「私、未来人なの」

目の前でうずくまっていた青年が、綺麗に整備されていた地面に落書きすることをやめる。
こちらに向けていた背中が動き、夕焼けよりも鮮やかなオレンジ色の隙間から翡翠の宝石が私の方にちらついた。

「…お前、面白いこと言うな!」

おれの霊感が刺激されるぞ!わはは!
本気にしたのか、それともしていないのかもわからないような発言をした彼は、ついさっきまで何かを一心に書き込んでいたところとは違う場所にまたも何かを描き始める。邪魔にならない程度に覗き見ると、それは何かの楽譜のようだった。

簡素な五本の線の間に書き込まれていく音符は楽譜の中を踊るように飛び跳ねていて、生き生きとした音楽がそこかしこで鳴り響いている。
既にかなりの距離まで伸びている五線譜を追いかけてやれば、某国民的アニメの青だぬきを彷彿とさせるメロディに思えて笑えてきた。本人は故意でやっているんだろうか。

流石にその質問をするのは作曲の邪魔になるので聞くことはしない。創作を邪魔するとこっぴどく怒ることは知っている。

様々な形に並べられた音符を紙に書き写しながら彼を見やる、彼は私の視線に気づくこともなく様々な音を並べて至極楽しそうに笑っていた。ああ、久しぶりにこんな顔を見たかもしれない。
ひょんなことで知り合った彼は様々なところを歩き回っていて、携帯に連絡しても折り返しが来ることはほぼない。生きる希少種だと思う。

今の彼は制服を着ているので、一応学校に行く気はあるらしい。けれど時計を見れば未だに授業は終わっていないことがわかる。
そんなことを言っても無駄なこともわかっているので何も言わない。留年しようと退学しようと、彼の才能が輝きを失うことはないことも知っているのだ。

地面の音符が次々と生み出されていくのを必死に追いかけ、それからどれほどの時間が経っただろうか。せわしなく動いていた手が止まり、青年の目がこちらを向く。

「そういえばお前、未来から来たなら、将来におれが何をしてるのかわかるのか?あ、待って!言わないで!妄想するから!」

アイドル、モデル、プロデューサー…斜めにいって作曲家にでもなってそうだ!
色んな職業の名前をやけに楽しそうにあげていく彼を微笑ましい心持ちで眺める。今の状況だと、作曲家は斜めじゃなくてまっすぐ道を進んだ結果だろうに。わかっていたが、やはり彼も変人だ。

生憎その質問には答えるつもりはないので薄く笑って言葉を濁す。彼のことだ、未来をいったら面白くないと言えば大抵引き下がってくれるから、そういうところは助かるなあ。
散々悩んでいる彼の隣で止まった音楽の流れを全て写し終える。頭の中で流れていた音楽も糸が切れたようにふっと消えて終わってしまった。

「未来のおれが何をしているのか、想像するだけで霊感が湧き上がる…☆
そうだ、この衝動を今すぐ記すべきだ!だけど書ける場所が!人類への挑戦を記すものがない!地面の楽譜を消せばなんとか…ああっ!こうしている間に霊感が!浮かんだ曲が!かけがえのない人類の財産がぁー!」

くるくると変わる彼の行動に苦笑いをこぼしながら、先程まで握っていたシャーペンとノートを手渡す。少し使ってしまっているが、急ぎなんだから我慢してほしい。
私の差し出したシャーペンとノートに気づいた彼は奪うように二つの道具を取る。すぐにさらさらと音符がノートに浮かび上がっていくのを見て、そして意識せずに口から言葉をこぼしてしまう。

「やっぱり月永くん、変わらないね」

月永くん。懐かしい響きをしている呼び方が耳に届いたのか、ノートに集中していた彼の頭が勢いよく跳ね上がる。

「そういえば、お前の名前ってなんだっけ?」

本当に初対面のように問いかけてくる彼の瞳はどこまでも澄んでいて、少しだけ驚いてしまう。私の知っている青年は少し世界を知った不明瞭な色を残していたから。
それでもなんとか取り繕うようにへらりと笑って「当ててみて」と言ってみれば、彼は首をかしげながらも特に反論することなく頭を働かせ始めた。途中で止まった楽譜はきっと出来上がることはないだろう。

特に思い出す出来事もなかったのか、しばらくしてかなり悔しそうに頭を抱えた彼が渋々ギブアップの言葉を絞り出した。負けず嫌いなところも変わらない。

「ヒントだけあげる」

今日の夕方5時ごろ、アイドル科のどこかにいる女の子に声をかけたら答えが分かるよ。

私の言葉に頷いて、彼はグチャグチャになってしまったノートに書かれた音楽に気づいた。
乱雑に書きなぐられたページは苦い顔の青年によってびりびりに破かれ、少し薄くなってしまったノートは私の手元に返ってくる。地面から写したそれも一緒に持って行かれたみたいで、開いて一ページ目は白紙になっていた。

使うかどうかはわからないけれど、きっと使わないと判断したから返してきたんだろうと考え、いた場所から一歩後ずさる。もうここに用事はない。

「ばいばい、月永くん。また会えるといいな」

座り込んだままの青年に向けて手を振ってその場を離れる。私は未来人で、彼はこの時代を生きる人。あまり深く関わってはいけないから。
もしもうまくいったら、きっと彼はこのあと運命の出会いを果たすんだろうな。
懐かしいあの頃を思ってくすくすと笑いをこぼしてしまう。不仲になってしまわないように祈っておかないと。

頭の中では昔彼が見せてくれた青だぬきもどきのメロディが流れていて、そばにあった信号機を渡れば普段見慣れた町並みに戻る。人気のなかった路地が打って変わって騒がしくなった。
戻ってきたことを自覚したと同時に、私は無性に珍しく家で待つ婚約者に会いたくなった。

今日は早く帰ろう。
早足で帰路を辿る私は、小さな頃の彼を思うことなくただひたすら前を見ているだけだった。