忘れられない痛みがある。
それは、常に意識しているわけではないけれど、ふとした瞬間や夢に見て甦る痛みだ。心のものであれ身体のものであれ、記憶に残る痛みというのは誰しも大なり小なり抱えているだろう。
( ……また、あの夢…… )
もう何度目になるのか。夢を見ては飛び起きて、ぜえぜえと過呼吸のように息を震わせるのは。
どくどくと痛いほど脈打つ胸を押さえ、あまりの冷や汗にゾッとたてる鳥肌は頭皮にまで及ぶよう。まるで溺れているみたいに酸素が足りない気がするが、実際には息を吐き出さなければならないことを、私はもう知っていた。
( 息がうまく吸えないのは、うまく吐けていないから……冷静に、冷静に… )
長く吐く息は、気を抜けば嗚咽が混じりそうに震えていた。何度夢見て何度苦しい目覚めを繰り返しても、この胸はどうしたって酷く痛くて苦しかった。とにかく息を吐き出せばいいのだと理解してからも、そうして息を吐き出したその後だって、ただただ痛くて辛かった。
( ………やっぱり、何かが壊れてた )
それは、水の中にいるような夢だった。ぼんやりと淡い白さだけの空間で、何故か、息がうまくできないのだ。苦しい、苦しいと、足掻く手足も感じ取れないし、呼吸が出来ず痛いはずの胸の熱もわからない。息が吐けないから泣くことも叫ぶこともできなくて、どんどん淡い白さが暗くなっていく。ああ、これを乗り越えたらいいのかな…、あと少しで楽になれそうだ。苦しい、苦しい、けれど……もうそろそろ。
そうして真っ暗になりかけた途端、ドンッ!!と胸に強い衝撃が走る。心臓から電撃が全身に走り、爪と指の隙間に針を突き立てられるように身体が飛び跳ねた。小さな刃で切り刻まれるような痺れと胸を叩き潰さんばかりの痛みに、暗かった視界は真っ赤になって暗転した。
「かわいそうな子」
ごぼごぼと溺れたまま、水の中で聞くような遠さで響いたのは、はたして救う者の声だっただろうか。
ガルグ=マク大修道院は広大な敷地を持つ。精強な騎士団や敬虔な聖職者、そしてそれらを支える者達が数多く住まうのだ。城郭内外に居住区や市場があり、そこはガルグ=マクの城下街とされている。帝国にも王国にも同盟領にも属さないこの土地は、無国籍地帯でありながら、聖地として確立された小さな国のようであった。
( 食料品の値は少し高めだけど安定してるかな……さすがに嗜好品はまだ出揃ってないか。酒類は昨年の出来がよかったから、加工品も含めて豊作だね )
籠に盛られて匂い立つ春の山菜に店先に吊るされた獣の肉。雑多な香りと穏やかな賑わいのなか、市場調査がてらちょろちょろと歩く。冬が明けたばかりなので新鮮なものが大量に並んでいるわけではないが、それでもこの城下街は豊かな方だ。人が集まるので物も集まるし、セイロス騎士団に守られているし、信心深い者ばかりだからか表立って治安が悪いわけでもない。
( ……誰にとっても安全な街…というわけでもないけど )
果物屋をふらりと冷やかして視線を周囲に巡らせる。夕暮れ時で微かに陽の傾いた市場には、仕事を終えて足早に帰宅する若者や、夕飯の支度を買い込んだ女性など、多くの人々が行き交っていた。長く伸びた影が蠢くのを視界におさめつつ、方向転換をして今度は干し肉を吊るす馴染みの屋台に立ち寄った。
ふっと顔を上げたのは店主である壮年の男性だ。
「おう、あんたか。今日の腸詰めは売り切れだよ」
「それは残念。ここの腸詰めは肉の旨味がこれでもかってくらい入ってて最高に酒がすすむんだけどな」
