いくらで幸せになれますか
随分と長い時間泣いていた気がする。
顔を上げて服の袖を離すと、私を抱きしめていた木兎先輩の腕も緩んだ。ぐずぐずの鼻を鳴らして体を離して、先輩の腕を緩く引っ張った。そろそろ帰らないと、もう夜も遅いから。
目元が真っ赤なまま、明らかに泣いたとわかる状況で道端を歩く。季節はずれの海だ、出歩く人も少ないだろうと思ってそのままにしていたら、木兎先輩は私にタオルを差し出した。
「やっぱ、その、泣いてると恥ずかしいだろ」
タオルを持っていたのかとか、持っていたなら抱きしめなくてもいいんじゃないかとか、色々言いたいことはあった。けれど、少し焦った様子の先輩が少し可愛く見えて思わず笑ってしまう。
お礼を言って駅へ急いだ。タオルは昔と変わらない、木兎先輩の匂いが染み付いていた。
ガタンゴトン、電車の中で揺られていると眠気が襲ってきた。泣いた分体力を消費したのかもしれない。
このままなら三十分もかからずに最寄駅に着く。先輩が起きているなら起こしてもらおう、私が隣人ってことも知ってるから。少しだけ、そう、ちょっとだけ、幸せな時間で眠りたい。
うつらうつら。首が前後に揺れる。このまま眠って、それで日付を超えてたらどうしよう。先輩が私を忘れてたら。
でも、先輩の隣は安心できる。不安も悩みも隣にいるだけでゆっくり溶かされるようで、私は隣に座る先輩のことを気にしながらも意識を暗闇に放り投げた。
意識がブラックアウトする直前、先輩が私の頭を自分の方に寄せてくれた気がした。
電車を無事乗り継ぎ、部屋のそばまでやってくる。時計は何となく見たくなくて、木兎先輩の服を握ったままだった。先輩の様子が変わることはない。隣に並んだまま、お互い無言のままだった。
二人してドアの前に経って、揃って鍵を取り出した。
「先輩、」
先輩の方がはねる。
「今日はありがとうございました。…また会ってもらってもいいですか」
「へっ、あ、お、おう!」
「今度はフクロウカフェに行きましょうね」
先輩そっくりのミミズクがいる。それを先輩に紹介したい。
また明日、初めてそんな言葉を口にしてドアを開けた。まるで夢みたいな一日だった。これで先輩が私のことを忘れないでくれたらどれだけいいだろう。でも、今日はいつもと違った気がする。ちょっとくらい希望を持てる。
上機嫌で部屋の電気をつけて、そこでやっと携帯の時計を見た。零時三分。
「…え、」
ふわふわしていた気持ちが一気に冷めた。
ドアの前、最後に声をかけた彼はやけに挙動不審ではなかっただろうか。あの時の目は果たして、甘い光を宿していただろうか。
忘れられている。そうだ、いくらあんなに泣いたって、彼の問題は解決していなかった。私はまた忘れられる日々を繰り返すのだ。
天国から地獄へ落ちた。幸せだった時間は私の胸を痛ませる一因に変わり、いつもと同じく苦しい日々が始まってしまう。冷水を浴びせられたような心地だった。
幸せが、暗い闇の中に溶けていく気がした。
―――
――――
次の日、ドアを開けると先輩とかちあった。どうやら先輩も二限があるらしい、使い込まれたエナメルのチャックが開いてプリントが覗いていた。
あんなにぐしゃぐしゃになってたら書きにくいだろうに。そう思いつつも会釈して階段に向かおうとすると、不意に後ろから腕を引っ張られた。
「お、おはよーございます!」
唖然。まさにその一言に尽きる。
木兎先輩から挨拶してくるなんて珍しい。少なくとも、ここ一ヶ月はそんなアクションは見せてこなかった。たまに挨拶してくる日もあったけれど、こんなに緊張はしていなかった。
「…おはよう、ございます」
とりあえず挨拶は返すべきかと返事をした。先輩はそれを聞いてすぐに笑顔になって、そして私の隣に並ぶ。
「知ってると思うけど、俺、木兎光太郎!よろしく!」
「はあ」
なんで隣に並ぶんだろう。自己紹介で彼に記憶がないことが明確になったし、私と関わる義理も道理もないよな。不審者を見る目つきで隣に視線をやると、彼はそれがお気に召したのか「変な顔」と噴き出した。
…まあ、怪しい人物じゃないのはとうの昔に知っているし、自己紹介くらいいいだろう。
「碧羽、」
「瑞希!だろ?」
「…えっ」
いきなり名前を呼ばれた。昨日と同じように心臓が跳ねる。なんで、私、名乗ってないはずなのに。
もしかして表札でも見たんだろうか。でもそんな素振りは一度も見せなかったような。
「表札見たんですか」
「ん?んー…何となくそんな気がしたから!」
「…バカなんですか?」
「ひどっ!え、もしかして間違ってた?」
「合ってますけど、勘って…」
勘って、そんなバカな。表札も見てなかったのに当てるなんて。
そう、この人はそんな人だった。こっちの様子なんて知らぬ存ぜぬで引っ掻き回してくる。今だって私が顔を赤くしている原因を一つも理解していないのだろう。
嬉しかった。一番最初の、私が告白した木兎光太郎という男は、私のことを名前で呼んでくれていたから。
名前を一度呼ばれただけでこんなに幸福感を得られるなんて思ってもみなかった。それに、勘であっても私の名前を覚えてくれている。
私に対する記憶は完全に失われていない。それが感じられるだけでもう、充分希望に値するのではないだろうか。
あの日私たちをけしかけた赤葦たちが脳裏でちらつく。あの時私は赤葦の行動を「余計な世話」と言ったけれど、それは訂正したい。決して余計な世話なんかじゃなかった。
「そうです、碧羽瑞希です。絶対忘れないでくださいね」
言って上にある頭を睨みつけてやれば、彼は…――木兎光太郎は、首をかしげつつ口を開いた。
「よくわかんねーけど、碧羽」
ああ、もう下の名前では呼んでくれないんだな。いつか呼ばせてみせますけど。
負け試合に挑む気はないけど、勝算が見えれば勝負は大好きだ。だって私も梟谷学園バレー部マネージャー、猛禽類の一人なのだから。
「碧羽の部屋って表札出してねーじゃん」
…すっかり出した気になっていた。
修理代を請求します
(いくらになっても構いません)
(あの人との未来があるのなら!)