GRADATIM
EP. 9

もう1回

USJの襲撃から二日後、教室へ入ると、窓際にはいつもの朝の光が差し、机も椅子も変わらず並んでいた。廊下ではまだニュースの話が聞こえていたし、制服の袖から絆創膏を覗かせている生徒もいる。凛は自分の席まで歩いて鞄を机の横へ掛けると、椅子を引きながら近くにいた耳郎へ顔を向けた。

「相澤先生、今日来ると思う?」
「来たら怖いでしょ。あの怪我で」
「でも休むイメージもない」
「それは分かる」

 どちらとも言えないまま話しているうちに前の扉が開いた。何となくそちらを見た凛は、椅子を引きかけた手を止める。

 相澤は顔の大半を包帯で覆い、片腕まで固定した状態で入ってきた。二日前に担架で運ばれていくところを見ているだけに、自分の足で教卓まで歩いてくる方が妙に見える。教室のあちこちから声が上がり、相澤が出席簿を置いても視線は集まったままだ。

「先生、それで学校来たんすか」

 飛んだ声を相澤はほとんど相手にせず、包帯の隙間から教室を見回した。

「俺のことはいい。それより話がある」

 ヴィランのことかと思い、凛も椅子へ座り直して身体を起こす。

「体育祭は予定通りやる」

 一拍遅れて、教室中が騒がしくなった。

「やるんだ!?」
「このタイミングで?」
「先生その状態なんだけど!」

 いくつもの声が重なっても相澤は構わず、体育祭には全国からプロが見に来ること、そこで目に留まれば職場体験の指名にも繋がることを話していく。

 プロが見に来る、と聞いたところで、凛は教卓の向こうに立つ相澤をもう一度見た。包帯の下へ隠れた顔に、地面へ叩きつけられていた二日前の姿が重なる。その後ろには、何度押し返されても中央へ踏み込んでいったオールマイトも浮かんだ。

「押切、上狙うっしょ?」

 前の方から芦戸に呼ばれ、凛はそちらへ顔を向けた。さっきまで相澤を見ていた目を一度瞬かせ、それからすぐ笑う。

「そりゃ狙う」
「お、言った!」
「競技なんだから負けたくはないよ」

 芦戸も笑って前へ戻り、凛は相澤の話へ耳を戻した。黒板には体育祭までの予定が書き足され、教室のあちこちではまだ小さな声が続いている。



 昼休みになると、朝から続いていた体育祭の話はさらに広がった。弁当を開いている間にも近くから競技の予想が聞こえ、途中で誰かが過去の映像を見たことがあると言い出して別の話へ移っていく。凛も耳郎と何位を狙うだの何がありそうだのと話していたはずが、いつの間にか購買の新しいパンへ話題が逸れていた。

「今日まだあった?」
「昼行った時はあった」
「買えばよかった」
「弁当食べながら言うこと?」
「別腹」
「パンに別腹使う人初めて見た」

 凛が笑いながら卵焼きを口へ入れたところで予鈴が鳴り、まだ少し残っている弁当を見て箸が止まる。

「え、もう?」
「喋ってるからでしょ」
「体育祭のせいだ」
「後半ほぼパンだったじゃん」

 耳郎に言われながら残りを急いで食べ、弁当箱を閉じる。午後の授業が始まれば教室も静かになり、次に体育祭の話で騒がしくなったのは放課後だった。

 鞄を肩へ掛けて教室を出ようとしたところで、前にいた生徒が急に止まった。後ろも詰まり、凛は一歩引いてから首を伸ばす。

「何?」
「外、すげえいる」

 近くにいた瀬呂の肩越しに覗くと、教室の前の廊下を見覚えのない生徒が塞いでいた。扉のすぐ外だけではなく、その後ろにも人が並び、後方からでは向こう側までよく見えない。前方から飯田の声が聞こえ、それに応じるように紫色の髪の男子が人垣から一歩出た。

 普通科だというその生徒は、体育祭で結果を出せばヒーロー科へ移れる可能性があることを話した。凛は瀬呂の横から廊下を覗いたまま、少し目を見開く。

「へえ……編入あるんだ」

 その横を、後ろから来た爆豪が人を押し分けるように前へ出た。

「邪魔だ。どけ」

 扉の前まで行ったと思えば、そのまま相手をまとめて煽り始める。教室側からすぐに声が飛んだ。

「お前なんで今それ言うんだよ!」
「敵増やしてどうすんだよ!」

 爆豪は振り返りもしない。紫色の髪の男子も大きく表情を変えず、体育祭で結果を出すつもりだと言い残した。その後ろから今度はB組だという男子まで出てきて、爆豪へ大声で食ってかかる。

 凛は廊下へ出られないまま鞄を抱え直し、壁際へ少し寄った。

「すごいね。まだ始まってないのに」
「主に爆豪のせいだけどね」
「だね」

 耳郎の返しに笑っている間にも前は騒がしく、結局人が散り始めるまでしばらく待つことになった。



 体育祭までの二週間、放課後の演習場には授業が終わっても人が残るようになった。器具を片づける音に混じって、離れた区画から爆発音や何かが床へぶつかる音が続き、空いている場所を見つけた生徒がそれぞれ練習を始めている。

 その日も凛は演習場の端に取られた直線を使い、スタート位置と床へ引いた目印の間を何度か往復していた。いつもの出力なら線の近くで止まれるようになっている。そこから少しだけ圧を強くした一本では、最後に逆向きへ返して足をついても勢いが残り、目印を三歩ほど越えたところでようやく止まった。

