雨とカプチーノ

独身生活を謳歌する!と宣言した途端、結婚することになった。交際期間ゼロ日のスピード婚であり、しかも互いに恋愛感情を持たない者同士。でも私は案外悪くないって思った。

「ここがオレの家な」
「うわっ高っ!」

だって住む場所が都内一等地のタワマンだよ?車の中からではその全貌が見えないくらい高かった。駐車スペースは地下にあり一階はスーパー、そして二、三階にはスポーツジムが入っているらしい。芸能人が住むところみたいだ。こんなところに住めるだなんて役得でしかない。だから私はココくんの申し出を即日採用し家を見たいと頼み込み、すぐに連れてきてもらった。

「で、ここがオマエの部屋な」
「うわっ広っ!」

そして今に至るのだが早速見せてくれた空き部屋も広かった。同棲していた家のリビングよりも広い。そしてそのリビングはと言えば当然それ以上広いわけで。もう驚き過ぎてワンパターンのリアクションしかできなかった。ただ、少し気になったことがある。

「ねぇ、こんないいところに一人で住んでたの?」

それはココくんに本当は恋人がいるのではないかということ。本命に危険なことをやらせたくなく私に頼んできたという可能性もあったからだ。正直いてもいいのだが流石に三人暮らしはキツイ。

「まぁな」
「うわっ寂しっ!」
「アァ?」

しかしそれも杞憂だったらしい。そこまでのメンチを切られたら疑う余地もない。だから私も安心して、元気出しての意を込め肩ポンすれば舌打ちされた。よかった、通常運転のようだ。

「じゃあ改めて内容の確認な」
「うん」

一通り家の中を案内してもらいダイニングテーブルを挟んで向かい合って座った。
そしてココくんは改めて婚姻届と一枚の書類を差し出した。

「オマエには空き部屋を一室やる。でもトイレ、バス、キッチンは共用な。リビングは好きに使ってくれて構わない」
「リビングもいいの?」
「あぁ、オレはほぼ寝るためにしかこの家に帰ってこないからな。但しオレの部屋には入らないこと」
「もちろん分かってるよ」
「その他、経済面でオマエを困らせるようなことはしない。その代わり、」
「W妻Wとしての役目が必要になった時は協力すること」
「分かってんじゃねぇか」

梵天と関わりたくないという気持ちは今もある。でもそれも隣にココくんがいるのであれば何とかなるかなと私は楽観的に捉えていた。

「ここまでで何かあるか?」
「じゃあ私から一つお願いがある。またお見舞いに一緒に行ってくれる?都合が合う時でいいから」

あれから祖母がまた一くんに会わせろと連絡を寄越すようになった。元気があるのは実にいいことだがあの状態がいつまで続くかは分からない。だからこそ今のうちに祖母孝行をしておきたかった。

「分かった。他に聞いときたい事は?」
「今のところは大丈夫」
「ならサインできるな」

婚姻届はもちろんのこと、ココくんお手製の書類にも署名欄があった。用心深いのか几帳面なのか。でもこの方が分かりやすくていい。私達は結婚という名の契約≠結ぶに過ぎないのだから。

「うん」

ボールペンを手に取り迷いなく自分の欄を埋めていく。私の手は一度も止まることはなかった。そしてただ一カ所を残し書類を一度ココくんへと返す。その時、ココくんが私の左手を取った。

「これ渡しとく」

もう二度と付けないと思っていたエンゲージリングが薬指にはめられた。今回は試すこともなくぴったりとそこへ収まる。私達の未来を思えばそれは目に痛いくらい光り輝いていた。

「私も遂にお嫁さんかぁ」
「全く嬉しそうにないな」
「いやいや、ぱっと見で百万くらいの指輪が手に入って嬉しいよ。お金に困ったら売らせてもらうね」
「バーカ。オレといる限りオマエが金に困る事なんかねぇよ」
「確かに」

まぁでも、ココくんと描く未来は少しだけ楽しそうだ。

「じゃあこれからよろしくな」
「うん。こちらこそ」

これで契約成立ってことで。



一日でも早くホテル暮らしから脱却しあのタワマンに暮らしたい。港区 OLもびっくりの優雅な暮らしをしてやるぜ!と意気込んではいるものの、私にはやるべきことが残されていた。

