GRADATIM
EP. 2

二日目

 二日目の朝、凛は一年A組の扉を開けて、そのまま自分の席へ向かった。
 昨日は入ったところで一度教室を見回した気がする。今日はすでに半分ほどの席が埋まっていて、窓際では何人かが立ったまま話し、前の方では、身振りを交えながら何かを説明している生徒がいる。別の席から笑い声が上がったかと思えば、その向こうでは突然大きな怒鳴り声が飛び、近くにいた何人かがそちらを振り返った。まだ全員の席を覚えたわけではない。それでも、その中を抜けて自分の机まで行くのに、昨日ほど周囲を確かめる必要はなかった。

「おはよー」

 鞄を肩から下ろしながら声をかけると、先に来ていた芦戸が机越しに手を上げた。

「おはよ! 押切、昨日の肘どう?」
「まだ赤い。お風呂めっちゃ染みたし、肩も地味に痛いんだよね〜」
「そりゃあんだけ転がったら痛いでしょ。今日もっとくるんじゃない?」

 凛は鞄を机の横へ掛け、制服の袖を肘までまくった。外側には昨日擦った跡が赤く残っている。試しに腕を後ろへ回してみると、肩の奥が鈍く引っ張られたが、動かせないほどではない。そこへ葉隠も会話へ加わったらしく、何もないはずの空間で制服の袖が揺れた。

「もうきてる。でも若いから回復も早いはず!」
「みんな同い年だからね?」

 芦戸に即座に返され、凛は笑いながら椅子を引いた。
 机の上へ筆箱と一時間目の教科書を出している間にも、扉は何度も開いた。入ってきた生徒が近くの席へ声をかけ、その返事へ別の場所からも声が重なる。昨日のテスト結果を比べる話も聞こえてきた。凛は時間割を確認して教科書の該当ページを開き、まだ硬い背表紙を手のひらで押さえる。
 チャイムが鳴る頃には最後に入ってきた生徒も席へ滑り込み、さっきまで重なっていた声が少しずつ静まっていった。配られたプリントの端へ日付を書き、黒板に増えていく文字をノートへ移す。新しい教科書は手を離すと勝手に閉じようとし、そのたびに肘で押さえ直した。昨日まで知らなかった顔が並んでいても、授業が始まってしまえば、ペンを動かして先生の話を聞く時間は中学の頃とそれほど変わらない。



 二時間目が終わると同時に、あちこちで椅子の音が鳴った。凛もペンを筆箱へ放り込み、椅子に座ったまま両腕を上へ伸ばす。背中まで伸びたところで肩が引きつり、思わず顔をしかめた。
 近くで話していた上鳴が、それを見て振り返る。

「まだ痛えの? 昨日あれだけ転がったわりに普通にしてるから、もう平気かと思った」
「肩と肘がちょっと。なんか結構きれいに転がれたんだよね」
「そこを成功みたいに言うなよ」

 瀬呂が笑いながら突っ込み、隣にいた切島までつられて笑った。凛は伸ばしていた腕を下ろし、肩を一度回してから机へ肘をつく。

「次はちゃんと止まるって。せっかくあんな速く動けるって分かったのに、使わないのもったいないじゃん!」
「もう次やる気なの怖えよ。まあ速かったけど」
「でしょ?」
「そこだけ拾うんだな」

 上鳴が吹き出し、凛も笑った。机の下で何となく右足を前へ出し、足首を二、三度動かしているとチャイムが鳴る。瀬呂が開きっぱなしだった教科書を抱え、切島も椅子の背から手を離した。上鳴が自分の席へ戻れば、それまで三人が立っていた机の周りだけ急に広くなる。凛も次の教科書を机の中から取り出し、今度は閉じないよう片手でページを押さえた。

 午前の授業が終わる頃には、朝食から時間も経ってきちんと腹が減っていた。昼休みのチャイムが鳴ると、授業間の休み時間より大きく教室が動き出す。机を寄せる生徒もいれば、弁当箱を出す前に廊下へ向かう生徒もいる。凛は机の中から財布を取り出し、立ち上がったところで、すぐ近くの席から耳郎も財布を手にするのが見えた。

「食堂行く?」
「行く。まだ何あるか見てないんだよね」
「私も。いっぱいあったらたぶん決められないかも」
「行く前から言ってんじゃん」

 二人で教室を出ると、廊下には中よりずっと多い人の声が溢れていた。別のクラスから出てきた生徒が次々と流れへ加わり、階段の手前では自然に歩く速度が落ちる。耳郎の少し後ろを歩きながら、凛は手すり越しに下の階を覗いた。そこにも制服の頭がいくつも動いている。
 食堂の入口まで来ると、今度は料理の匂いが混ざった。広い室内にはすでに大勢の生徒がいて、受け取り口の前にはいくつも列が伸びている。空いた席を探す生徒のトレーが目の前を横切り、奥では椅子を引く音が何度も重なった。凛は人の流れから少し外れ、壁に並んだメニューへ顔を上げる。