「んー……」

 凛は踵を床へつけたまま振り返った。さっきより速かった感覚はあるし、まだ上げられそうでもある。ただ、同じ止め方で次へ行けば今度は三歩では済まなさそうだ。

 考えながらスタート地点へ戻る途中、近くで休憩していた瀬呂がボトルの蓋を閉めるのが見えた。凛は一度その肘を見て、もう一度走路の先へ目をやる。

 ぱっと顔を上げた。

「ねえ、ちょっとバンジーみたいにできる?」
「……何を?」
「私を」
「頼み方こわ」

 瀬呂が露骨に顔をしかめたので、凛は声を上げて笑った。

「止まれなかった時だけ引っ掛けてほしい。普段はたるませといて」
「俺ごと飛んだらどうすんだよ」
「後ろも固定したら?」
「準備だけ妙にいいな」

 言いながら瀬呂は立ち上がり、凛の腰へ直接食い込まないよう体操服の上から広めにテープを回した。もう一本を後方の支柱へ取り、凛が普通に走れる長さを残してから何度か引いて確かめる。凛も腰へ手を当てたまま身体を左右へ捻り、動きを邪魔しないのを確かめた。

「いけそう」
「先に言っとくけど、突っ込んでいくなよ」
「止まる練習だから」
「それができるか心配だからこれ付けてんだろ!」
「それはそう」

 笑いながらスタート位置へ戻り、振り返って瀬呂が手を上げるのを待つ。走路の先に人がいないことを確かめると、足を開いて腰を落とした。

 いつもより少し強く空気を圧縮し、足元から後ろへ解放する。一度目の加速で身体が前へ運ばれ、そこからもう一度、足元の圧を後ろへ解放すると、床を蹴る足より先に景色が流れ始めた。まだいけると思ったところで出力を落とし、腰を捻って進行方向とは逆へ圧を返す。

 足裏が床へ触れてもすぐには止まらない。膝を曲げて勢いを受けながら何歩か流れたところで腰のテープが張り、上体を後ろへ引かれた。凛は片足を踏み直して姿勢を戻し、伸びきったテープの向こうを見る。

 瀬呂も支柱との間で半歩前へ持っていかれている。

「今の結構きたぞ!」
「ごめんごめん」
「軽っ」

 凛は笑いながら腰のテープを少し持ち上げ、瀬呂がたるみを戻すのを待った。止まった場所から走ってきた方へ顔を向けると、目印にしていた線はずいぶん後ろにある。

「……結構流れたな」
「もう一回いい?」
「やると思った」

 今度は止める方を少し強くすることにして、凛はスタート位置へ戻った。瀬呂も何も言わずテープを持ち直す。

 二度目も速度はほとんど変えなかった。前へ押す圧を落としてから、一度目より強く逆向きへ返す。今度はそこで身体に急な力がかかり、腰から上が一度前へ持っていかれた。足をついて姿勢を戻す間にも勢いは残り、結局またテープが張る。

 凛は両足で踏ん張って止まると、その場からしばらく走ってきた方を見た。

「んー……」

 さっきより強く返したのに、止まる位置は大して変わらない。それどころか姿勢だけ崩れた。凛は眉を寄せたまま、もっと強く返すのか、角度を変えるのかと床の線を目で辿った。

 少し離れたところで舌打ちが鳴る。

「いつまで加速してんだ、ボケ」

 顔を上げると、隣の区画で練習していた爆豪がこちらを見ていた。少し前まで障害物の間を爆発で飛び回っていたらしく、片方の掌からまだ薄く煙が上がっている。

「……加速?」

 聞き返すと、爆豪の眉間がさらに寄った。

「止まりてェなら先に切れや」

 それだけ言って向きを変え、次の瞬間には爆発音と一緒に身体が斜め前へ飛び出した。

 凛はそのまま目で追った。一気に前へ出た爆豪は、障害物へ届くより前にもう掌の向きを変えている。次の爆発が鳴る頃には、身体も別の方向を向いていた。

 凛は走路へ目を戻した。

「……あ」
「何?」
「分かったかも」

 瀬呂へ返してスタート地点へ戻り、同じ位置へ足を置く。腰のテープはそのままにして、さっきとほとんど同じ強さで身体を押し出した。

 速度が上がっても、今度はもう一度加速を重ねない。まだ前へ出せると思えるところで加速を切ると、身体だけが勢いを残して走路を進んだ。その間に腰を落として足をつき、逆向きへ圧を返す。

 強さはさっきより上げていないのに、上体がぶれなかった。足裏で床を受けながら速度が落ち、二歩目を踏み込んだところで身体が止まる。

 腰に引きが来ない。

 凛はすぐ後ろを振り返った。

「今使った?」
「使ってない」

 瀬呂の手元から凛の腰まで、テープはまだ緩んだまま伸びている。

「おお!」

 ぱっと顔が明るくなった凛に、瀬呂が呆れたように笑った。

「最初からそれやれよ」
「今分かったんだって!」

 笑って返しながら、凛は自分が止まった位置へ目を落とした。今度は狙っていた線より少し手前にいる。止まれはしたが、加速を切る位置はまだ合っていない。

「もう一回」
「まだやんの?」
「今ちょっと早かった」
「はいはい。バンジーはそのままな」
「お願いしまーす」

 瀬呂がたるんだテープを持ち直す間、隣の区画でまた爆発音が響いた。凛はそちらへ一度顔を向けたものの、爆豪はもう自分の練習へ戻っている。

 凛もスタート位置まで戻り、もう一度走路へ向き直る。今度は、加速を切る位置を少しだけ遅らせた。