ぬいはだめ
※嘔吐表現あり
アドヴォカートと暮らし始めて十数日。一日一時間だけの共同生活(といってもいいものかわからないが)は、意外とうまくいっている。
というより、アドヴォカートがセーフハウスを訪れる時間は俺に負けず劣らず短いらしい。ぬいとして部屋に入ったときには浅く眠っていたり、いっそ帰ってこなかった日もあった。生活リズムが違うのかもしれない。
アドヴォカートがいないときはぬいからするとかなり高い位置にあるテーブルにメモが残されていて、遅くなるだの帰れないだの、必ずその日いないことを書き記しているのだった。
俺はといえば、男がいない間に訪問を終えてしまう日は後からメールを入れる。約束を反故にするとぬいぐるみのことをどう言いふらされるか、考えるだけでぞっとしてしまうからだ。
その日はいつもの通りアドヴォカートからのメモが残されていて、帰れないとあったものだから、少し長居しようかとくつろいでいた。
俺にとって帰れないというのは「朝日が昇るまでに帰れない」の意であって、夜中に帰ってこられるものは「遅くなる」と同義だった。
誰もいない部屋は誰の部屋であっても空気が同じで、物を散らかす予定もなければやりたいこともなく、しなければいけないことなんてものもほとんどない。つまり、何もしなくていい。
自分の部屋であれば「何かを成さねば」と焦りさえ覚えていたはずなのに、アドヴォカートの部屋ではそんなことを感じないのが不思議だ。慣れだろうか。
…嫌な慣れだな。
ソファに寝転がりつつそんなことを考えていれば、不意に玄関の方から慌ただしい音が聞こえた。
がちゃ、がちゃ、ばたん。ばたばた。リビングに響くほど騒々しい音はすぐに止む。さらに荒々しく閉められただろうドアは風呂場のあたりか。
半開きになったリビングのドアを押しのけ、ぬいの体では長すぎる廊下を進む。風呂場の扉は自分が来たときと同じく半開きだった。
向かいにあるトイレの中からうめき声が聞こえる。びちゃ、ぼた、何かが落ちる音もわずかに耳に届いて、そこでやっとアドヴォカートが何をしているのかを察した。
一方的ながらも気まずくなる。早急にトイレから距離をとり、逃げるようにリビングへ走った。
「(吐いていた)」
何をしてきたのかは知る由もない。ただの飲みすぎというわけでもないだろう、仕事が原因だとしても、ストレスで吐くほどの量を詰め込んでいる様子も見えない。昨日はいつもと変わりなかったはずだ。
今日、吐いてしまうほど苦痛だった仕事があったのか。
「(、何を考えているんだか)」
アドヴォカートの体調なんて自分には関係ない。吐いているうちにさっさと帰ってしまったって文句は言われない。俺たちの関係は歪なまま変わっていないから。
台所に足を運ぶ。
そう、あんなやつの体調なんて放っておけばいい。ぬいぐるみは何もできない。アドヴォカートだって何も俺に望んじゃいない。
人間の姿に戻り、高い棚に置かれたグラスを手に取った。コックをひねる。
「(放っておけばいいのに)」
ある程度溜まったことを確認し、水が小出しになるように調節する。その辺にあった紙に筆を走らせた。
なんでこんなことをしているのかわからない。俺の中の良心が疼いているのかもしれないが、組織の人間としては失格の対応ではないだろうか。
メモを書き終えれば急いでぬいぐるみの姿になった。いくら吐いているとはいえ、やつがいつリビングのドアを開けるともしれないのだ。長時間元の姿でいるのはリスクが高い。
ぽたぽた、コップから溢れ出した水がシンクに当たって音を立てている。ぬいぐるみの手で水を止めることはできない。そのまま放置したのは腹いせも兼ねてだ。
本当に、水なんて入れずにさっさと帰ってしまえばよかった。俺ってやつはなんてお節介な人間なんだ。おかげで毎日が損だらけになっている。
ソファでくつろぎはじめてしばらく、アドヴォカートがふらふらの状態でリビングに足を踏み入れた。軽く手を振ってみるが、こちらを気にする素振りはなくキッチンへと直行していった。
口をすすぐような音が何度か聞こえてきた後、水音が止む。
「…バーボン」
唐突に呼ばれた名前に体が跳ねた。見られてないだろうな、と、アドヴォカートのいるだろう方向に顔を向ければ、そいつはなぜか笑っていた。
え、なんだこいつ。変人か?ああ、元からだった。
ちょうどいい、気づかれる前にさっさと帰ってやろうかとソファから飛び降りる。ぬいの姿になると高いところから落ちても痛みがないから楽だ。骨折もしない。
嫌々ながらも順応してきた自分に内心舌打ちしつつドアに向けて歩いていると、突然体を浮遊感が襲う。
「お前がバーボンを入れてくれたんだな」
「ぬっ」
「ありがとう」
気が付けば男の手のひらに乗せられていて、俺はそいつの顔を直視する羽目になってしまった。
憔悴した様子は完全に回復していない。顔も青白く、お世辞にも綺麗とは言い難い顔だった、そう、そのはずなのだ。
「ぬ゛!」
「なんだ、もう帰るのか。また明日」
「ぬぬい」
「釣れないこと言うなよな」
手から飛び降りてドアに走り寄っていけば、男は笑いながらドアを全開にした。消臭剤をこれでもかと吹きかけたのか、廊下には人工的な香りが漂っている。
玄関から出たあとは後ろを振り返ることもしない。人気がないことを簡単に確認したあと、路地裏のそばにある茂みに飛び込み、隠していた靴に足を入れて人の姿に戻った。顔が熱い。
「うそだ」
うそだ、ありえない。
二時間前に聞いていた自分の声が、まるで本物でないかのように聞こえる。心臓の音がやけにうるさかった。
「この僕が、あいつに見惚れるなんて」
あるはずがないのだ。あり得てはいけない出来事なのだ。
だって俺は、僕は、天下の公安なのだから。