水を差すなら骨を断つ

 
痛む頭を押さえつつ、必要なものを揃えるための手続きのために走り回る。昨日見たものが信じられないとも思えたが、朝は悩む俺一人になど優しくなかった。
期日前にイベントをねじ込んだせいで思ったように広報がうまくいかず、これではキッドをおびき寄せるどころの話ではなかったのだ。

「頭が痛い…」

呆然とする俺を鼻で笑った三好はエレベーターの奥に消えた。追いかけたが、ゆらゆらとした亡霊の後ろ姿は見つけられなかった。…本物だとして、あれは何をしに来たのか。
幽霊と似た足取りで、ゆらゆら、人の海を揺れながら進む。寝不足に加えて情報量が過多だった。普段だったならまだ耐えることもできたが、今回は予想外が多すぎる。課長はいったい何を考えているのやら。

とにかく、なんとかイベントに間に合うようできる限りのサポートを入れてきた。何とか人も集まるだろうと言ったところか、キッドが来る可能性は限りなく低い。
そもそも一日だけの行事をこんな時期にねじ込んで来られるはずがない。キッドがどこの誰かということは特に興味はないが、平日であれば社会人だろうと学生だろうと昼間に来ることは難しいだろう。

我ながら凡ミスをしてしまったな、と思いつつも、イベントが開催できるだけでも御の字だ。それに、盗みはイベント中に行わなくともいいことくらい知っている。

「鏑木、進捗はどうだ?」
「順調…とは言い難いですね。メインに加えて、他の展示品も用意しなきゃダメでしょう。それが難しくて」

目的の宝石は比較的容易に展示できるようになったが、依頼した人間が多岐に渡るジャンルのコレクターのため、どういった指向にするか決まらないのだ。
広報はコレクターの収集品を見せるということで適当に広めてもらっている。宝石展覧会…これまでに集めた宝石が何点あるか知らないが、少なくないことは確かだ。それでいいだろう。
個別に貸し出しているのなら強く言い出せないものの、集められるだけ集めてもらうか。

「ある程度の融通は効かせてくれますし、早めに警備体制も伝えないと」
「手間をかけてすまない」

全くその通りだ。

「そういえば、今回のメインはどんなものなんだ?」
「…今回依頼した鈴木氏は、キッドに挑戦状を送りつけることで有名。キッドに盗まれ返却されたものも多くあります。返却されたものは目当ての品ではないでしょう」

そうなると、盗まれたことのあるものをメインにしても意味はない。盗まれていない宝石は大抵小ぶりなもので、他にあるものもビッグジュエルとは言い難い。
このあたりで考えることをやめた俺はレプリカを出すという決意をした。

「真木が手にしていただろうジュエル」
「…これは」
「中々、悪趣味だと言わざるを得ない代物ですよ」

90カラットのダイヤモンド。レプリカとはいえ本物と見まごう程度の作りをしている。
本物ほどではないにしろ高価なものだ、できるだけ丁重に扱って欲しい。
未だ本物は持ち主に返ってきていない。キッドならばすぐに返却していてもおかしくないのに、それがない。ということは、真木のそばにあった宝石はキッドが本当に欲するものだったか、あるいはキッドの手元にないか…そのどちらかだろう。

「キッドの探し物が一つだったとして、それを見つける可能性は天文学的な数字にでもならないと無理でしょう。だからこそ、これです」

手元にないということは目当てだったかどうかも確認できていないはず。そして宝石の在処もわかっていない。
言いつつ、レプリカを見てふと思いついた題材を口にする。

「生と死」
「…?」
「結構いいテーマだと思いませんか?」

それだけで言いたいことがわかったのか、佐久間さんは苦笑いをこぼしながら「怖いテーマだな」と応えた。


―――
――――
今回はレプリカをメインに逸話のある宝石を揃えてもらった。
展覧会を行うにあたり、各方面から厳しい言葉を投げられたが、今回ばかりは甘んじて受けることにする。展覧会や博物館の企画展といったものは、基本、三年ほど前から準備をしているものだということを心に留めておく。

ここで驚くべきことは、展覧会の開催前日にキッドからの予告状が届いたことだ。まさか急ピッチで仕上げた企画に飛びついてくるとは思わなかった。
とはいえ、今回の展覧会のことは、依頼人…鈴木次郎吉氏が大々的に挑戦をたたきつけていたのだが。前にビッグジュエルの挑戦状を直前に送り付けたこともあったらしいので、さほど驚くべきことでもなかったのかもしれない。
キッドは当然のように展覧会の日中に盗みを働くことにしたようだった。

「今回の警備、本当にキッドを捕まえられるのか?」

警備の確認をしているところで、協力要請をした中森警部が声をかけてきた。かつての自分の上司であった彼は、キッドを長年追い続けているだけあって勘がいい。

「このままであれば…駄目ですね」
「なんだと?」
「今まで散々取り逃がしてきた獲物が、今更こんな警備で逃げられないわけがありませんから」
「…なら、こんな警備は無意味だろうが!」

短気なところは直したほうがいいと思うぞ、中森警部。心の中で忠告しておく。
警部はキッドを目の敵にしているが、そもそも、警部はキッド以外の人間が盗みを働く可能性を失念している。この警備は一般の盗難に対するもので、決してキッド単体で見ているわけではないのだ。

「逃がしたら追うだけです」

かち、かち。右腕につけた時計が音を立てている。
キッドの犯行予告は夜だ。今は午前中、人員の配置は既に完了している。これまでとは裏腹に、時間は大げさなほど有り余っていた。

「最終的に、宝石を取り返せばこちらの勝ちでしょう」
「な…」
「キッドを捕まえられなくても、捕獲に際する有益な情報を一つはぶん捕ってきます」

最終的な目標は俺と警部じゃ全く違うところにあるのだ。だから、余計な口出しはしないでくださいね。