契約事項

人は怒りが頂点に達するとW無Wの感情になるらしい。

「なっ…!オマエ帰ってくるのは夜だって言ってたよな⁈」
「えっ誰この女⁈」

二泊三日の出張も予定が前倒しとなり夕方には帰ってくることができた。久しぶりに手の込んだ料理でも作ろうとスーパーに立ち寄ったのが一時間前。そしてせっかくならお酒も、とコンビニで買い足したのが十五分前。その膨れたビニール袋片手に扉を開け玄関に見知らぬヒールを見たのが一分前。

で、ベッドの上で素っ裸の男女と顔を合わせたのが今。

誰がどう見ても修羅場。昼ドラならきっとここで包丁が登場するであろうシーン。しかし私はこの場の誰よりも冷静に事態を捉えていた。そして同棲中の彼氏に一言———

「すみません、お邪魔しました」

自分の家でもあるのにね。でもあんなベッドで二度と寝たくない。
最低限の荷物を持って私は家を出た。



海外からのインテリア雑貨の輸入販売が私の仕事。大学卒業後にはその手の企業に就職し、一通りの仕事をこなせるようになれば日本と海外を行ったり来たり。でもここ二年ほどは事情があり国内の営業部門で働かせてもらっていた。そんな時に出会ったのが彼である。
うちが新店舗を立ち上げる際、広告代理店の営業である彼が出入りするようになった。年齢も同じ、海外に行ったことがある、お酒が好き、互いにフリー——私達の距離が縮まるのも必然で。だからこそ浮気されて『別れる』という選択をした私の行動も最早必然だった。

でもこんなこと、これからの長い人生からしたら小さな石ころに躓いた程度のことだ。きっと一ヵ月もすればこのネタ肴にワイン一本空けられる自信がある。現に今、狭いビジネスホテルで缶ビール煽ってるし。しかし今の私には感傷に浸っている暇すらなかった。

「やばい……」

何故なら明日、入院している祖母に恋人を連れて行くと言ってしまったからである。ずっと入院していて医者からも長くはないと言われている。でもここのところは容体が安定していて私にお付き合いしている男性がいると分かれば「会いたい」と言ってきたのだ。あれだけ楽しみにしている祖母の手前、別れましたなんて口が裂けても言えない。

「この人は去年結婚して、大学の頃の友達はー……ってアイコンが子供の写真になってる⁈」

だから彼氏のフリをしてくれる人を探しているのだが中々見つからない。さすがに既婚者には頼めないので吟味しながらトークアプリの名前をスクロールしていく。

「あっ返事来た!……彼女と同棲中かぁ」

そしてフリーの人に手当たり次第連絡を取ってみたがやはりというか彼女持ちは多い。それにそもそも男友達というのが多くないのであっという間に作業は終わってしまった。どうしよう。レンタル彼氏とか使ってみる…?でもあれやってるのほとんど大学生だよね。それはさすがに若すぎる。

「他に誰かいたっけか」

僅かな望みをかけスマホの連絡帳を開く。といってもそのメンバーもほぼアプリに登録されている人とダブっているためあまり意味がない。しかしそこで私は一人、気になる人の名前を見つけた。

「九井一って誰……?」

聞き覚えのあるようなないような名前である。でも連絡先を知っているからにはどこかで接点があるはずだ。しかし、しばらくその名前を復唱してみるが記憶が蘇ることはない。スマホの右上を確認すればもう日付は変わっていた。残された時間はない。

「九井くんに賭けてみるか」

私は迷わず顔も思い出せない同級生に電話を掛けた。



西の空が茜色に染まる時刻。人肌にまで冷めたコーヒーに口を付けた。

「悪い。待たせた」

通りに面したチェーンカフェのカウンター席。机に滑らすよう白の紙コップが置かれ私はすぐに顔を上げた。吊り目で色白の肌、黒の前髪を横に流し左耳にはピアスが揺れている。