「酒のあてならこっちの酒漬けはどうだ?焼き芋の酒に着けたあと、低温で燻して胡椒をきつめに振ってある」
「え…すごい、いい匂いする」
「おう、これはうまいぞ。焼き芋の香ばしさはもちろん、北方産だから鼻に抜ける甘さは随一だ。……だが、まあ、あと一時間程は店を開けてるからな。それまでに用事を済ませて、腹を空かせてからまたここに来るといい」
「……そうだね」
右斜め後ろ、十字路の柱だ。
店主は小声でそう呟き、ひらりと片手を振った。手を振り返して干し肉屋から離れると、再び散策するように市場の人並みへ繰り出す。
( 右斜め後ろ…………あれか… )
市場を物色するように視線を動かす。ついでだからと目に留めておこうとしているのは、勤務時間外のセイロス騎士や士官学校の生徒達だ。顔見知りの騎士の位置を確認し、ひとつ角を曲がったあと、人気のない脇道へと入る。
穏やかな賑わいが少し遠退いて、先程までは聞こえなかった靴音に耳を済ませた。コツ…コツ…と、ブーツがゆっくり石畳を鳴らす。
軒を連ねる店の裏側だろうか、細い通路には木箱が積み上がっていたり麻袋が干されていたりとごちゃごちゃしている。
夕暮れに翳る薄暗い路地裏。
やられる前にやる素振りを見せておけ、と指導してくれたかつての師の言葉に従おうとした時、
シュッ
何かが空気を切る音がして、すぐにうわっと悲鳴があがる。どさっと誰かが盛大に転けたような音もして慌てて振り返った。
「おおっ、すげえな!」
「獲物、縄がけ、成功です!野生の獣、比較にならない、鈍さでした!」
「な、なんだ…!?足が…っ」
( ……生徒?あれって狩猟用の投げ縄じゃ… )
そこには片足を縄にかけられ膝をついた一人の男と、その縄を握った葡萄色の髪の女子生徒に水色の髪の男子生徒。男は私を尾行していたと思われるが、この二人の生徒は市場で買い物をしていたはず。どうしてここにいるのだろう。
「転ばしちまって悪ぃな、あんた。でもよ、背後から女に襲いかかるのはどうかと思うぜ」
「不審な男、追跡、正解でした。……貴女、怪我する、ありませんか?」
「え……ああ、うん。大丈夫」
「こいつは知り合いか?」
男子生徒は転ばせた男の側に立って、足の縄をほどこうともがく男を見下ろしている。
神経質そうな顔つきの中年男性。その男に見覚えがあるかどうかとなれば微妙なところだが、まず知り合いではなさそう…、
「……いや、知らな…」
「おっ、覚えているだろう!お前が幼い頃、紋章の歴史を説いてやったではないか!」
「紋章の歴史…?」
「そうだ。十傑の成り立ちから各紋章の遷移まで、ありとあらゆることを教えてやったはずだ。私の研究は紋章学の父と呼ばれるハンネマンに並ぶとさえ言われており、当時のお前にも理解できるよう時間をかけて懇切丁寧に紋章学の面白さとお前の紋章の希少さを…」
「あー……はいはい。あれね、思い出した」
「この男、会ったことがある、ですか?」
「4つか5つそこらの頃にね。聖職者にあるまじきことをして、大修道院から地方教会に左遷された元司祭だ」
「あるまじき?……不相応なこと、でしょうか」
「そう、不相応で非常識なことを幼い頃の私にね。行儀よく座らされて、よくわからない話…まあ、紋章の歴史だの何だのを半日近くぶっ続けで聞かせられた時……うとうとしてるうちに髪をばっさり切られたの」
「か、髪切られたのか!?なんでだよ!」
「毛髪、女性の命、言われるのでは?」
「紋章の研究に使いたいからだって」
「はあ?研究!?」
声を裏返す男子生徒を、男は煩わしげに見返した。