっと胸がつまるような、どきりと心臓が跳ねたような。これは目に毒だ、調子に乗りすぎたと蘭丸は慌ててネビロスを起こそうと手を差し伸べる。その手をじっと見たネビロスはにっと笑い、蘭丸の手をとる。そして、そのまま引き寄せる。「へ」と。間抜けな声が蘭丸の柔らかな唇から漏れる。一拍置き、ばしゃんと大きな水飛沫があがる。
「っ!!」
「油断大敵、なんだろ?」
「そう、なんだけどさあ!」
「やられた分は返しておかないとな」
跨るようにネビロスの上に倒れた蘭丸。衣服も肌も密着するような至近距離。びっしょりと濡れたせいで冷えた身体を温めるようにお互いの体温が混ざり合う。想定外の出来事に蘭丸は声にならない悲鳴をあげて立ち上がろうとする。が、上手いこと身体に力が入らずひっくり返りかける。危ないとネビロスは逞しい腕を蘭丸の細い腰に回して抱き寄せる。
倒れ込んだとき以上の密着に蘭丸はくはくと唇の開閉を繰り返し、林檎のように赤く頬を染める。ネビロスの端正な顔に楽し気な笑みが浮かぶ。それを直視できなかった蘭丸はきゅうっと目を瞑って身体を震わす。これはしばらく立ち上がれなさそうだなと判断したネビロスはひょいっと蘭丸を抱えて海から出る。
「飲酒運転といい、悪戯といい。とんだ悪ガキだな」
「なかなかしない体験だったでしょうがあ」
「とにかく心臓に悪かったな」
「……今以上に心臓に悪い状況はないからね」
ぶうっと唇を尖らせ、ネビロスの肩に顔を埋める。潮の香りが鼻腔をくすぐり、潮騒のように騒がしくしていた心臓がほんの少しだが落ち着く。もう大丈夫だから降ろして。そんな意味を込めて胸元を軽く叩く。さくりと砂浜に足が沈む。さらさらとした砂が裸足の裏につくが、それがなんだか心地良い。さく、さく。足音を楽しむようにゆらゆらと歩き、未だに熱を帯びる頬をぺちぺちと叩く。そこでふと店でしていた会話を思い出す。
「ぱっと思い浮かぶ大事なもの」
「?」
「居酒屋で話したじゃん。連想ゲームだよ」
「そういえばしていたな」
「お前は何を浮かべたんだって質問に答えてなかったなあと思って」
さく、さく。ざく、ざく。話題を掘り起こした蘭丸はそれきり静かになり、2人分の足音が響く。波の音は穏やかで、月明りはとても美しい。新鮮な空気を大きく吸い込み、胸に取り込んだ分を吐き出す。自律神経を整えるようにぐぐーっと身体を伸ばし、ふっと身体の力を抜く。くるりと振り返り、蘭丸が喋るのを待っていたネビロスと目が合う。
ああ、やっぱりこの人のこと好きだなあ。自分がどれだけ惚れているのかを再確認する。
「ゆらゆらと足場が安定しない。そんな感じに大事なものも決められない優柔不断な奴なんだ、僕」
「大事なものをすぐに決められる奴の方が少ないかもな」
「浮かばないわけではないんだよ。シオンさまは大事。でもそれは性別と心がちぐはぐで生き辛い僕が居場所を得るために必要な存在だから。離れた弟も大事。だけどそれもやっぱり自分の心を守ってくれた存在だから。僕にとっての大事って何かしらの理由があって打算的なの」
「それも悪いことじゃないと思うが」
「あはは。優しいねー」
この先は語らない方がいいと、今までずっと口を閉ざしていた。けれど、あれから話を蒸し返していないだけで自分が彼を好いていることは既に知られていることだしもう言ってもいいのではないだろうか。波で揺れる海面のように、心がゆらゆらと揺れる。ゆらゆら、ゆらゆらと。もともと蘭丸は意思が強い方ではないし、自己評価の通り優柔不断で流されやすい。決意を固めたとしても何かしらのきっかけがあればそれを言い訳に変えてしまう。例えば、そう。なんて答えたのかというネビロスからの質問にあの日にした連想ゲームで呑み込んだ言葉を回答にしただけだという言い訳とか。
すっとネビロスを指差し、はにかむ。明日の朝にはなんてことしたのだと頭を抱えて過去の自分を怒り、激しい後悔に苛まれているであろう未来の自分に謝りながら首を傾げるネビロスに答える。
「初めての打算的じゃない大事なもの」
「…………」
「一緒にお酒を飲むだけでとっても楽しい時間になる。こうして馬鹿みたいなことを不意打ちですると珍しい表情を浮かべるから見ていて飽きない。僕的にはとっても最高の友人。身体の相性が良いから簡単な前戯からの本番でも気持ちよくなれる。余韻が残るから仕事で下手な相手に抱かれることになってもきみとしたことを思い出せばそれなりに気持ちよくなれる便利なセフレ。残酷なくらい優しくて、更に質が悪いことに誰にでもそう。上げてすぐ落とされるから希望を抱かせてもくれない最悪な片思い相手。前半2つだけならすごく楽なのに最後の1つでこの気持ちも関係も断ち切れたらいいのにって思うくらいだ。それでも大事にしたいなって思える、初めての相手だよ」
「……やっぱり酔ってるだろ」
「かもねー」
ふわふわと足取りが軽い。ネビロスの指摘通り酔いが回っているのだろう。飲んだ酒に酔っているのか、薄れない恋心に酔っているのか。それは蘭丸にも分からない。
さくり、さくり。蘭丸は重たい砂浜を蹴るように回る。舞った砂は靴の中までびっしょりと濡れたネビロスの足元につく。それでも怒らず、嫌な顔も浮かべないのだからやはり優しいポケモンだ。調子に乗った蘭丸はネビロスの手をするりと握る。また海にでも投げるつもりかと衝撃に備えて身体に力をいれるネビロスだが、二度と同じことをするつもりはないらしい。両手をとった蘭丸は同じ性別でもやはり手の大きさに差があるなとまじまじと観察しながら、砂浜の上で踊るようにネビロスとくるくる回る。それがとても楽しいのだろう。ネビロスの紅色の瞳を見つめ、蘭丸は少女のようにふくふくと笑う。
「いい気分だよ。きみも酔ってくれたらいいのにね」
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