どうも、九井のパシリになります


この日ばかりはあの人を恨まずにはいられなかった。

新宿歌舞伎町——
ドギツイネオンが光る看板に煙草と香水の匂いが入り混じる。路地裏を歩く男女の大半はキャバ嬢とその客で彼等は一夜限りの夢を見る。キャッチのお兄さんを縫うように避け進み、地面に転がった酔っぱらいを飛び越えた。止まらないし振り返らない。私はただひたすらに夜を駆ける。

「その女を逃がすな!梵天の居場所を吐かせる!」

後ろからはどう見たって堅気ではない男が三人追いかけてきていた。申し訳ないと思いつつも彼らを巻くため店の前に置かれていたスナックの看板を蹴り倒す。大きな看板ではないがこの細い道では十分な障害物になりえた。

「っ蘭さん!竜胆さん!今どこにいますか⁈」

一先ず男たちを巻けたことを確認しインカムに向かって声を掛ける。念のため護衛を連れて行けと言われていたので灰谷兄弟にお願いしたのだ。しかし今まさにピンチだというのにその姿がない。

『ラーメン食ってる』
『兄ちゃんだけ替え玉頼むのずるくない⁉』

そして返ってきた言葉がこれである。だからこの人たちに頼むのは嫌だったのだ。でも一番頼りになる鶴蝶さんは不在、望月さんとは面識がないため頼めず、三途さんは色々と論外なので消去法でこの人たちしか残らなかった。因みに私が頼んだのはまだまともそうな竜胆さんの方だったけれど蘭さんも当然の如く着いてきた。

「おい見つかったか⁉」

先ほどの男の声が聞こえる。しかし集まっている人数は三人よりも増えていた。

「っ…⁉」

場所を移動しようとしたところでパンプスの踵が折れていることに気が付いた。こんな時に限って、と思わず唇をかみしめたがお値段一九八〇円の割には良くもった方である。
一度抱えていたアタッシュケースを脇に置き、靴を脱ぐ。折れたのは右だけだったが走りにくそうなので両方とも脱いで近くのごみ箱に捨てた。改めて自分の姿を確認すればスカートの端は裂けているし髪をまとめていたバレッタもなくなっていた。どれも年季のいった代物ではあったがまさかここで失うことになるとは。これは経費で落ちない、よね……

「向こうは探したか?」

このまま愚痴っているわけにもいかないのでアタッシュケースを抱え立ち上がった。この辺りの地理は頭に入っている。大通りまで出てタクシーに乗るのが一番生き延びられる確率が高いだろう。もう灰谷兄弟は当てにならないので。
時折、石やガラス片を踏み足裏に激痛が走るが捕まれば拷問待ったなしなので懸命に走る。それにこのアタッシュケースを無事に運び届けなければ拷問以上のことを受けるので結局答えは一つしかなかった。

「見つけたぞ‼」

車の音と赤青黄の信号機の光が見えた。大通りまで三十メートルもないというのに、ここに来て道が阻まれる。目の前の大柄な男を見て後ずさりするもすでに後ろにも道がなかった。

「首領の居場所を教えろ」

背後には仲間と思われる男が十人ほどいる。このアタッシュケースが目的でないとなると、先述の言葉通り梵天が目的らしい。それにしてもなぜ今日の取引場所を知っていたのだろうか。次々と湧き出るお仲間といい、随分と準備が良すぎるように思える。

「知りません」

そんな怪しくも恐ろしい連中に口を割るつもりはない。まぁそもそも梵天の首領の顔も名前も知らないが。
ガンッ——と店の室外機が蹴り飛ばされ火花を放ってショートする。私はその男を見てもう一度、知らないと言った。こんなことにビビるほど私はもうW一般人Wでもない。それにこの程度の破壊など三途さんがラリって室内で拳銃ぶっぱしたときに比べれば可愛いものだった。

「女だからって優しくしてもらえると思うなよ」

この世界に女も男も、大人も子供もないことはとっくに知っている。未成年の私にすら彼らは情けを掛けてくれなかった。だから私はクスリに溺れ金を返せなくなった父親に代わりに彼らの元で仕事をしている。