「ほら、やっぱり迷う」
「まだ三秒くらいしか見てないけど」
「もういっぱいあるもん。耳郎先決めないでよ」
「なんでアタシまで待つの」

 耳郎はそう言いながらも隣でメニューを見ている。凛は文字より先に写真を順番に追い、結局いちばん最初に目についた定食の列へ並んだ。耳郎は途中で別の列へ移り、受け取り口を出たところでまた合流する。
 二人でトレーを持って席を探していると、少し離れたテーブルから麗日が大きく手を振った。向かいには芦戸と葉隠も座っていて、荷物を寄せながら二つ空いた椅子を示している。凛がそちらへ歩き、トレーを机へ下ろそうとしたところで、麗日の視線が皿へ吸い寄せられた。

「それおいしそう! 何頼んだん?」
「写真だけ見て決めたから名前わかんないわ」
「選んどいて!? でもわかる、私もそれ最後まで迷ってん」

 座ってもまだ皿を見ているので、凛は箸を袋から抜きながら笑った。

「一口食べる? 代わりに麗日のもちょうだい〜」
「え、いいの!? もちろん!」
「結局そっちも食べたいんじゃん」

 耳郎が自分のトレーを置きながら呆れたように笑う。
 麗日はすぐに自分の皿から一口分を取り、代わりに凛の定食へ箸を伸ばした。口へ入れた途端に表情が変わったのを見て、向かいにいた葉隠まで身を乗り出す。今度は葉隠の皿が少しこちらへ押され、凛も自分の皿を持ち上げて場所を空ける。芦戸はその様子を見ながら笑っていたが、しばらくすると自分の料理まで話に加わった。
 そのまま五人で箸を動かしているうちに、話は食堂から朝の授業へ移った。誰が眠そうだったかで芦戸と耳郎の意見が食い違い、そこへ葉隠が昨日とは別の階段を間違えた話を持ち込む。麗日は途中で隣のテーブルへ運ばれてきた料理に気を取られ、今度は明日何を食べるかが始まる。凛も自分の分を食べながら、そのたびに顔を向けた。口に物が入っている間に話題が変わり、飲み込んでから口を挟んだ時には、もう別の誰かが笑っている。テーブルの上では空いた小鉢が少しずつ重なり、最初はいっぱいだった皿の白い部分も広くなっていった。
 食べ終えた頃、凛は箸を置いて水を一口飲んだ。何の話から始まった昼休みだったか考えてみたが、もう思い出せない。

 五人で食器を返し、来た時より少し空いた廊下を教室まで戻った。扉をくぐったところで自然にそれぞれの席へ散り、凛も自分の椅子へ腰を下ろす。まだ昼を食べている生徒の弁当やパンの匂いが教室に残り、窓の近くでは誰かが立ったまま話している。机の上に置いてあった飲み物へ手を伸ばすと、冷たさが喉を通った。
 次の授業までは少し時間がある。開いた窓から入る風でカーテンの端がゆっくり揺れ、その向こうには校舎越しにグラウンドが見えた。昨日走った場所だ。
 白いラインを越えたあとも身体だけが先へ進み、足をついた瞬間に地面と空が入れ替わった感覚が戻ってくる。凛は頬杖をついたまま、机の下で右足の踵を浮かせた。足首を曲げ、今度は反対へ倒してみる。
 昨日はゴールしてから止まろうとした。速度が出切った身体を一度に押し戻そうとして、逆に姿勢を崩した。なら、逆向きの圧をもっと早く、弱く入れたらどうだろう。ゴールの少し手前で一度、そこからもう一度――。

「押切、何ぼーっとしてんの?」

 机の下で動かしていた足が止まり、顔を上げると、前の席へ戻ってきた芦戸が椅子の背へ手をかけたままこちらを見ている。

「昨日の止まり方考えてた」
「まだ考えてたの? ほんとそういうの好きだねえ」
「だって気になるんだもん」

 芦戸は笑って椅子を引き、そのまま自分の席へ座った。凛も頬杖を外し、さっきまで浮かせていた踵を床へ戻す。
 チャイムが鳴り、教室の中に残っていた生徒もそれぞれ席へ戻り始めた。凛は机の中へ手を入れ、次の授業の教科書を探す。指先が背表紙へ触れたところで、廊下から聞こえてきたやたらと通る声に動きを止める。
 教室の前方でも何人かが同時に顔を上げた。ざわつきが入口側から広がり、凛も机の中へ入れていた手をそのままに扉へ顔を向けると、開いた扉の向こうから見慣れた金色の髪と大きな身体が現れた。

「……ほんとに先生なんだ」

 これまで画面の向こうにいたオールマイトが、そのまま教室の中へ入ってくる。凛は背表紙に触れた指を動かさないまま、しばらくそちらを見ていた。