建物の間を抜けても、尾白の姿は見つからなかった。火災区域から離れているはずなのに、服や髪についた焦げた臭いがまだ鼻に残っている。後ろから追ってきていた声は一つ前の角を曲がったあたりで聞こえなくなったが、完全に撒けたのかまでは分からない。凛は時々背後を振り返りながら、少しでも先の見える道を選んで走った。
突き当たりに見えた低い壁を《圧縮》で越えると、その向こうは幅のある通路へ続いていた。着地して次の道を探しかけたところで、遠くから重い衝突音が響く。火災区域で建物が崩れた時とも違う、もっと大きなもの同士がぶつかったような音に足を止めて顔を上げると、通路の先に見覚えのある階段と中央広場の一部が見えた。
随分回り込んだらしい。尾白も別の道から戻っているなら、入口か中央へ向かっているかもしれない。凛はそちらへ足を向けたが、広場が見える範囲が広がるにつれて走る速度を落とし、壁の途切れたところまで進んだところで身体の半分だけを外へ出した。
広場のあちこちにヴィランが倒れている。そのさらに奥を相澤が一人で動いていた。複数の敵が同時に距離を詰めても、一人の攻撃を避けた勢いのまま捕縛布でもう一人の体勢を崩し、視線を向けた相手が個性を使えなくなった隙に懐へ入る。倒した相手を確認するより先に身体が次へ向き、周囲に敵が残っている限り足が止まらない。
尾白を探すつもりで戻ってきたはずなのに、凛は壁へ片手をついたままそこから目を離せなかった。火災区域で自分もヴィランとは戦った。尾白と二人で避けて、蹴って、囲まれないように場所を変えながら動いた。それでも、目の前の相澤と同じことをしていたとはとても思えない。
広場の反対側には緑谷と蛙吹、峰田も戻ってきている。三人が中央の様子を窺う向こうで、顔をいくつもの手に覆われた男が相澤との距離を詰めた。捕縛布を掴み、引かれた勢いを利用するように懐へ入った手が相澤の肘に触れると、そこから皮膚がひび割れるように崩れていく。
「先生……!」
壁についていた凛の手が離れた。相澤はすぐに距離を取ったものの、傷めた腕を抱えて止まることなく周囲のヴィランを捌き続ける。その背後へ黒い巨体が入り込んだのが見え、凛が一歩外へ出たところで大きな腕が振られた。
相澤の身体が地面へ叩きつけられる。衝撃が床を伝って足元まで届き、凛は反射的に腰を落とした。そのまま地面を蹴れば中央へ入れる姿勢になったのに、右足へ力をかけたところで身体が止まる。
どこから入ればいい。間にはまだヴィランがいる。相澤を押さえている巨体へ《圧縮》を使ったところで動かせるのかも分からない。広く押せば相澤まで巻き込み、離れた位置から狭く狙えるほど精度もない。何かしなければと思うのに最初の一手が決まらないまま、あの男は相澤から離れ、今度は蛙吹たちの方へ向かっていった。
伸びた手が蛙吹へ届きかけたところで、その動きが止まる。地面へ押さえつけられた相澤が、顔だけを上げて男を見ていた。
あの状態でも、まだ生徒を見ている。
凛が息を呑んだ直後、緑谷が飛び出した。躊躇う様子もなく男との間へ入り込み、振り抜いた拳から広がった風圧が中央を走る。凛は咄嗟に腕を上げたが、その攻撃を受けたはずの黒い巨体はほとんど動かず、次に顔を上げた時には緑谷の身体も捕まっていた。
「何あれ……」
声が漏れた直後、入口側から轟音が響いた。施設の扉を破って入ってきた大きな姿を認識した瞬間、凛は腰を落としていたことも忘れて立ち上がる。オールマイトは入口で止まらず、そのまま中央へ入った。視線で追った時にはすでに相澤を巨体から引き離し、次には緑谷たちも敵の近くから外されている。
さっきまで自分が立ち尽くしていた距離を、ほんの数秒で何度も行き来していた。
緑谷たちが負傷した相澤を連れて入口側へ下がり始める。凛もようやく壁際から離れ、邪魔にならないよう進路を空けながらそちらへ走った。近くまで来ると、相澤の腕だけでなく顔にも血がついているのが見える。何か言える状態でもなく、通り過ぎる担任を目で追ってから、そのまま入口側まで下がった。
先に中央へ戻っていた生徒たちも少しずつ集まり始めていた。火災区域の方へ目をやると、別の通路から尾白が出てくる。向こうも凛を見つけたらしく、互いに無事なのを確かめるように片手を上げたが、声を掛けに行くより先に中央でまた衝撃が鳴った。
凛と尾白はほとんど同時に振り返った。オールマイトと黒い巨体がぶつかるたび、離れていても服が揺れる。拳が当たれば床まで震え、押し返された方もすぐに踏み直して前へ出る。《圧縮》で壁を壊した時とも、全力で自分の身体を押し出した時とも違う。あれだけの力を互いに人へ向けながら、どちらも倒れず次の攻撃へ移っている。