「いや、まだ待ち合わせの五分前だし。隣どうぞ」
「あぁ」

そうだ、この横顔。段々思い出してきた。確か中二の時に同じクラスだったはず。九井だからココくんってあだ名で呼ばれてて勉強がものすごく出来た記憶がある。

「今日は来てくれてありがとう。すごく助かるよ」
「別に。で、彼氏のフリすりゃいいんだっけ?」
「そうそう。設定としては仕事関係で知り合って交際期間一年の後に同棲生活が半年、休みの日は一緒に料理を作ったりドラマを見ながら過ごしてて清いお付き合いをしてるって設定でよろしく」
「えらく具体的だな」

そりゃあモデルがいますからね。しかしそんなことまでココくんに話す必要はないだろう。向こうもなんで彼氏のフリをするのか聞いてこないし。
その後、いくつかの設定を決め病院へと向かった。



「花とか買わねぇの?」

受付へと直行しようとする私をココくんはそう呼び止めた。花屋の売店には色とりどりの花が飾られている。その中にはすでにお見舞い用として束ねられているものもあった。

「そうだね」

正直、会わすことしか考えておらず手土産まで気が回っていなかった。というか意外にも協力的だな。もっと無関心なものだと思っていたのに。会ってようやく『九井一』という同級生を思い出せたのが少し申し訳なくなった。

「好きな花や色とか分かるか?」
「えーっと黄色が好きかな。向日葵とか昔は裏庭で育ててたんだ」
「へぇ。ま、向日葵はねぇからこれでいいな」

そう言って店員さんを呼んでショウケースに飾られた花束を指さす。いや、ちょっと待って。それ一番高いやつ。祖母の今の病室は相部屋だしそんな立派なものじゃなくて大丈夫だから。しかも何故かココくんがお会計までしようとしている。私はお財布を取り出したココくんの手を掴み、待ったをかけた。

「は?なに?」
「いや、私が払うから」
「なんでだよ」
「寧ろそれはこっちのセリフ。私が買うからココくんからってことで渡して。それで大丈夫だから」

ココくんを売店の外へと追い出しお会計を済ます。そうして買ったばかりの花束を渡した。うん、改めて見るとやはり大きい。そういえば病室にこれが入るくらいの花瓶はあっただろうか。

「じゃあ受付行くか」
「うん」

慣れたように受付に向かうココくんの後を追う。この病院来たことあるのかな。迷いなく進む姿は何度も通ったことのある足取りだった。

「おばあちゃん、久しぶり」

四人部屋の左手奥、カーテンで区切られた窓に近いベッドが祖母のスペース。今日は体調がいいのか編み物をしていて私の声に反応して顔を上げた。ずり下がった老眼鏡を支え一拍遅れて祖母の顔がほころぶ。

「あらぁ待ってたのよ。元気にしてた?」
「うん。おばあちゃんも調子がいいね」
「ふふっ私は元気いっぱいよ。今日もお庭をお散歩してねぇ、そしたら……」
「あのっ今日は紹介したい人を連れてきたの!」

祖母の話は長くこのままで本題に入る前に面会時間が終わる。そう判断し、私はカーテンの外側にいるココくんに声を掛けた。

「初めまして。お孫さんとお付き合いさせて頂いてます、九井一です。これよかったら」
「まぁ素敵!わざわざありがとうねぇ。貴方に会えるの楽しみにしてたのよ」
「僕もです。ご挨拶が遅くなりすみません」
「気にしないでいいのよ。それより二人はいつからお付き合いしてるの?初めてのお出かけはどこへ行ったのかしら?」
「おばあちゃん、落ち着いて……」
「いいじゃない!この子、あまり自分のことを話さないから教えて頂戴な」

久しぶりに私以外の人に会えて興奮しているのだろう。矢継ぎ早に質問攻めする祖母に、さすがのココくんも引いたのではないかと盗み見れば嫌な顔一つしていなかった。そして予め想定していなかった質問にもいい感じの受け答えをしてくれている。というか完璧すぎて私が間に入る余地すらなかった。
そして気付けば随分と長居しており、祖母の夕食の時間になっていた。

