4


 時間5分前指定の場所に着くと既に待合人は来ており、壁に寄り掛かっている。顔は整っているしセンスも悪くないから、夜の薄明かりの中でも一目を引く。現に、行きかう人もつい目で追っているようだ。
 じっ、と見ていたら気付いたのであろう。待合人が顔を上げこちらを見て笑う。それを見て私は顔がこわばった。だって、だって!

「なまえ、お疲れ。今日も可愛いね」
「うあーー」

 イケメンに後光が差していて思わず奇声を挙げ蹲ってしまう。そうか、そういう事か。今日は別人バージョンでくるのか。
 蹲ったままでいると相手は慌てたように私の襟首を掴み立ち上げ、一目がつかない建物の影にやんわり引きずっていく。

「おい、ふざけんな。今日のための準備にどれくらい時間掛かっていると思っている。つまらない事でミスしたらお前の給料9割引くからな」
「ひぇ、残るの1割…」

 顔を近づいてきて私にだけ聞こえる声で話すこの傍若無人こそ、私の上司である降谷零さんであり私の貴重な年休を潰した張本人である。

「まぁ、言われた通りマシな格好はしてきたんだな」
「……はい」

 そりゃ、美容室まで用意されたらね。今日は普段じゃ手が届かないような高級なワンピースにボレロ、控えめだけど桁が一桁多いバンプスなどフルコーディネートだ。鏡で見た姿は確かに別人みたいで、身なりって言うのは本当に大事ですね。

「よし、じゃあ行くか」

 出してきた手を見て、次に先輩の顔を見て、やっぱり手を見て嫌無理だろと思って無視しようとしたら、無理やり手を繋がされた。いててて、リンゴ潰せる位の握力あるだろこの人。諦めて素直に彼の隣を歩く、さぁ有給を潰された地獄の覆面捜査の始まりだ!


「綺麗だね」
「ね、あれ何て名前の魚なんだろ」

 近くにいる学生カップルが話しているの聞くと和むというより、もはや辛い。良いよね、恋人通しできゃきゃうふふ。私もこういう夜の水族館という場所を恋人と過ごしてみたいよ。
 耐え切れなくて降谷さんの方を見ると、ぼんやりと大きな水槽を見つめている。蛍光灯の白い光が緩やかに揺れて先輩の髪と顔を照らし、何というかもう凄まじい位イケメンだった。正直降谷さんの顔は好きなので精神衛生上、宜しいのかよろしくないのか微妙な所だ。

「ねぇ、降谷さんあそこ。あれパルチックチョウザメですよ。絶滅危惧種に指定されているキャビアなんて貴重ですね」
「……」
「あ、あちらにはニジマスがいますね。山の魚もいるんですね、良いですよねニジマス私小さい頃祖父がよく取ってきてくれて好きなんです」
「……なまえ」
「え、あそこに「なまえ」

 ぐいと手で頬を寄せられお互いの顔を見つめ合う形になる。

「喋りすぎだ。何だ緊張しているのか?」
「そ、そりゃ緊張しますよ。こんな恋人みたいなことをするなんて」
「恋人みたいじゃなくて、今は恋人同士だろ」
「は」

 薄暗い中楽しげに笑う先輩の顔を正面から見て、赤面しない女子などこの世にいるのだろうか。見るからに耳まで真っ赤になった私を見て、降谷さんは口元を拳で隠して笑う。あーもう死にたい。何でまた私がこの任務しなきゃいけないのか。そりゃ公安に女性は滅多にいないですし、先輩の素性が知れて協力してくれる同年代の女性と絞ると、私が手っ取り早い。だがしかし、何でまた夜の水族館なんて所を麻薬の密売者共は売買の場にしたんだ!場所がこんな所じゃなければ、私は今頃悠々に自宅で撮り溜めていた映画を見ながらお酒を飲んでいたであろうに。

「降谷さん近くないですか」
「お前の話し方だとボロが出るんだから仕方ないだろ。見た目だけでも恋人同士にみえなきゃ不信だろう。いい加減慣れろ」
「いや、それは生理的に無理と言いますか」
「おい」
 
 ぎろりと、他人から見えない位置で私を睨みつけてくる普段通りの降谷さんを見て安心した。他人に優しい降谷さんなんて恐怖でしかない。道をゆっくりけれど不自然でない程の速さで歩きながら、見える魚について話をする。普段通りのペースになってきたことに安心し、私の緊張もようやく取れてきた。まぁ水族館なんて縁のない場所に来れて良かったと前向きに思うことにしよう。

「わぁ」

 通路の終盤に差し掛かった所でメインの一つである、大きな球状のガラスの中に数種類のもクラゲがいて幻想的にライトアップされている。他の部屋より照明が落とされ、赤や青といったライトに時間が経つと切り替わり周囲の人々も足を止めて眺めている。
 思わず見入っていると、ふいに腰を引かれる。抵抗もせずに流れに身を任せると、正面から抱きしめられる形になる。目の前から香水なのだろうミントみたいな香りがした。反射的にひゅ、と息を吸うと口を手で塞がれた。

「喋るな、動くな、始まったみたいだ」

 小さく頷くと、口から手が離れた。危なかった、思わず大声で奇声を挙げる所であった。いや、しかし以前このゼロ至近距離はとてもつらい。降谷さんだからこそゼロ距離なんて!はは、自分でもひどいと思う。
 先輩の首に手を回し、手のひらに収まる小柄のカメラを取り出し自分の後ろを撮影するように設定する。降谷さんが見ている先を意識して、録画ボタンを押す。無言の間、心臓が激しく動く音がする。耳元によってきた口が、もう良いぞと言う。肩から力を抜いてバッグにカメラをしまう。

「後で」

 そう呟くと降谷さんは離れていった。ターゲットの後を追ったのだろう。どうやら思惑通りターゲットは現れたみたいだ。この先私はお邪魔でしかないので、出口付近に待機している風見の所に合流しようとしよう。そっと、人混みから抜けるように非常口の扉を開け中に入る。誰もいない通路で扉にもたれるようにしゃがみ込む。

「はぁ、緊張した」

 何となく祭りが終わったような寂しさを感じたような気がした。



now...