恋ってそういうものですよ

「ミハルさん、なんか変わりましたよね」

からん、液体の中で溺れている氷が音を立てて崩れる。汗をかいたコップに入れられた透明な個体は周りの光を受けてぎらぎらと輝き、俺にはわからないくらいゆっくりとその身を溶かしていく。

先程までそれと似たようなグラスに入れられた飲み物を煽っていた彼、ミハルさんは、機嫌が悪そうに「あ?」と低く言葉を発してこちらを睨んだ。ただでさえ親しい人間には愛想がないと言われている彼は、既にチンピラのような振る舞いでそこに座っている。
気を許した仲で酒が入るとどうして彼はここまで人相悪くなれるのかと問いたいが、聞いたら拳が飛んでくるのは目に見えているのであえて聞かないことにした。いつものことだ。

「この前のコンサートの後から、随分鼻の下が伸びてるように見えますよ」
「もう少しまともな言い方はねぇのか」
「そんじゃ、気持ち悪いくらい優しくなった」
「ほう?この俺が、優しくないって?」
「あいたたた」

流石に頭を鷲掴みされるのは俺でも痛いですよ、訴えればすぐに遠ざかっていく手に、ああやっぱりこの人は変わったなとさらに実感する。気持ち悪いほど優しい。
俺を掴んでいた手は中身が減ったグラスへと向かい、宙に浮かんだグラスは先ほどと同じように彼の口づけを受けてゆっくりと傾けられていく。

一見モテそうな彼は、上っ面だけはいいので女性が寄ってきやすいが、何分彼は女性よりも仕事を優先する方だ。自分に頓着することなく音楽にばかり打ち込む目の前の男に散っていった女は数知れず。今も彼に女性の影は見えない、というわけでもなく。
先日ちょうど仕事で訪れたコンサート会場。ミハルさんが指揮を執る演奏があるとかで、個人で暇もあったのでチケットもとって演奏を聞いた、ら。なんとカーテンコールの後で二人で取り合いされていた。

女性が珍しいわけではなかったものの、ここ最近はほとんどの女性が彼に近づくこともなく、流石にミハルさんも焦りを覚え始める年だろうとも思っていたので、もしかしたら二人と付き合って云々という問題が浮上したのかもしれないかとさえ考えた。

もちろんミハルさんはそんな不誠実なことをする人間ではないし、そんな爛れた人間関係を持つくらいならより一層腕に磨きをかけて演奏をさらに素晴らしいものに昇華させようとする人ということくらいは知っている。いわゆるブラックジョークの一種のような考えだ。
ただ少し気になったのは、彼が肩を持った人間だ。

俺のように割と親しい仲ならば納得もいく。が、味方になった少女…俺の知り合いでもあるホウカとミハルさんに交流があるなんて話、ほとんど聞いたことがなかった。
俺がお互いのことを話しているわけでもなし、だのにまさか二人が知り合っているとは思わず、思わず受付でもらっていたパンフレットを地面に落とした。

あのあと言い争いはミハルさんと対峙した女性が退散して終わったのだが、ホウカを前にしたミハルさんのあの態度。

「恋でもしたんですか」

ごほっと隣で勢いよく咳き込む音が聞こえ、グラスから彼から溢れ出た飲み物が机を少し汚す。典型な動揺の仕方をする人だ。

「べ、別に俺は、ホウカちゃんのことなんて」
「へぇ、ホウカのことが好きなんですね」
「違う。それよりなんだよ、そんな親しげな呼び方は」
「だって俺とホウカは知り合いですから」

よく配達を頼まれるお得意さんの一人でもあり、他愛ないことを話す友人でもある。
カマをかければすぐに引っかかった彼はやはり変わったのだ。以前なら「聞きたいならおしえてやるよ、コンダクターの仕事」などとはぐらかされてしまっていたわけだし。

そういえばこの前ホウカと遊びに行ったんですよね、とわざと言ってみれば、ミハルさんは不満そうに顔をしかめてグラスを置いた。いささか乱暴に置いたのか、少し耳障りな音が鼓膜を叩いた。
しばらくこのネタで弄ることができそうだとも思ったが、過去に弄られた経験がある身としてみれば弄られると困ることが多い。適当なところでやめておいたほうがいいだろう。