「やっと会ってくれた」

それは元カレと顔を合わせることである。あの家から荷物を取って来るためにも避けては通れなかった。だから私は二桁にもなるバッヂの着いたメッセージを開いて彼と連絡を取ったのだ。

「今まで避けててごめん。これからのことちゃんと話そうと思って」
「あぁ」

カフェ、というよりは喫茶という言葉が似合うレトロな雰囲気の店。同棲したての頃に見つけ、休みの日にはよく二人でモーニングを食べに来ていた。

「私はあの家を出てくから」

相手が口を開く前に私が言った。

「もうやり直せないのか?」

その前に言うことあるでしょ。

「浮気した人とは無理かな」

一番奥の窓際の席——それが私達のいつもの場所だった。二人で同じメニューを頼んで、でも彼はそこへ百二十円追加してコーヒーをカプチーノに変えていた。さらにお砂糖までもたっぷり入れるのだからその度に私は、コーヒーへの冒涜だと散々に言っていた。

「それは本当に悪かったと思ってる」

今日も彼の前にはお砂糖たっぷりのカプチーノ。そして私の前にはブラックコーヒーが置かれていた。これはいつも通りの光景。ただしいつもと違うのは今が朝の時間帯ではないことと私達が恋人ではなくなったということだった。

「いつからしてたの?」

外は雨が降っていた。窓ガラスに雨粒が当たる度にカタカタと窓枠が鳴く。耳障りとも思えるそれがやけに心地よく感じた。

「知り合ったのは半年くらい前。でも関係を持ったのはあの一回だけなんだ、信じてくれ」
「一回、ね」

一回だから許されるのか。でも回数は関係ないと思う。傷害罪で捕まった人間が一発殴っただけだから無罪にしてくれ、と言ったら裁判官は何の罰則も下さないのだろうか。否、下す。

「中途で入ってきた女の子なんだ。向こうが結構積極的でさ、相談とか乗ってるうちに……その、成り行きで」

この人は確かに人の良い性格をしていた。押し付けられた仕事も断れないのかしょっちゅう残業して。先述のように後輩からもよく相談を受けていた。お人好しで面倒見がよく、自己主張もそこまで強くない。客観的に見て、彼は理想の結婚相手だったのかもしれない。

「オマエとは結婚も考えてた」

しかし、その結婚の二文字を聞いても何も思うことはない。そういえばココくんに言われた時も驚きこそすれ、淡く沸き立つような気持ちにはならなかった。詰まるところ私には結婚願望というものがなかったらしい。

「そう」

気付けば俯いていたらしい。自分の発した言葉で我に返れば水面越しの私と目が合った。焙煎深めのブラックコーヒー。それがここの名物であり私のお気に入りだ。

「あぁ……でも、もう二度としない。約束する。だからやり直したい」

その言葉を人生で聞くのは三度目だ。彼の前に付き合った人に二回言われた。彼の場合は一回目だけど私は人を信用することに疲れたのかもしれない。

「無理、かな」

言葉尻が弱くなったのはまだ情が残っていたからか。でもこの人といても未来が見えないなと思った。それに私はココくんと結婚をすることにしたのだ。今さら契約破棄しようとは思わない。それに、もしそんなことをすれば私は命を狙われるかもしれない。

「私達は今日でもう終わり。今まで楽しかったよ、ありがとう」

でもココくんの事だからきっとそこまではしないと思う。だけど私はそう考えることで彼と別れるということを正当化させたかった。そうすればこれ以上考えることもなく、別れるという答えを簡単に導き出せるから。

「……分かった」

納得していません、という言葉を顔に張り付け彼は頷いた。一度決めたことを私はそう簡単に曲げない。だからもう何を言っても無駄だと分かったのだろう。もうこれで本当に終わりだ。私は席を立つためお財布を取り出した。

「これ置いてくね」

一枚の千円札をテーブルの上に置く。きっと私はこの店には二度とこない。だからここでの思い出も、今日という日の出来事も全て清算してやるつもりで二人分の代金を支払った。