「そう、一くんはお仕事で海外にも行くのね」
「はい。最近だとヨーロッパの方にも少し」
「あぁヨーロッパと言えば私も新婚旅行で行ったのよ。あの時は映画で見た——」
「おばあちゃん、もうすぐ夕食の時間でしょ?私達そろそろ帰るね」

最終的には「一くん」と呼ぶまでに気に入ったらしい。まだまだ話し足りなそうな祖母からココくんを回収し病室を後にした。

「また一くんも遊びに来てね」

その言葉が、私の心臓をチクリと突いた。

来たときと同じ道を辿り病院の外へと出る。
濃紺な東の空には白い満月が浮かんでいた。

「ごめんね、遅くまで付き合わせちゃって」
「まぁ見舞いなんてこんなもんだろ」
「そうかな。でも話まで合わせてくれて本当に助かったよ。あとお礼もしたいんだけどこれからご飯とかどう?ぜひ奢らせて」
「この後は仕事入ってる」

そういえばココくんって何の仕事してるんだろ。設定を気にするあまり本当の職業を聞いていなかった。でもおそらく相当の高給取りだ。花屋で見た財布に履いている靴、そして身に着けている時計などいい物であることは一目で分かった。

「そっかぁ。じゃあどうしようかな……」

ココくんの仕事も気になるところではあるが今はお礼をどうするかだ。どんなに稼ぎが良くてもお礼はするべきだし私も借りを作るのは嫌。今日が無理なら食事の日程を組み直すか、それともこの場で現金という名でお礼をするか。でも流石に現金は失礼か?

「なぁ、礼って物以外でもいいの?」

一人で頭を悩ませていたところでココくんから衝撃的な一言が。物以外……もしや体か?

「へ⁈いや、それはさすがに……」
「はぁ?」
「久しぶりに再会した同級生と一夜を共にするっていうのはちょっと……」
「なっ…!ンなわけねぇだろ‼」
「現金渡すからその手のお店に行ってくれないかな?」
「だから違うつってんだろ‼」

あからさまに距離を取れば盛大な舌打ちをされたので本当にそういう意味ではないらしい。それにしてもさっきとは打って変わってのガラの悪さ。意外とそういうとこあったよね。確か…———

「オレの仕事関係で手ェ貸してほしいことがあんだよ」

……あれ?よく思い出せないや。

「まぁ私でできることなら」
「近いうちに連絡する。じゃあな」

そしてココくんは月明かりから隠れるように夜の闇へと消えていった。



ココくんのことを思い返してみようにも手元には中学の卒業アルバムすらなかった。というのも親が離婚し母方の祖母の家へと引っ越す際に処分してしまったらしい。中学の頃の友達と連絡が取れないこともないが今さらメールを打つのも躊躇われる。そう考えるとお酒の力を借りたとはいえココくんに電話を掛けられた私はすごいと思う。

そしてあれから一週間ほど経ったが特に音沙汰なし。毎朝ホットコーヒー片手に出社して仕事をこなし、帰りにコンビニに寄ってホテルに帰る生活。服はまとめてランドリーで洗って日用品が足りなくなれば最寄りのドラッグストアへ行く。そんなこんなでホテル暮らしにもすっかり慣れてしまった。



「げっまたか……」

まぁ一つ頭を悩ませていることがあるとすれば元カレからの連絡だろうか。浮気現場を目撃した翌日に私は電話で彼にお別れを言った。しかし向こうにその気はないのか復縁のメッセージが毎日のように届く。そして再びスマホが震えたので睨みつけるようにディスプレイを見ればそこにはココくんの名前が表示されていた。しかもメッセージではなく電話だった。

「もしもし?」
『急に悪い。この後時間あるか?』
「大丈夫だけどまだ職場にいる」
『迎え行くから場所教えろ』

職場の場所を伝えれば『五分で着く』と返され通話は切られた。随分と速いな。でもハンズフリー通話のようだったし偶々近くを車で飛ばしていたのだろう。でもこれからどこに連れて行かれるんだ?まぁとりあえず化粧だけは軽く直しとくか。

