走ることが苦手だった。疲れるし、汗をかくし、呼吸をするのもしんどいし。そもそも僕は水中に生息するポケモン。ただでさえ陸地にあがって歩けるようになるだけで時間がかかったのだ、走ることまで得意になれるわけがなかった。
でも、それでも。今は違う。走ることが苦ではない。視界に映るものは早送りをしているように流れていくことが新鮮だった。そう思う余裕は心にあったが、身体の方はそうもいかず。途中で何度か足を止め、膝に手をついて肩で息をすることになる。その休憩はほんのわずかなことだけれど、とても長く感じた。ああ、一分、一秒でも早く先生に会いたい。会ってこの胸じゃ収まりのつかない思いを伝えたい。足を止めてはその思いに背中を押され、再び地面を蹴り始めた。
* * * * *
先生の家に辿り着いた時には息も絶え絶え、汗は髪から滴る。しんどい、もう少し陸地で運動すればよかったと後悔が残る。こんな可愛くない姿で先生の前に現れるなんて嫌だなと、いつもなら帰るなりなんなりして身なりを整えるところだけれども。今日は話が別。息が整ったところでインターホンを鳴らす。
「はい」
「先生!」
「っ、」
みっきーが出たら挨拶も手短に部屋に直行、先生が出たら飛びつこうと決めていた。そして出てきたのは先生だった。
久しぶりの先生の姿を見た僕は、ああ。やっぱり綺麗な顔してるなあ。なんてことを考えながらタックルの勢いで飛びつく。当然、そんなことを予想していなかった先生は声をあげる間もなく、後ろに倒れこんだ。
怪我してないかなと心配もあったけれど、それよりも何か月ぶりの先生の温もりや匂いでいっぱいになっていて、もっと触れていたいという欲が勝り肩に顔を埋めた。なんだか泣きそうで、目は熱くなるし、喉もからからして上手く声が出ない。ようやく絞り出せたものが「先生のばかあ!」というものだった。
「……久しぶりに来たと思えばいきなりそれか」
「だって、その、あの」
「とりあえず落ち着け。何が言いたいのか分からない」
「〜〜っ、なんで? 僕、あんな酷いこと言ったのに、どうして……っ」
先生に背中をさすられ、深呼吸を数度繰り返す。そしてようやく聞きたかった質問を口にできた。それでも主語がどこにもなくて、最初先生はなんのことだ。という顔をしていた。けれども、僕が抱きしめている絵本に視線を移してから「ああ、それのことか」と納得したような声をあげた。
「やっぱり買ってたんだな」
「それについても言いたいことあるけど! 全然会いにも行かなかったし、連絡もとってなかった僕がこの絵本を手に取るとは限らないのに!」
「見ると思っていた」
普段、あれだけ好きと言っても友人としてファンとしての言葉と捉える鈍い先生が自信があったとでもいうように断言する。先生は僕が離れていたとしても絵本は絶対に読む、それくらい好いてくれているという確信を得ていたのだ。
ああ、それくらい僕が先生のことを恋しく思っていることも自覚してくれたらいいのにと思わなくもない。が、今回は僕がファンだという嘘から始まった言葉を先生が鵜呑みにしていてくれたことが幸いしたと喜ぼう。
「でも、やっぱり分かんない。どうしてわざわざこの絵本描いたの。素敵なお話だと思った、だけど、これは」
「もったいないと思ったんだ」
先生の手が伸びる。そしてそのまま、走ってる最中ですら緩めなかった僕のマフラーに手をかけた。しゅるり。小さな音をたてて解かれ、重力に従い床に落ちる。露わになるのは人目を気にして隠していた鱗。これに外気が触れるなんてめったにないことで、慣れない感覚に身体が強ばる。
そんな僕の様子を察したのか、先生はぽすっと頭に手を置き。まるで壊れ物を扱うかのように撫で始めた。
「お前のそれは綺麗だと知ってほしかった。無理してまで晒さなくてもいいが、少しでも自信をもてたらいいと思ったんだ」
まるでぐずる子どもに読み聞かせをするかのように優しい声色で語る。その一言一言が僕の心に沁みこむ。顔をあげれば、先生のひまわりみたいな瞳に涙でぐしゃぐしゃになった僕の顔が映る。酷い顔をしている。
「勝手に絵にしたことを怒ってるのか?」
「違う! 怒ってないし、嫌じゃない。ただ、」
優しかった先生の表情が少し曇る。それに気付いて食い気味で否定する。
確かに、初めてこの鱗を見られたときすごく不安だったし、怖かった。先生からしたら僕は怯えているように見えただろうし、そう捉えられてしまうのも仕方がない。でも、このいっぱい詰まった気持ちを嫌悪感だとかそういうものだと勘違いされたくない。その一心で必死になって伝える。
「そんな風に思われたの初めてで、嬉しくて、すごく幸せで。どう言えばいいか分かんなくて」
ありがとう。
絵本の感想をたくさん言いたかった。どこシーンでどう思ったか、鱗がいっぱいに広がるシーンが綺麗すぎて感動しただとか。原稿用紙いっぱいにつめこんでも足らないくらいで、きっと話し始めたらきりがない。
だから、ぎゅっと抱き着いて、たくさんある感想を詰め込んでお礼を伝えた。それから、今一番伝えたい気持ちを不格好ながらに笑顔を浮かべて、言葉にする。
「先生のそういう口下手な代わりに見える形でくれる優しさ、大好き」
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