ハッピーライフはまだ遠い
そわそわと落ち着きなく部屋を移動している彼女の姿に、いい加減にしてくれとため息をつきたくなる。急ぎの仕事はないとはいえ、朝早くから呼び出されるのはきつい。
昨日は帰ってくるのも遅かったしな、と、あくびを一つ噛み殺しながらその様子を眺めていれば、彼女は顔を赤くしたままにこちらを振り返る。
「こ、これっ!大丈夫かしら!」
振り返った拍子にふわりとしたシンプルなワンピースが宙を踊る。それに合わせたサーモンピンクのカーディガン、シンプルなネックレスに日よけの帽子。うん、それなら外に出ても大丈夫そうだ。
最後に大切そうに仕舞っていた花を模した細い腕時計を手渡してやれば、嬉しそうに受け取って折れそうなほど細く白い手首にそれを巻いた。
それじゃあ行ってくるわね!と、部屋に置かれたアナログ時計も見ることなく飛び出していった彼女、ホウカは、今日は彼氏とデートをするらしい。
彼氏とひとえにいったところで、当の二人は全力で否定するだろう。聞くとまだ付き合っていないらしい。とはいっても、お互いが両思いである、というのは相手とホウカを知る間柄であれば既知の事実なんだが。
いい加減早く付き合えよ、とも思う時期もあったが、人生そうそう上手くはいかないわけで。二人は互いに、相手が自分に恋愛感情を抱いていることを自覚できていない。おかげで無意識にばらまかれる甘さに砂糖がリバースしそうだ。
実は俺が渡した可愛らしいデザインの時計は、その想い人からのホワイトデーのお返しらしい。
今回初めてつけるそうで、随分と長い間つけてなかったんだなと聞けば、しばらく会えておらず最近もらったんだという。もちろんホウカは時計をプレゼントされることの意味を知らない。
ちらりと部屋に置かれたアナログ時計を見やれば、短針が指しているのは七と八の間。ちなみに彼女たちの待ち合わせは十のところに針が来る。
「浮き足立ちすぎだろ…」
それほど高くないにしても、今回履いていく靴はヒールだったはずだ。パーティーでヒールをよく履くと聞いているので、慣れでなんとか今日を乗り切ってもらうことを祈るばかりである。
マルチナビを確認し、新しく届いていた一通のメールの内容に目を通す。予想していたものとほぼ一致する出来事が簡潔に書かれたそれに、誰もいない部屋の中でため息をついた。
なんというか、はらはらする一日になりそうだ。
―――
――――
ホウカから預かっていた合鍵を使って鍵をかけ、彼女の後を追うようにその場を離れる。
もちろんこの鍵は一時的に預かっているだけで、今日の予定が終われば元あった場所に戻される。俺が持っていてもあまり使われることはないし、ホウカの様子から、この鍵の活躍が遠いだろうことは明らかだ。
どうでもいいが、こういう風に相手にためらいなく家の鍵を渡すあたり、ダイゴさんとホウカはやっぱり兄妹なんだろうと思う。ホウカ本人はあまりそれを好ましく考えていないらしいが。
既に見えなくなっている小柄な影の軌道と似たような場所を通り、目的の場所へとたどり着く。
不自然にならない程度に物陰に隠れたあと、草場に隠れた向こう側を覗き込む。そこにはホウカがいて、出かける前と変わらない落ち着きのなさで辺りを見回していた。
相手が来ていないことに憤慨すればいいのか、それとも安心すればいいのか。ここでは安心するほうが正解なのかもしれない。
ホウカとその想い人の待ち合わせ場所は、ホウカの家から一時間もしないところにある。時計の針はもちろん八と九の間にあるわけで、…一時間半も早く来て何をするつもりなんだ。
俺がセッティングした最初のデートからは何回かコンサートに誘われたり、逆にホウカからお礼と言ってどこかに遊びに誘ったりはしているらしいが。拭えぬこの不安はどうすればいいのやら。
先ほど確認したばかりのメールをもう一度流し見する。そこにはホウカの待ち合わせ相手が家を出たという旨の文章が書かれていて、俺は誰もいないのをいいことに思い切りため息をついた。
回数を重ねてもこんなに早く来ているのだから、この二人も俺をからかうこともできないのでは?
そうは思っても二人は俺に対していろいろ世知辛いことを言ってくる。自分たちがそれを実践できてないことに気づけ。
俺が張り込みを始めて十分ほど経ったか、ホウカの待ち合わせ相手が顔を出したことに気づいてそっと視線を逸らした。
これから五分くらい目を離しても状況は一変しないのであまり気にすることはない。むしろ眺めていたほうが二人のピンクオーラが目を潰しにかかってくる。金平糖でできた爆弾かよ。
時折様子を確認しつつ、買ったばかりの無糖コーヒーを口にしていれば、肩に何かが触れた。
「よお」
横目にそれを確認すれば、そこにはある程度予測していた人間。リブレがそこにいた。
それなりの期間を共にしてきたリブレは俺とは旧知の仲だ。おそらくホウカから恋愛関係は聞いていただろうが、まさか俺が尾行の誘いをかけるとは思ってなかっただろう。
既に疲れた様子のリブレにワイヤレス型のイヤホンを手渡せば、リブレは諦めの入った表情でそれを耳につけた。
「まさかホウカさんとこの前会ったばっかの人をストーカーする日が来るとは」
「そりゃ悪かったな」
リブレのいう「この前」とは、俺が仕事の合間に連れて行ったコンサートのことだろう。俺は途中で仕事で抜けたが、リブレはホウカと行動していたのでかち合ったに違いない。
めんどくせぇな、とかいいつつもこういったことに付き合ってくれるのだから、リブレは意外に面倒見がいい性格だ。
とある伝手でボールペン型の録音機を改造してもらったものを双方に仕込んである。もちろん無断ではあるが、デートの間に仕込んでいるだけなので見逃してもらおう。
ホウカとその相手、ミハルさんの様子を見守るだけの一日は、実はまだまだこれからのことである。