『着いたんだけど何処いんの?』
「いや、もういるんだけど車が多くて……」

迎え待ちの車と客目当てのタクシーで意外と路駐が多い。車の特徴を聞きつつ、一台ずつ中を覗きながらココくんの姿を探す。そしたらうっかり怖いおにーさんと目が合ってしまったので慌てて視線を逸らした。

『何やってんだよ』
「だから探してるって」
『今目ェ合ったろ』
「え?」

目が合ったのは銀髪ロン毛のおにーさん。ちらりと見えた側頭部にもがっつり剃り込みが入っていた。いや、この前会ったとき黒髪でしたよね?もし本当にココくんなら劇的ビフォーアフター過ぎではないだろうか。

「銀髪のヤバそうな人としか目合ってないんだけど」

あ、そういえばもう一つ『九井一』について思い出したことがある。中三の時だろうか。学年でも有名な柴大寿とつるんで悪いことしてるって噂が流れてた。なんでも地元の不良集団をまとめて金稼ぎしてるって。それが本当ならココくんもヤバイ人なのかも。

『あー…事情は説明すっからとりあえず早く来い』

通り過ぎた車の元まで戻り、改めて運転席に座っていた男を見る。そこにいたのは紛れもなく劇的ビフォーアフターしたココくんだった。しかしあまり驚き過ぎるのも失礼かと思い平然とした態度で助手席のドアを開けて中に乗り込んだ。

「イメチェン似合ってるよ!」
「テメェふざけてんのか?」

だからこそそれなりに気を遣ってあげたというのに睨まれた。

「違うの?というか一週間前まで黒髪の短髪だったのにどういうこと……?」
「これが地毛だよ」
「えっあれヅラだったの⁈」
「ウィッグって言え!」

なにその逆転の発想。というかココくんって何者?今の服も中華っぽいしこの車だってかなりの高級車だ。それに頭に彫られた刺青——最近ニュース番組でも取り上げられ、話題になっているある組織のマークに似ている。

「……ココくんは何の仕事をしてるの?」
「分かんねぇ?」

私の視線の先——花札のようなマークを人差し指でトントンと叩く。

「梵天……?」

梵天——賭博・詐欺・売春・殺人、どんな犯罪も裏には梵天がいると言われている日本最大の犯罪組織。

「正解。今は梵天の幹部だ」

素人目でもココくんに隙がないのが分かる。それに刺青だって本物だ。これは悪い冗談なんかじゃない。

「なに?今から警察にでも言うか?」

私の顔が強張ったのが分かったのだろう。心を見透かしたように言葉が投げかけられる。それは同情なのか脅しなのか。いや、違う。

「言わないよ」
「へぇ」

私は今、試されている。

「私にとってのココくんは『犯罪者』ではなく『中学の同級生』だからね。まぁ一回しか同じクラスになんなかったし大して仲良くもなかったけど私はココくんを報道されているような極悪人には思えない」

この状況で「警察に言う」という選択肢を取れる人間はまずいないと思う。だから「言わない」というのが決まりきった答えではある。でも今の言葉は私の本音だった。私はほんの少しだけど、ココくんがやさしい人であることを知っているから。

「オマエ、オレのこと買い被り過ぎじゃね?」

切れ長の目を見開いてココくんは驚いていた。この人、こんな顔もするんだな。それが面白くて私は少しだけ態度と声を大きくした。

「同級生のよしみで過大評価してあげてんの!」
「ハッよく言うわ!オマエ電話かけてきたときオレのこと覚えて無かったろ」
「そっ…んなことはない!」
「電話かけてきたときは『九井くん』で、会ったときは『ココくん』に戻ってた」
「うっ……」

うわぁ気付いてたのか。こちらが苦虫を噛みしめたような顔をしていれば何故かココくんは勝ち誇った顔をしていた。意外と良い性格してんな。

「まぁとにかく!私の中ではココくんは今も昔も同級生の立ち位置にいるってこと!それよりも電話をかけてきた理由をそろそろ教えて」
「分かった。実はこの前オレに頼んできたことをオマエにやってほしい」
「彼女のフリってこと?」
「いや、婚約者」
「婚約者⁈」