「そこを退いてください!」

服に忍ばせていた小瓶を室外機へと投げる。それは決して怪しい薬などではない。蘭さんから貰ったただの香水だ。但しワンナイトした女が意味深に置いていった曰く付きの代物ではある。まさかこんなところで役に立つとは。
香水にはアルコールも混ざっている。そのため発火性のそれが火種に投げ入れられれば当然爆発をする。

「うぉっ⁈」

大きな破裂音とともに火が燃え広がった。
ヤバイ……思ったよりも大事になってしまった。ワンナイト女の念でも籠っていたのだろうか。とにかく燃えている。大通りから外れた場所とはいえ歌舞伎町という街のド真ん中では些か目立つ。人が集まってくるのも、そして警察に通報されるのも時間の問題であろう。

「おー随分と派手にやってんなぁ」
「結構人数いんじゃん!」
「蘭さん、竜胆さん⁉」

私には武術の心得はないので隙を見て逃げるつもりだった。しかし爆発した室外機の煙を身に纏い二人の人物が姿を現したことで状況が変わる。てっきり腹を満たしてそのまま私は見捨てられるのかと思っていたが驚くべきことに来てくれた。少しだけ彼らに対する信頼度が上がった気がする。

「来てくれたんですね!」
「まぁなー腹ごなしにはちょうどいいかなって」

もう理由は何だって言い。戦闘準備に入るためストレッチをしだす竜胆さんにお礼を言う。蘭さんも警棒を取り出しやる気がある。この人数でも灰谷兄弟ならば余裕であろう。二人の足を引っ張ることしかできない私はさっさと逃げさせてもらうことにする。

「おい、これも持ってけ」

大通りへと駆けだそうとすればスカートのポケットに何かがねじ込まれた。先日蘭さんに食べ終わったガムを入れられたことを思い出し慌ててそれを引っ張り出す。ガムの粘着度は意外とあり洗濯してもベタつきが残るのだ。それにこの人たちが私に渡してくるものと言えばほとんどがゴミなので確認しないわけにはいかない。因みに曰く付き香水を貰った時もこんな感じだった。

「またゴミを……って領収書?」
「今日のオマエの護衛代だよ。アイツに渡しとけ」

先ほどのラーメン代だけではなく他の店の領収書もいくつか束になっていた。マジか……これ私の借金に上乗せされないよね?というか護衛というわりに来てくれたの最後だけじゃん。
しかしそんな抗議をしようにもすでに破壊神と化した二人に声は掛けられない。私は領収書をポケットに捻じ込み、再び裸足のまま駆け出した。



「ただいま戻りました……」
「遅い」

足元は裸足で着ていた服だって煤けている。そんなボロ雑巾のような私に向けられた第一声がこれである。労いの言葉すらない。しかし、悲しくもそんな冷酷な男が私の上司であった。

「荷物を持ち帰って来る簡単な仕事だって言ってましたよね?今回の取引相手は長い付き合いだから大丈夫だって」

ペタペタと裸足のまま冷たい床を踏む。そういえば先程確認したが足の裏は切れたりはしていなかった。しかし石が見事に足ツボを突いたようで今も痛い。

「おーでも裏切る兆しがあったから仕掛けてみた」

アタッシュケースを彼の目の前に置けばお礼も言わずに手を着けられる。というか、この人と私は戻ってから一度も目が合っていないような気がするのだが?