「いいよ」
「じゃあ自分の分だけ」

運よく入っていた五百円玉と取り替える。昔から外食したときは割り勘が常だった。まぁ向こうが多く払ってくれることが多かったけれど私としては同い年なんだからってことで自分の分は払うことが当然だと思っていた。

「オレは最後までオマエのことがよく分からなかったよ」

立ち上がり出入口へと向けた足を止める。視線を落とせば飲みかけのコーヒーと彼のつむじが見えた。

「誕生日にフレンチレストランを予約すれば金の心配されて仕事で何かあってもオレには言わない」

今まで彼は私に一度だって不満を言ったことはなかった。それがどうして今になって言うのだろう。

「今まで悪いと思ったから言わなかったけどさ」

あぁそうかこの人は自分が一番可愛かったのか。なんで皆、別れるときになってそういうこと言うのかな。そんなの後だしジャンケンもいいところ。だってもう直しようもないし。

「もう少し頼りにしてほしかったよ。男としての見栄を張らせてほしかった」
「言ってくれたらよかったのに」
「オマエが傷付くと思って言えなかったんだよ」

ほらやっぱり。自分が傷付くのが嫌だったんじゃない。

「やっぱり別れた方がいいね私達。思ったことも言えないなんて夫婦になんかなれないよ」
「そうだな。オマエが言うことはいつも正しい」

私はもう一度財布を開いて五百円玉を元に戻した。そして再び千円札をテーブルに乗せる。私を嫌な女にしたいなら最後まで演じてやろうと思った。ほら、なんたってこれから長い女優生活が始まろうとしているのだから。

「さようなら」

今度こそ出口に向かって歩き出す。もう私は立ち止まらないし振り返らない。
でも私の性格をよく知る彼は最後に追い打ちをかけて来た。

「そういうところ可愛げなくて好きじゃなかった」

だから浮気した。声に出されなかったその言葉も私の耳にははっきりと届いた。
外に出て灰色の街へと一歩を踏み出す。雨の音がやけに煩かった。



本日二杯目のコーヒーを飲んでいればスマホが新着メッセージを通知した。どうやら仕事が終わったらしい。しとしとと降っていた雨も上がり夕暮れ時の空は済んだ色をしていた。そのおかげか私の荒れた心も少しは落ち着きを取り戻し、いつもの私でココくんに会うことが出来た。

「仕事お疲れ様」
「そっちも。無事に別れ話は済んだか?」
「うん。あとこれ、よかったらどうぞ」

スマイルマークの書かれた白地のカップを差し出す。先ほどまでいたチェーンカフェで購入してきたものだ。ココくんの趣味嗜好は一切分からないがこの前飲んでいたものと同じものをテイクアウトして来た。

「丁度買いに行こうと思ってたわ」
「これで大丈夫だった?」
「あぁ。サンキュ」
「え?」

カップを受け渡して何もなくなった掌に一枚の紙が握らされる。それは数時間前に私がテーブルの上に置いてきたものと同じ紙幣。

「これで足りんだろ」
「お金はいらないよ。差し入れなんだから」
「でもオレも買うつもりだったし」
「いいって」
「は?何で受け取らねぇの?」
「ガラの悪さ隠せてないですよ、おにーさん」

たかが一杯でなぜここまでムキになるのか。それとも千円札はちり紙程度にしか思ってない?とりあえずココくんはもう少し丁寧に野口さんを扱った方がいいよ。

「貸し借り作ンの嫌いなんだよ、受け取れ」
「分かったって。それじゃあ……」
「それと小銭は持ち歩きたくねぇから釣りは返すな」

その先の考えも読まれていたらしい。もう何を言っても聞き入れてくれなさそうなのでお礼を言って財布にしまった。

「で、アレは持って来ただろうな」
「うん」

ココくんに言われ私はポーチの中に入れていたものを取り出す。それは印鑑だ。あの家にずっと置きっぱなしで、だからこそココくんと契約を取り交わした時一カ所埋められなかったのだ。これがなければ籍も入れられない。ということで彼との話し合いの後に家に戻り印鑑だけは急いで回収して来た。