話が飛躍しすぎて頭が追いつかない。そんな私に対しココくんは順を追って説明をしてくれた。
今では梵天が日本の裏社会を牛耳っているわけではあるがそれを面白くないと思う輩もいる——東城会という関東一円のヤクザを束ねる組織がその一つだ。梵天と東城会の構成員同士がぶつかり合い揉めることもしょっちゅうで死人も出ているらしい。両者のトップもこれはどうにかしなければ考えた結果、互いの組織の人間を結婚させようという話になったらしい。

「それって平成の話?」
「だろ?オレもそう思うわ」

東城会の方は現会長の娘を嫁に出すと言ってきた。そうなると梵天側もそれなりの立場の人間を用意しなければならない。

「だから梵天幹部の誰をW生贄Wにするかで揉めてるってわけ」
「なるほど。だから婚約者ってわけね」

現実離れしすぎていて話に追い付くので精一杯だ。でもこれが冗談でないところがココくんが『梵天』という組織にいる証拠でもあった。

「オマエには今からオレの婚約者のフリして組織の奴らに会ってもらいたい」
「分かった」
「つっても隣で立ってるだけでいい……って返事すんの早くね?」
「いや、借りは返したいし断る理由なんてないよ」
「やっぱあの時、オマエからの電話取って正解だったわ」

そう笑ってココくんは助手席のグローブボックスを開けた。ベルベット素材のボックスが三つ、中で転がっている。その一つをココくんは手に持って私へと渡した。

「とりあえずそれ付けろ。サイズ合わなかったら他のも試せ」

女の子はこの指輪を付ける瞬間を……という映画の上映前のCMが頭を過る。そして期待通りにそのボックスの中身は指輪だった。

「フリでここまでする必要ある?」
「オレの人生掛かってんだよ。そんぐらいするわ」

だってこれ本気の婚約指輪じゃん。ダイヤの大きさからおそらく百万は下らない。他のボックスも気になり開けてみれば全く同じ指輪が収められていた。私のサイズが分からなかったからいくつか用意したのだろう。

「ねぇ、ココくんのお給料ってどのくらい?」
「その三つの指輪で釣りが出るくらい」

花束代、集っておけばよかったわ。そんな感想を残し夜の街へと車は動き出した。



てっきり裏社会のアジトへと乗り込むのかと思いきや連れて行かれたのは都内のキャバクラだった。どうやら梵天が経営しているお店らしい。店自体は完全会員制の高級クラブのようだ。それだけあって店内はきらびやかで豪華だった。

「今は貸し切り状態だから他の客はいねぇよ。おい、アイツいるか?」
「はい。奥のVIPルームにいらっしゃいます」

ココくんの話を聞きながらボーイの後に続きVIPルームへと向かう。

「今からオマエを梵天のナンバーツーに会わせる。だが、オマエは黙って隣にいるだけでいい。あとはこっちが勝手にやる」
「分かった」

小声でそんな話をしていればボーイが重厚な扉の前で足を止めた。ココくんが声を掛けるとボーイは一礼して来た道を戻っていく。そして私がココくんを見れば一つ頷いて目の前の扉に手を掛けた。

「九井も来たか」
「へぇ意外」
「げっ」

部屋に入るなりココくんの顔が歪む。私も体をずらして中を確認すればそこには三人の男女がいた。一人は派手なタフィーピンク髪の男、もう一人はタレ目で色っぽい雰囲気の男。そしてその色男の隣に真っ赤なタイトワンピースを着た派手な女がいた。

「オマエにもいたんだな」
「うっせぇ」

こちらを見た色男と目が合ったので軽く会釈をすればにこやかに微笑まれる。そしたらなぜか隣の女にメンチを切られた。いやいや、取るつもりないからね。

「とりあえず座れ」

ピンク髪の男に促されソファに座る。どうやら一番奥に座るピンク髪の男が梵天のナンバーツーらしい。私とココくんがその真正面のソファに並んで座る。色男と派手な女は私たちの左側にあるソファに並んで座っており、意図せず私が彼女の近くに腰を下ろすことになった。