「まさにその通りで見知らぬ男連中に追いかけられましたよ」
「そうか。生きててよかったな」

恐らく私の話の半分は聞いていないのだろう。だからこそ、このタイミングで領収書を机の上のトレイにそっと置いた。護衛代の支払いは頼みましたよ。
金にしか頓着のない男の顔を見ながら一応は会話を続けてみる。

「つまり私は囮だったってことですか?」

中身はUSBメモリと現金が三百万ほど入っていた。意外と普通である。それにしても三百万の札束を見ても「寧ろ安い」と思えた自分は随分とこちら側に染まってしまったらしい。

「気付くの遅せぇよ。ま、これでアイツらが他の連中に梵天の情報を売ってたってことが分かったんだ。仕掛けた甲斐はあった」

ようやく目があった彼は細い目をさらに細めて口角を上げた。これが笑っているのだと知ったのはつい最近のことだ。だからといって私はこの人と親しくなろうという気はサラサラない。だって彼は人を駒としてしか見ていないから。

「おい、腹減ったから飯買ってこい」
「はぁ⁉ちょっと待ってくださいよ!」

前言撤回。駒どころの騒ぎじゃない。私のこと便利用家政婦ロボとでも思っているのか?
疲労の体に鞭打って私は叫ぶ。いや、これで終わりじゃないよね?こんな状態になってまで荷物を死守して帰ってきた私にそれだけ?そしてその扱い?

「あ?なんだ」
「いやいやいや、私がこんな姿で戻ってきたんですよ?何かあったのかとか、普通そういう心配しません?」
元よりボロ雑巾みたいな服しか着てなかっただろ」
「ちゃんと服屋で買いましたけど⁈」

日本のファッションブランド、しま○らに謝れ。
確かに彼の着ているお高いスーツに比べればそりゃ全てが劣るだろう。しかしお値段以上の品質なのだ。
ここに来て早二ヶ月、まだまだこの人については分からないことが多い。が、私が彼に怯む事はなかった。いや、正直初対面の印象こそ最悪ではあったがあの場で死を覚悟した分肝が据わったのだ。
不服そうに睨めば男は椅子に座ったまま視線を上げる。私の方が目線は上だというのに彼の方が優位に立っているように見えるのは何故だろうか。まぁきっとその答えの全てが梵天幹部≠ニいう肩書きに乗るのだろうけど。

「オマエ自分の立場分かってんのか?言ってみろよ」

鼻で笑い、私に問う。
このやり取りは出会った頃によく似ている。

「パワハラ上司に飼い殺される犬です」

でも以前と少し違うのは私が梵天での自分の価値を見いだせた点だ。利益になる人間だと証明できたことで扱いも僅かに変わった。ほんの僅かだけれど。

「六十点」
「意外と高得点じゃないですか」

嫌みと屁理屈を会話の中で多少は吐く。でないとこの人の下ではストレスによる死が待っているので。

「その無駄に動く口切り裂いてやろうか?」
「ご飯でしたっけ?すぐに買ってきますね」

だが引き際はわきまえている。でないと本当に殺されるので。

部屋を出る直前、裸足で外は歩けないと思いそこら辺に脱ぎ捨てられていたサンダルを履く。随分と履き古されたものではあるけれど履ければなんだって構わなかった。
煤けたシャツに裂けたスカート、足元はサンダルで髪はボサボサ。そうは分かっていたものの、外に出ればすれ違う人がチラチラとこちらを見ていたので相当ヤバイ恰好をしているのだと改めて自覚する。だからコンビニに行く前にドンキで服を調達することにした。

「何やってんだオマエ」
「戻ったんじゃねぇのかよ?」
「わぁ!…うぐっ⁉」

激安シャツを物色していれば後ろから首を絞められた。向こうとしては単に腕を回しているつもりなのだろうけれど如何せん腕が長いのだ。そして力が強い。

「らん、さ…死ぬっ!」
「ダッセぇシャツたくさん売ってんなぁ」
「見てよ兄貴、この『テメェの頭はハッピーセットかよ』ってシャツ、さっきの奴らに着せてやりたくね?」

だがしかし私の声は届かない。それにしてももう灰谷兄弟のお戻りとは随分と仕事が早い。さすがである。私はあの人とは違い、ちゃんとお礼を言える人間なのでそれを伝えたいところではあるのだが首が絞まりそれができない。というかこのままだとマジで死ぬ。

