遠き日の恋心

 夢を見た。
 音はあるけれど、声はなく。背景はあるけれど、人物に焦点が合っていない。そういう夢。
 夢の中の僕は楽しげにお喋りをしている。久し振りに声を出すから掠れ掠れだけれど、上手く音にならない分は身振り手振りで伝えようとする。もともと物をあまり知らない僕であったから使いこなせる語彙も少ないため、声を出せたとしても会話の仕方は変わらないだろう。
 そんな僕を見て、相手は呆れた表情を浮かべる。けれど、聞き流すことはせず律儀に相槌を打つ。外の世界について根掘り葉掘りと問えば説明してくれる。途中で聞きすぎだ、少しは休ませろと叩かれるけれども……そのやりとりすら楽しく感じてしまう。ほんの一瞬の接触だけだが、自分以外の体温を感じられることも嬉しくなる。そして欲が出て、もう少し触れたくなる。あの頃の僕には知性も理性もあってないようなものの野生のポケモンだったから、そう思ってしまえば勢いのまま飛びつくのだけれども。

「……、……!」
「…………、……」

 叩いたら満面の笑みを浮かべ、突進するように抱き着かれるなんて思いもしないだろう。身構えることもできず、勢いのまま倒れ込む。人の手など一切入っていない硬い地面をした洞窟でなんたる危険行為。ポケモンであっても人の姿をしているときなら怪我をしかねない。……この場合、相手が相手だったから怪我なく済むのだけれど。それでも危ないことに違いはないので抱き着かれた相手は眉間に皺を寄せて叱る。
 残念なことに叱られることすらめったにない経験の僕には反省よりも先に構ってもらえることが嬉しくて効果はないのだけれども。でも、今思えば飛びつく僕も怪我しかねないのだからというような内容で叱られた気がする。もう何十年も前のことだから記憶も朧気で、確信する術はないがきっと彼ならそうしそう。

「…………」
「……? ……!」
「……、……」

 会話が弾む。けれど、その音は僕の耳に届かない。何の話をしているのだろう。何の話をしていたっけ。あの頃、彼と過ごす時間が僕の日常であり、特別であった。だから来てくれるたびに、共に過ごせるたびにその幸せを噛みしめるようにしていた。にも関わらず、思い出せない。
 きっとそれは贅沢な話なのだろう。あれだけ尊くて特別な日常を上書きするほど素敵な日々を過ごせたということなのだから。スズメちゃんたちと出会い、毎日が充実すれば古い記憶から薄れていってしまうのも仕方がない。けれども、それでも。

「……みどりちゃんのこと、忘れたくなかったなあ」

 鼓膜を震わした音は自分の声。重たい瞼をあげれば先程まで見ていた懐かしい光景ではなく、見慣れた天井が広がっていた。あれは夢であったのだと理解するのに時間はいらなかった。夢の中であれが夢だと理解していたのだから当然か。
 頬を伝うものに気付き、指先で触れる。夢を見ながら泣いていたのだと自覚したら次から次へと大粒の涙が溢れてくる。止めようと思えば思うほど逆効果で、涙の数だけ思い出したいことが増えるのに姿も声も何も朧気だ。

「……瓏々、どうしたの?」
「スズメちゃん……う、うううう」
「熱が出ている……わけではないですね。なら、昔の夢でも見ましたか?」
「僕、僕ね。忘れたくなかった、っなんで、なんで」
「落ち着いて、深呼吸して」

 押し殺した泣き声が耳に届いたようで襖が開かれる。仄かな月明りとともに入ってきたのはスズメちゃんだった。柔らかい声で名を呼ばれ、抑えていた涙と声がどっと溢れてきた。発熱を確認するようにスズメちゃんの冷えた手が額に触れる。その体温は今自分が求めているものに近いようで遠くて、それがまた寂しさを煽る。
 昔の夢。そう言われた瞬間、我慢の限界に達した。スズメちゃんの肩に頭を埋め、泣きじゃくる。どれだけ経ったのだろう。喉がひりついた頃に涙が乾き始めた。

「……瓏々。今から歩けそうですか?」
「えっと……多分大丈夫」
「そう。じゃあ、少しお散歩しましょうか。夜遊びに連れまわしたなんて知られたら甘宮に叱られそうだから皆には内緒ですよ」

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