「捺印したらそれ出しに行くぞ」
「ココくんも一緒に行くの?」
「当然だろ」
「忙しいでしょ。私が一人で出しに行ってもいいけど」

ココくんと一瞬目が合ってそして気まずそうに逸らされた。

「ボスが正式にオレを交渉相手にすると向こうに伝えた」
「あぁ、例の中国マフィアって人達?」
「そうだ。となるともういつ監視がついてもおかしくはない」

中国マフィアの人達も随分と暇だな。こんなことしてる暇があったら事業拡大のために時間を割いたらいいのに。別に斡旋したいってわけではないけれど。

「だから二人で出しに行った方がいいのね」
「そういうこと」
「じゃあ行きますか」
「おう」

緩やかに車が発進する。まだ数回しか乗っていないのにこの助手席から見る景色も馴染みのものになった。車体が低いので歩道を歩く人が良く見えるのが面白い。今の時間帯は下校中の子供が多く見られた。

「そういえば本籍ってこっちなわけ?」

水溜まりで遊ぶ男の子から視線をココくんへと戻す。でもその前にスマイルマークと目が合って少し笑ってしまった。飲んでくれてよかったけどそのカップは失敗したな。店員さんに断りを入れればよかった。緩んだ口元を引き締めココくんに変な目で見られる前に私は口を開いた。

「うん、生まれはここだしね。どうしたの急に?」
「中学の卒業と同時に引っ越したろ」

確かにココくんが言っていることは事実だ。私が中学三年の時に親が離婚で揉めて、そして高校は祖母の家から近いところを受験しそちらに住居を移していた。

「よく知ってたね」

私とココくんがいた中学は中高一貫の私立学校だった。でもそれなりにクラス数も多くココくんと同じだったのは中二の時の一度きり。だから私が引っ越したことも当然知らないものだと思っていた。

「オマエ割と有名だったろ」
「誰よりも地味に慎ましく生きてきたつもりだけど」
「地味な奴は家庭科室の電子レンジを爆破させないんだわ」
「げっ」

そう、あれは家庭科での調理実習の事。サラダに添えるゆで卵を作ろうとして私は生卵を電子レンジに放り込んだ——あとはもうお察し頂けるだろう。

「フツー考えりゃあ分かるよなぁ」
「少し温めれば湯で時間が短縮できると思ったの!」
「知ってるか?オマエ裏で『クラッシャー』って呼ばれてたぞ」
「うそ⁈そんなの知りたくなかった!」

うちの私立は特にお金持ちの子が多く通っていた。だからこそ品行方正な生徒が多くちょっとした出来事がひどく悪目立ちした。まぁ私の場合は校内の火災報知機まで鳴らしたから悪目立ちどころではなかったけれど。

「先公が転校先でオマエがまた電子レンジ爆破しないか心配してたぞ」

先に言っておくが授業の成績は悪くなかった。でも先生方には爆破の生徒として私は認知されていたらしい。たかだか一度の失敗でそれは流石に酷すぎる。そして隣で思い出し笑いをしているココくんはもっと酷いかな。じゃあここからは私のターンといこうか。

「ココくんこそ有名人だったよね」
「オレが?」
「柴くんと一緒にいるのよく見たからさ」

うちの学年の有名人、柴大寿。地元の不良集団を束ねてお金を稼いでいるという噂をよく耳にしていた。具体的にどんなやり方をしていたかは知らないが相当危ないことをしていたらしい。

「特攻服?着て夜出歩いてたのも知ってるよ。学校にチクらなかった私に感謝してもらいたいくらい」

といっても当時の私にそんな勇気はない。それに例え言ったとしても学校は私の話を信じてくれなかっただろう。柴君達が遅刻や早退をしていても先生たちは見て見ぬふりをしていたのがその証拠だ。私立校故、世間体を何よりも気にしていたから。

「覚えてんの?」

目の前の信号は赤。今までの丁寧な運転が嘘のようにガクンと揺れて車が止まった。びっくりした、と思っていれば『びっくりした』ココくんと目が合った。急にどうしたのか。脈絡のない話をいきなりしないで欲しい。私はココくんほどの記憶力も良くないし先回りして考えられるほど頭の回転は速くない。