「〜〜〜〜っ!」
「あ、悪りぃ」
「ゲホゲホッ…!死ぬかと思った……お二人ともお疲れ様です。先ほどはありがとうございました。怪我とかはありませんか?」

首元を擦りながら二人を改めてみるがかすり傷一つなかった。しかし服は中々に血で汚れている。相手の人間がどうなったかはきっと明日のニュースで知ることになるだろう。

「あるわけねぇだろ」
「オレと兄貴があんな雑魚に負けるわけねぇじゃん」

ですよねー。脳内ではそう思いつつももう一度お礼を言う。そうすれば蘭さんに頭を撫でまわされた。すでに髪はボサボサであったのでそれを甘んじて受け入れておく。そうしたら「仲間外れにすんなよ!」と言って竜胆さんも手を伸ばしてきた。彼等の大きな手では私の頭は鷲掴み状態である。頭ポンポンなどという可愛いものではなく首から頭が取れそうなほどに撫でまわされた。

「それにしてもオマエここで何やってんの?」

ようやく解放されるが頭がぐぁんぐぁんする。酔っぱらったときのような感覚だ。しかしまだ未成年である自分はお酒など飲んだことはないのでその感覚も想像によるものだった。

「えーっと…ご飯を買ってこいと言われたのですがその前に服を買おうと思って。こんな格好ですし」
「ふぅん。じゃあオレ等も買うか」
「え⁉マジで言ってんの⁈」

ということで三人でシャツを物色することになった。そしてなんとそのシャツを竜胆さんがまとめて買ってくれたのだ。「兄貴の分買うついでだから」なんて言ってたけどここで出費を抑えられたのは個人的に大きい。泣いてお礼を言った。

「オマエさ、着るモンに頓着ないわけ?」

ドンキに手作り総菜も売っていたためそれを買い占め店を出た。コンビニまで行く手間も省けてなによりである。そうしてお会計中の竜胆さんを待っていれば蘭さんからそんなことを聞かれてしまった。

「まぁお洒落するのは嫌いじゃないですが今はお金を貯めないといけないので着られれば何でもいいです」

父の借金自体、大した額ではなかった。ただその相手が梵天であり、そこにえげつない金利も乗せられるものだから膨れ上がったのだ。そして今も金利は乗せられていくのだから一刻も早く返済したい。

「勿体ねぇ」
「は、……」

顎を掴まれ、上を向かされた。喉元の刺青を辿り、蘭さんの目と視線がぴったり合う。いつもは猟奇的に警棒を振り回している姿しか印象がないが改めて見るとかなりかっこいい。それに大人の色気だってあった。

「ちゃんとすりゃあその辺のキャバ嬢よりも美人だろうに」

その瞳に思わず吸い込まれそうになるがこの人達は私で遊ぶのが趣味のようなものなのでまともに相手をしてはいけない。

「キャバ嬢ですか。ナンバーワンになれますかね?」
「精々七位だな」
「いきなり現実見せつけてきますねぇ」

でも意外と高いですね〜なんて付け加えてへらへらと受け流す。しかしそれが蘭さんから見たら面白くなかったらしい。腕を掴まれ向かい合わせにさせられた。思わず手に持っていた荷物を落す。あ、今の衝撃でパンが潰れたかもしれない。あの人は良く食べるから弁当以外にもパンやカップスープなども買ったのだ。

「一晩ごとに百万払うっつったらオマエはオレに抱かれるか?」
「いやぁないですね」

やんわりと、しかし速攻でお断りの返事をした。いくらお金を積まれても、そういうことはやりたくない。だからこそ私はそれよりも厳しい茨の道を選んだのだ。

「は、ひっ…いひゃい!」
「はぁあ?クソ生意気だわ」

しかし蘭さんからの誘いをお断りしたことで頬っぺたを思いっきり抓られた。茨を踏むより痛い。というかさっきのだって私の事おちょくってるだけでしょう?