「で?ホウカとは仲良くなれそうですか?」

意外と言えば意外だが、組んでみればしっくりくる組み合わせだ。恐らく恋愛感情を抜きにしても気の合う友人になれる。どうせちゃっかりしているこの人のことだから、ホウカと次に会う約束だってしているに決まっている。
ほぼ確信とも言える結論を持ちつつ、からかい半分にそんなことを訊ねてみれば、返ってきたのは低い唸り声だった。

「連絡先は、交換した」

連絡はしていないのか。
ハルカと俺のことを散々からかってきた癖に、自分のことになると途端にこうなるのか。俺も人のことは言えないがもう少し積極的にアピールすればいいのに。

机に突っ伏した彼はまたもや唸って動かなくなる。随分と素直なことだ。あまりこういったことに突っ込ませてくれないミハルさんにここまで踏み込めるとは、やはり酒の力は偉大である。ミハルさんも今日は少しばかり酔っているらしい。

早めに連絡したほうが身の為ですよ、助言を送りつつ頼んだソーダに口をつける。
氷が溶けて味が薄まったせいか、はたまた炭酸が抜けてしまったせいか、甘ったるくて口内に残るそれは俺の機嫌を低下させた。ミハルさんに構わずさっさと飲んでしまっておけばよかった。

恋愛はソーダと同じだ。美味くいただくためには時に素早い行動や決断だって必要になってくる。そういったのも目の前の彼であった気がするが。

「ミハルさん、ちょっとマルチナビ貸してくれません?」
「ん…?いいけど、悪用すんなよ」
「そう悪いことはしませんって」

俺の言葉を疑うこともなく、数分とかからずに手渡されたマルチナビを操作する。マルチナビは多少機能に差があっても他と操作はほぼ変わらないところがいいところだ。

「そういえばミハルさんって、次はいつ休みなんですか?」
「…らいしゅうの、すいよう、とか…」

大分呂律が怪しくなってきた。このまま店の中で寝られてしまうと大変困るので、さっさと用事を済ませて店を出るべきだろう。
ぴっ、画面に映し出された連絡先を確認し、ミハルさんに似せて数行分のメールを打つ。何度か間違っていないところがないかと見直したあとに送信ボタンを押せば、一秒とかからず画面に送信完了の文字が踊った。

「はい。ホウカにメール送ったんで、後で確認ちゃんとしといてくださいよ」
「ん…ホウカちゃんね……ん?ホウカ?」

眠気で温まった手のひらにマルチナビを押し付けて、カウンターの向こうにいる店員にお代を支払う。
半ば夢の世界にいたであろうミハルさんが勢いよく顔を上げ、少し赤い顔で俺とマルチナビを交互に見比べた。信じられないといった表情を見せているが、残念ながら現実だ。

「おまっ、な、なんで!」
「行動は迅速にってよくいうんで、つい」
「バカ!」
「ははっ、いい気味です」

俺は忘れていない、ハルカに送るか悩んでいたメールを彼がマルチナビを勝手に操作して送信していたことを。余談だが、ハルカからはNOの返事が戻ってきた。
断られろとまでは思っていないが、へたれているのならいつまで経ってもメールさえ送れないだろう。俺はひと押ししただけだ。

ミハルさんから鉄拳を喰らう前に店を飛び出し、宅配用のペリッパーに飛び乗って空を舞った。頬を強く撫でる風が火照った体から熱を奪う。

下を見れば同じく店から出てきたらしいミハルさんが大口を開けて何かを叫んでいた。生憎風のせいで何も聞こえない。いやあ、残念なことだなあ。心の中でそんなことを呟いて笑いをこぼした。
周りがどうとか、年齢がどうとか、そんなものは案外どうにでもなる。精々恋に苦しんで幸せになってしまえばいいのだ。


恋ってそういうものですよ
(振り回されるなんて日常ですから)