「何を?」
「……何でもねぇ。ほら着いたぞ」

なにその煮え切らない返事は。あまりらしくもない気がする。でも聞き返す雰囲気でもないし車は駐車スペースに入ってしまった。それにこれ以上聞いても「空気も読めねぇのかクラッシャー」と鼻で笑われそうなのでやめておこう。そうして市役所へと向かうココくんの後ろを着いて行った。といっても婚姻届の提出になんら難しいことはない。それよりも私の場合は名義変更に骨を折ることになるだろう。今日は時間がなく全てを行うことはできないが免許証も銀行口座の名前も変えなければ。改めて考えると結婚って面倒くさいな。

「ではこちらで手続きが完了になります」
「ありがとうございました」

一先ず婚姻届の受理がなされ席を立つ。さて、これで夫婦となったわけだが全くもって自覚も生まれない。精々、今後本名を書くとき苗字を気を付けなければと思う程度だ。

「あの、もしよければ新婚の記念にあちらでお写真はどうですか?」

すぐに帰ろうとした私達を、書類手続きをしてくれた女性職員が呼び止めた。彼女としては気を利かせて言ってくれたのだろう。晩婚化が進む中、私達はまだ若い夫婦の分類に入る。それならば目一杯祝ってあげようという最大限の気遣いであったかもしれない。でも生憎写真は苦手だ。上手く笑えた試しがない。だからココくんの意見を聞く前に私は口を開いた。

「「結構です」」

〇・一コンマのずれもなく私達の声は重なった。思わず隣のココくんを見上げたらこれまた同時に目が合った。あー……なんだろ。いま少しだけ夫婦になったなって思ったかも。何がとは言えないが。



同じ家に住んでも籍を入れても私達の間に大きな変化はなかった。それはやはり生活リズムが違うからであろう。私とココくんが顔を合わせること自体珍しい。先日も私が寝ようとしたら帰ってきて、「お疲れ様」と「おやすみ」を同時に言ったくらいだった。



「いやぁぁ!」
「イッテェ⁈」

だからこそ休日の朝にキッチンで顔を合わせるとは思わなくて。冷蔵庫の影から現れたココくんにピッチャー並に振りかぶって生卵を投げつけてしまった。そしてそれは当然の如くデッドボールだ。

「えっうそ⁈ごめん!」
「マジで何なんだよ……」
「急に出てきたから幽霊かと思って」
「ンなわけねぇだろ。あースゲェベタベタする」

おでこのところに当たったのか少し赤くなっていた。そして髪にまで黄身と殻が飛び散っている。私はもう一度ココくんに謝ってキッチンペーパーを渡した。しかしそれでベタつきまで落ちることはなく「シャワーを浴びてくる」と静かに言われた。

「本当にごめん!お詫びにココくんの朝食も作るから!」
「オマエ料理できんの……?」
「はい?」

ココくんが心底驚いたようにこちらを見た。だから私はもう一度言えとばかりに、はいぃ?と圧強めに聞き返した。

「言っとくけど電子レンジは一台しかないからな」

どうやら中学時代のことを言っているようだ。全く昔のことをねちねちねちねち言わないで欲しい。あれから十年以上経っているのだ。いつまでもあの時の私でいると思うなよ。

「残念だけど今から作るのはオムレツだから電子レンジは使わないかな」
「これ、IHっつう電気コンロだが上にフライパン置かないと使えないからな。直に卵割ってもオムレツは作れねぇよ」
「そんなの分かってます!ココくんは早くシャワー浴びてきなよ!」

ここでの気遣い程癪に障ることはない。小姑のように煩くなってしまったココくんをバスルームへと追いやり、三十分は出てくるなと念押ししてドアを閉めた。こうなったら実際に料理を作り見返すしかない。食材を買い足す為に財布片手に家を出る。外は結構な大雨だったがこのマンションにはスーパーが併設されているため問題はなかった。

そうして必要な物を買い込み広々としたキッチンで料理を始めた。クラッシャーと呼ばれていたあの頃とは違う。目にもの見せてやるぜ!と張り切った結果、随分と作り過ぎてしまった。

「なんか良い匂いする」

おおよそ三十分後、上下ラフなスウェットに着替えたココくんがリビングに姿を現した。そして一直線にダイニングテーブルへと歩いていく。そこには白い湯気の立つスープやほうれん草のソテー、アボカドとささみのサラダ、フルーツのヨーグルト和え、プレーンオムレツなどが並べられている。「美味そう」とぽつりと言ったココくんに、私は勝利を確信した。