「で、ソイツがオマエの女?」
「そ。これでオレは例の件から除外ってことでいいだろ」
「証拠見せろ」
「指輪してんだろ」
「ンなモンいくらでも偽造できんだろぉ?ここでセックスくらいしろや」
「頭沸いてんな」

うわっ思ったよりめんどくさいな。でも隣にいるだけでいいと言われたので黙ってそのやり取りを見守る。

「目ざわり」

ぽつりと言われたその言葉。横を見れば美しすぎる曲線の胸を弛ませて、女がリップを引き直していた。

「なにか?」
「量産型のジャケットに擦り減ったパンプス、地味なメイクにスタイリングなしのヘアスタイル。そしてブランドものの一つも身に着けてない。場違いだって言ってんの」

私には女難の相でも出ているのだろうか。今まで平々凡々な生活をして、人から妬み恨みも買うことがないくらい地味に生きてきたつもり。揉め事を大きくするのも嫌で、だから浮気されたときもあっさり別れようと思った。

「いやぁレプリカしか身に付けてない人に言われても」

だから普段の私ならこの手の嫌みは適当に受け流していたと思う。でも今夜は違った。馬鹿にされたから、というのももちろんある。でも半分以上はただの八つ当たりだった。彼女の容姿がどことなく浮気相手の女に似ていたから。

「は?」
「そのブランドバッグ偽物ですよね、ベルト部分の金具の形状が本物と違います。それとその服も」

今こそ職場の地獄の飲み会で得た知識を生かすとき。海外から粗悪な商品を買い付けないようにという名目で、身近なブランド品を使って本物か偽物かを見分けるゲーム行っていた。間違える度にショットグラスを飲むという今やったら確実にコンプラに引っ掛かる飲み会も、案外いい思い出だったかもしれない。

「う、嘘よ!これは海外の本社勤めの知り合いから直接買ったんだから!」
「社員限定で買えるものは市場で転売されないようにロゴが一部違うの。だから正規品でもないし値段も半分以下」
「適当なこと言わないで!あんたのその節穴の目引き摺り出してやる!」
「ならこっちは貴方の胸のシリコン引き摺り出すわ」
「ブッ……」

キャットファイトどころか掴み合いの喧嘩にまで発展する直前、吹き出すような笑いが割って入った。それは彼女の隣にいた色男のもので。そしてその笑いは次々に伝染していった。

「アハハッこりゃ傑作だな!」
「オマエ意外といい性格してんな」
「コ……一くんには言われたくないかな」
「ヒーッマジウケる!九井の女サイコーだわ」
「ちょっとなに蘭まで笑ってんのよ!あの女、私のこと侮辱したのよ⁈」
「アァ?オツムの足りなねぇ女はもう用無しだよ」
「そんなっ……」

あ、ごめん。そこまでのつもりはなかったんだ。でも今さら彼女に掛ける言葉もない。そして散々笑い者にされた彼女は部屋を飛び出して行ってしまった。

「おい、」

呆然としていたらピンク髪の男から声がかけられた。

「オマエ、九井のどこに惚れたか言ってみろ」

そういえばココくん任せだったから設定というものは何も考えてなかったな。どうしたものかとココくんに視線を送ろうとすればピンク髪の男にテーブルを蹴られた。どうやら私が答えないといけないらしい。少し唸って頭の中でいくつか候補を上げる。そして最も説得力のありそうな理由を口にした。

「お金をたくさん持ってるとこですね」



「今日はマジで助かったわ」

どうやら大正解を引き当てたらしい。ココくんは婿候補から外れ、婚約者を演じきった私と共に店を出た。そして家まで送ってくれると言った車の中でその時の出来事を振り返っている。

「あんな感じでよかったの?それに向こうの女の人怒らせちゃったし」
「気にすんな。寧ろ期待以上の働きだったよ」

声を出して笑うココくんを見て反社の人の笑いのツボって分からないなとつくづく思う。あまりにもその笑いが収まらないものだから、危ないクスリやってるの?とつい聞いてしまいそうになった。