「いッ〜〜!」
「おーおーその不細工な顔にチューしてやろうか?」
「いやだぁ!」
「ちょっと何やってんの⁉」

竜胆さんが戻ってきたことでようやく解放される。しかし安堵したのも束の間「仲間外れにすんなよ!」と言って竜胆さんも手を伸ばしてきた。まさかの TAKE2、しかもその発言さっきも聞いたわ。

「兄貴とばっか仲良くするなよな!」

竜胆さんにはそう言われたけど、仲良くもなければ贔屓もしていない。それにどちらといえばまだ落ち着いて話ができる竜胆さんの方が好感度高いです。
しかし当然それを言うこともできずにされるがまま耐える。
そうして二人の気が済んだところで、お手て繋いで仲良く帰った。

「おい、なんだそのフザケた服は」

灰谷兄弟には「お疲れさん」と迎え入れていたのに私に向けてはこの言葉。だからこそ、貴方にこの言葉を送りたい。

「シャツ汚れてたんで買ってもらいました」

『パワハラ、ダメ、ゼッタイ!』そう印字されたシャツを見て彼は瞬きを繰り返していた。せめてもの私の抗議である。『労働はクソ』Tシャツと迷ったが灰谷兄弟の勧めもあり結局こちらにした。

「ボロ雑巾のがマシだな」
「蘭さん達もいいって言ってくれたんですけど」
「オレは言ってねー竜胆がそう言った」
「はぁ⁈兄貴だってノリノリでダサT選んでたじゃん!」

ここにきてまさかの裏切り。二人は私達のやり取りなど興味がないのか買ってきたお酒を開けていた。因みに二人はVネックの単色Tシャツを選んでいた。あれだけ騒いでいたわりに文字入りを選ばなかったところを見るとやはりこれはダサいのだろうか。

「二度とそれ着てくんじゃねぇぞ」
「えっ着るものなくなったんで明日も着てこようと思ってたんですけど」
「や め ろ」

食費と衣類は最低限でいいと考える私にとってはシャツ一枚すら痛い出費なのだ。

「はぁ……じゃあ別の服探しますよ」
「文字入りはやめろ」
「私の服にまで口出すなんて。皆さん好きな服を着てるのに」

彼然り、灰谷兄弟も他の人達も服は自由だ。概ねスーツを着ている人が多いが、ジャージだったりレイザージャケットだったり縛りはない。まぁ集会ともなると皆スーツだが。

「おい、」

空気がピリ付くのがわかった。背後で騒いでいだ灰谷兄弟の話し声も止まる。

「もう一度聞く、オマエ自分の立場分かってんのか?」

肝は座っているが、やはり簡単には死にたくない。生まれた先を間違えた分、死に方くらいは自分で決めようとあの日に決意したのだから。

「お金を稼ぐ為にここにいます」

この世の全ては金で回る、それが貴方の好きな言葉でしたね。

「オマエにできることは?」

彼の引き出し、上から二段目底板の下には銃がある。右手がここからでは見えないが恐らくそれを持っているのだろう。

「お使い、受け子、株式投資です」  

言葉を選んで慎重に。一つでも踏み間違えればきっと私はお陀仏だ。

「もっとあるだろ?」

一般普通の人には出来ないことが私はできる。それは決して公にして褒められたものではない。

「プロバイダーの改ざん、コンピュータウイルスの作成……それとハッキング」

それを買われ、私はここにいる。

「そうだな」と言った言葉にようやく百点満点の回答ができたのだと分かる。その表情は笑っているけれど瞳の奥はこの床よりも冷たい温度をしていた。

「オレが金を生み出す男なら、オマエは金を消せる女だ」

口座に貯蓄されている金はもちろん、今や仮想通貨が当たり前の時代。ネット環境さえあれば、その金を痕跡も残さず消すことも移動させることもできる。

「これからも稼ぎますよ。そういうお約束ですから」

目の前の彼は私を救った男であり、私を手駒にした男。
ハッ、と鼻で笑った男の髪が揺れる。
細い眉に吊り上がった目、左の刈り上げの一部には灰谷兄弟と同じ長細い刺青が入っている。彼の外見も、仕草も、小馬鹿にしたような言い回しにももう慣れた。

「オレのパシリとして、これからも頑張んな」

目の前の男——九井一はそう言って笑った。
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