凛は入口側の壁へ片手をつき、身体を支えながら中央を追った。速すぎて、一度相手を見失うと次に音がした場所へ顔を向ける頃にはもう位置が変わっている。黒い霧まで戦闘へ割り込み、巨体との間へ身体を挟まれたオールマイトの動きが初めて止まった。少しずつ引き込まれていくのを見て、緑谷がまた前へ出ようとする。
その横を爆発音が抜け、凛は反射的に肩を竦めた。音のした方へ顔を向けた時には爆豪はもう空中にいる。爆発で一気に距離を詰め、その途中でもう一度手元を爆ぜさせて身体の向きを変えると、勢いを殺さないまま黒い霧へ入り、その実体部分を掴んで地面へ押さえつけた。ほとんど同時に別方向から氷が広がり、中央を横断するほどの勢いで黒い巨体の半身まで覆っていく。その少し先では切島が顔を手で覆った男へ踏み込んだが、振り抜いた腕をかわされていた。
轟が立っている位置からそこまで伸びた氷を見比べ、凛は一瞬口を開けたままになった。こんな範囲まで一度に届くのか。
けれど、中央へ向けていた視線はもう一度爆豪で止まった。さっきの動きが頭に残っている。五十メートル走で自分が出した《圧縮》と同じように、爆発で身体そのものを強く押し出しているのに、途中で向きを変え、狙った位置へ入り、そこで止まった。
凛は無意識に自分の足元を見かけて、すぐまた中央へ顔を戻す。
あれだけ出して、なんでそこで止まれるんだろう。
疑問だけが引っかかった。答えを考えるより先に氷の中から黒い巨体が動き、凍った身体の一部を捨てるようにして爆豪へ向かう。速すぎて黒い影が伸びたようにしか見えず、爆豪へ届く直前にオールマイトが間へ入った。
大きく押し戻されても倒れず、そのまま巨体へ向き直る。そこからさらに速度が上がり、凛は一つひとつを目で追えなくなった。壁から手を離し、風に押されるたびに足の位置を変えながら中央を見る。拳がぶつかるたびに細かな瓦礫が跳ね、入口側まで飛んできた破片に周囲の生徒たちも腕を上げた。
何度殴っても巨体は倒れない。オールマイトも止まらず、一度押し返されればまた踏み込み、今までよりさらに速く拳を重ねていく。凛にはもう何発目なのか数える余裕もない。
一際大きな衝撃が施設全体へ響き、黒い巨体が上空へ打ち上げられた。凛はその姿が天井の向こうへ消えるまで顔を上げたまま追い、周囲から一斉に息が漏れたところで、自分も息を止めていたことに気づいた。肩から力を抜きかけたが、中央のオールマイトは動かない。呼吸に合わせて大きく肩が上下し、さっきまで何度も拳を振るっていた腕も下がっている。
残っていたヴィランたちが再びオールマイトとの距離を詰め始め、凛の右足も半歩前へ出た。少し離れたところで、緑谷が走り出す。
また行くんだ。
そう思った直後、入口側から攻撃が飛んできた。凛は咄嗟に身を屈めて振り返る。開いた入口から複数の教師が駆け込み、それぞれの個性が中央へ向かっていく。残っていたヴィランたちの動きが崩れ、顔を手で覆った男も攻撃を受けた。完全に捕まるより先に黒い霧がその身体を包み、二人の姿が中央から消える。
それでも周囲がすぐ静かになることはなかった。教師たちは残ったヴィランを確保し、負傷者のところへ人が走る。生徒にも集まるよう指示が飛び、凛は尾白の近くまで移動しながら中央から距離を取った。
足を止めたところで、ようやく自分の呼吸がまだ速いことに気づく。手袋の表面には煤がつき、指を曲げると乾いた汚れが少し剥がれ落ちた。
「大丈夫だった?」
「なんとか。押切も?」
「うん」
それだけ確認すると、尾白も中央へ目を戻した。今はそのくらいで十分だった。
少し離れたところには緑谷と蛙吹、峰田がいる。轟も切島も戻ってきていて、爆豪は黒い霧が消えた辺りをまだ険しい顔で見ている。さっきまで同じバスで馬鹿な話をしていた顔ばかりだ。
担架に移された相澤が入口の方へ運ばれていく。凛はその姿を目で追った。腕を傷めて地面へ叩きつけられても、最後まで生徒の方を見ていた。中央へ視線を戻せば、何度止められても前へ出た緑谷がいる。爆豪も轟も切島も、自分からあの中へ入っていた。
相澤が倒された時、自分は一歩だけ出て、その先へ行けなかった。凛は煤のついた手を一度握り、それからもう一度、戦いの跡が残る中央へ目を向けた。
私が目指してるのって、これなんだ。
だったら、もっとできるようになりたい。あの中に入って、自分で何をするか選べるくらいには。