「ここで大丈夫。送ってくれてありがとう」

ヒーヒー笑うココくんを相手にしていたらもう見知った場所まで帰ってきていた。車を路肩に停めてもらいシートベルトを外す。

「ホテル?」
「そうそう。同棲してた彼氏が浮気して家飛び出してきたからここに住んでるの」
「それは……」
「あ、同情とかいらないんで。寧ろヘタな結婚しなくてよかったって思ってるくらい」

薬指から指輪を外しココくんに返す——この時、もう二度とこの指に指輪なんて通さないんだろうなと漠然と思った。

「オマエらしいな」

ココくんが私の何を知っているというのか。でも、嫌な気はしなかった。

「じゃあね」
「おう」

「またね」とも「さよなら」とも言わない。
でもそれが、ひどく私達らしいなと思った。



週末、私は新しくマンションを借りるべく不動産屋を訪れた。こちらの希望条件を伝えいくつかの物件を紹介してもらう。でもすぐに入居できること、都内駅近、家賃六万以下ということで選択肢は狭まってしまった。その結果がユニットバスというのは些かつらい。でもお金も貯めたいししょうがないか。
そうしてようやく今後の目処が立った頃だった。

『今から会えるか?』

もう二度と連絡がないと思っていたココくんから着信があった。少し驚いて、でもその切迫した声に断ることはできなかった。私はビジネスホテルを出てココくんに指定された場所まで急いで向かう。繁華街の裏通りにある無人のパーキング、そこに似つかわしくない高級車に近づいて私は助手席に乗り込んだ。

「急にどうしたの?」
「実はマズいことになった」

はぁ、と盛大なため息をついてココくんはハンドルに両手を掛けて俯いた。長い銀の髪が垂れ、その表情はよく見えない。そのただならぬ様子に緊張を覚えながらも私は、教えて欲しいと声を掛けた。

「今度、中国マフィアと交渉することになった」

ココくんは言葉を選びながら詳細を話してくれた。何でも梵天は国外へも勢力を拡大しているらしい。そして次は中国からの輸入薬物量を増やすため向こうの裏社会を牛耳るマフィアと協定を結びたいのだそう。

「それが何か私と関係あるの?」
「実は向こうのボスには溺愛している娘がいるんだ」
「うん」
「年は二十代半ば。オレらの三つ下な」
「それがどうかしたの?」
「向こうが条件を出してきた。交渉相手は既婚者にしろと」
「なんで?」
「万が一にも娘が取られる事のないようにだと」

娘を売る親もいれば箱に閉じ込めとく親もいるんだな。悪いが私にはどちらの親心も理解できない。ただココくんの言いたいことは分かった。

「じゃあ私が嫁のフリでもすればいいの?」
「そう簡単な話じゃねぇ———オレと本当に結婚してほしい」

人は予想だにしない言葉を受けるとW無Wの感情になるらしい。

「……マジで?」
「マジで」
「え、フリだけじゃダメなの?」
「向こうのフロント企業が日本にも拠点置いてんだよ。オレが交渉相手だと知れたら徹底的に調べられる。そしたら嘘もすぐバレる」

だったら梵天にいる本当の既婚者に頼んだ方がいいのでは?と思ったが幹部クラスで恋人がいると証明されたのがココくんだけだったらしい。そしてココくんの様子を見るに本当にピンチらしい。乗り掛かった舟だし助けてあげたいのも山々なのだが正直これ以上、梵天に関わりたいとは思わない。

「うーん……」
「もちろん無理にとは言わねぇ。ただ条件は出させてほしい」

ココくんから二枚の紙を受け取った。一枚目は婚姻届、そしてもう一枚には細々と色々なことが書かれていた。それに一通り目を通し、勢いよく顔を上げてココくんを見る。つまりこれは要約すると——

「オレと結婚すんならタワマンの一室と食事と生活費は保証する」
「採用!」

こうして私は『九井』の苗字になることを決意した。


next

novel top