「どう?中々やるでしょ」

焼き上がったばかりのパンケーキを置いて朝食は完成。簡単にできるものではあるが朝食でここまで手を込んだものを作ったのは初めてかも知れない。

「感動した」
「もっと褒めてくれていいけど」
「それは食ってからな」

ちゃっかりしてますね。まぁココくんの為に作ったから食べてもらわないと困るんだけどさ。そして自分も席に着こうとしたところでケチャップを忘れていたことを思い出す。あとでオムレツに掛けようとして忘れたのだ。

「おい、待て」
「え?」

自分のオムレツには花丸を書いた。そしてココくんのものにはスマイルマークでも書いてあげようかとしたところで手が掴まれた。

「オレは何もつけなくていい」
「塩くらいしか味付けしてないよ?」
「プレーンオムレツなんだからそれで十分だろ」
「そっか。ごめん」

自分が掛けるからつい癖でそうしてしまった。素直に謝ればココくんは特に気分を害したわけでもなく「早く食おうぜ」と席に着いた。

「このほうれん草美味い」
「あぁ、それはコーン缶の汁も入れてるの」
「なんかこれ辛くね?」
「山葵醤油で和えたからかな。苦手だった?」
「いや。初めて口にした味だったから気になっただけ」
「うん。……あのさ、そんなにお腹空いてたの?」
「あ?」

あっという間にココくんの前の料理が半分もなくなってしまった。寧ろ余るくらいを想定してたんだけど。もしかして無理して食べているのだろうか。しかしそういうわけではないらしい。

「あー……オレよく食うから」
「本職はフードファイターだったりする?」
「ちげぇよ。燃費が悪いだけ」

細い体によく入る。でも残されるよりはマシなので食べてくれるのは嬉しい。私はいつまで経っても二人分の食事を作るのに慣れなかったから。

「ごちそうさん」
「ご馳走様でした。さて、私に何か言うことは?」
「まぁ……見直した」

ふふん、やったね。でも私もココくんのこと見直しちゃった。だって一つ一つ味の感想言ってくれたんだよ。よかったところも悪かったところも言ってくれた。それなら次はもっと良いもの作れそう、今日の夕飯は何にしようか。

「素敵なお嫁さんを迎えられてよかったねココくん」
「言っとくけどオマエも『ココ』だからな」
「あっそうだった」

なぁんて新妻だったら考えたのかもしれない。でもやっぱり私達は夫婦≠ナはないわけで。だからこその「ココくん」呼び。必要な時以外は私達のままで何も変わらない。それはココくんも分かってる。だからこそ、この会話はこれ以上続かなかった。

食器の片づけはココくんがやってくれた。と言っても備え付けの食器洗浄機があるので軽く濯いで入れるだけ。それでも男性が自分から家事をしてくれたことに私は感動を覚えた。

「オマエも飲むか?」

テーブルの上を拭いていたらキッチンの奥から声を掛けられる。視線を向ければココくんがコーヒーメーカーの準備をしていた。それは私がずっと気にはなってはいたが使い方が分からず触れられなかったものだ。エスプレッソやカフェラテまでもできるマシーンなんて職場にすらないのだから。本当にこの家は何もかもが恵まれている。

「うん。それじゃあ、」

そのとき、フッと前の家での出来事を思い出した。あの家では焙煎してある豆をひいてドリップする程度だったけど彼は私の淹れたコーヒーだけは何も入れずに飲んでくれた。本当はコーヒー自体、苦手なくせに。別に今さら後悔なんてない。だけど私ももう少し彼に歩み寄れていたら未来は変わったのかと考える。事実、私はあの現場を見るまで彼の変化に何一つ気付けなかった。

「お砂糖入りのカプチーノで」

彼の好きだったものを私は初めて口にする。

「ブラックじゃないの珍しいな」

都内の空は分厚い雲に覆われている。今日は一日中雨で昼頃にかけて暴風域に入るらしい。しかしこの家の窓ガラスには防音効果もあるのか雨音一つ聞こえない。それが少しだけ寂しかった。
「今日は雨が降ってるから」

甘ったるい灰色に濁ったその味を。私が知るには遅過ぎた。


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