どうも、九井の秘書になります


梵天——日本最大と言われる犯罪組織のこと。賭博・詐欺・売春・殺人のどんな犯罪も裏には梵天がいると言われるが、警察でもその内容を把握できていない。

そんな組織で金回りの管理を一任されているのが私の上司(雇用主、飼い主ともいう)が九井一という男である。私の梵天での主な仕事は情報のハッキング、架空口座の開設、フィッシング詐欺のダイレクトメールの作成など。それは全て九井さんの指示で行っており、今では梵天の収入源の一つとなっていた。



「おい、潜り込めたか?」
「お、重い……」

私が普段いる場所は雑居ビルのワンフロア。ビルの外観こそ昭和のそれだが中はリフォーム済みでセキュリティも申し分ないところ。いくつかある梵天アジトの中でも中枢部を担っている重要な場所である。そんな場所の一室が私の作業部屋だ。そしてモニターとキーボードにより三方を囲まれた私の頭には男の腕が乗っかっていた。

「んだよ、全然進んでねぇじゃん」
「すぐに潜り込めたらセキュリティの意味がないでしょう?相手だってそれなりの対策してるんですよ」

そして今は横浜に拠点を置く組織の内部データのハッキングを依頼されている。どうやら梵天のシマで幅を利かせ始めているらしく裏を取りたいらしい。

「前はもっと早かったろ」
「今回はそれだけ危ない相手なんですよ……それといい加減腕退けてもらえません?重いんですけど」

私の頭は肘掛けではないと何度も言っているのにこの癖は直らない。最近では注意することも面倒くさくなって諦めていたのだが四時間ずっと椅子に座りっぱなしの体には些か堪えた。
軽く腕を叩けば意外にもあっさりと解放された。ようやく楽になり、コリを解すため首をぐるぐると回す。

「あとどれくらいだ?」
「もう少し……あ、いけそう……出来た!」

ウインドウが赤から緑に変わりポーンというロック解除の音が鳴る。そうすればモニターにはデータファイルが一気に表示された。

「よくやった。確認するから退け」
「はいはい」

回転式の椅子を回され場所を代われとばかりに立たされる。相変わらず人使いが荒い。だが褒められただけマシだろうか。褒めて伸びるタイプの人間なのでもっと言って欲しいくらいだ。

「そこの弁当は食っていいぞ」
「えっ本当ですか?ありがとうございます!」

まさかのご褒美に思わずトキメク。しかもコンビニ弁当ではなくデパ地下で売られているような高級そうな牛タン弁当。これも先日のダサTのおかげなのだろか。どちらにせよ有難く頂かせてもらう。

「なにか目ぼしい情報ありました?」

部屋の隅のパイプ椅子に腰掛けながら牛タンを口へと放り込む。冷めた弁当ではあるが油っぽくなくて美味しい。これは絶対高いやつだ。

「あぁ、これは首領ボスに報告案件だな」
「そういえば梵天の首領ってどんな人なんですか?」

これは私の単純な疑問だった。私が知っている情報といえば白髪の男で通称「無敵のマイキー」と呼ばれていることくらい。一度、ここに来てすぐの頃に梵天内の情報を一通り見漁ったが本名も顔も分からなかった。

「何?興味あるわけ?」
「まぁ少しだけ……」

大方情報を見終えたのかくるりと椅子を回した九井さんと目が合う。どうやら私に下心がないのか確認しているようだった。九井さんは梵天幹部の中でも警戒心が一等高いからそれは当然のこととも言えた。
別にこちらとしても無理に聞くつもりはないので、無理ならいいですと付け加えた。どうせ借金がなくなれば関わらなくなるのだから。たぶん……しかし、私に裏がないと分かったらしく九井さんは天井を見上げて口を開いた。

「天上天下唯我独尊、冷酷卑劣な男だよ。裏切り者はオレらであろうとスクラップ。人の十人や二十人、簡単にこの世から消せる」
「おっかないですね」

さすがは梵天の首領。きっと筋骨隆々の熊みたいな男に違いない。まぁ私がその人と会うことはなさそうだけど。

「それより食い切ったか?」
「はい。これめっちゃくちゃ美味しかったです!ありがとうございました!」

そこで九井さんが怪しく笑ったことで背筋に冷や汗が伝った。タダより高いものはない——そんな言葉を思い出したところでもう遅かった。
席を立ち上がった九井さんが目の前まで近付いてくる。その様子を黙って見ていれば顎を掴まれ上を向かされた。

「地味だなぁ」
「え……だからなんですか?」

突拍子もない台詞に目を白黒させる。しかし事実、化粧はしているものの必要最小限の超ナチュラルメイク。服は大抵黒か白しか着ないのでそりゃあ地味だろう。というかどうせここへ来ても部屋に篭っての作業しかないし、外に出たとしてもこの前みたいにひどい有様になるのでこれくらいでいいのだ。

「だが元はそんなに悪くねぇ」
「はぁ」

貶されているのか褒められているのか。先日の蘭さんの言葉を借りて、キャバ嬢になれますかね?なんてふざけて言えば「ならオレの店で働くか?」と聞かれたので全力で首を横に振っておいた。この人ならマジでやりかねるので。

「今日の夜、他の組織を交えたパーティーがある。オマエも着いてこい」

そういえば今夜大きな集まりがあるって言ってたっけ。すでに大きな組織ではあるが、まだまだ裏社会では新参者の部類である。そのためにこういった集まりにはマメに顔を出しているのだとか。とはいえ何故私も行かねばならないのか。

「なんで私が……」
「弁当食ったろ」

やはり善意での差し入れじゃなかったか。しかし、今更文句を言ったところで牛タンはすでに胃の中である。頷くしかなかった。

「そのパーティーに行ったら手当てって付きます?」

しかしこちらとて弁当一つで黙っている女ではない。私の給料は歩合制だ。その中で借金の返済をしている。一見、ハッキングできるなら個人で稼いで返済した方が早いと考える人もいるかもしれない。しかし、それなりの額を稼ぐとなると設備投資も大切になってくる。そう考えると九井さんが揃えてくれたこの部屋のようなコンピュータと環境が必要なのだ。故に、多少こちらに不利であることだと分かりつつも九井さんの下にいた方が稼げる。だから私は自ら選んでここに来た。

「オマエの頑張り次第」
「うわっ都合のいい言葉」
「早く立て。すぐに出るぞ」
「えー……」

ブーブーと文句を垂れるも半ば引き摺られるように部屋から連れ出される。内勤者のくせして意外と力がある。そしてあっという間に九井さんの車に乗せられてしまった。



そうして連れて行かれた先は代官山の美容室だった。美容室というかサロンって感じ。一人で行けと言われたら絶対に気後れしてしまうようなお店だ。
九井さんが通っている場所なのだろうか。店員さんと親しげに話しをしていた。そして時折、ソファで待っている私を見ては鼻で笑っている。どうせ「あの芋女どうにかして」と言っているに違いない。

「おい、芋女。綺麗にしてもらえ」

予想は的中。何も嬉しくない。
そして店員さんに促されるままカット台まで連れて行かれた。
髪を切り、染めてもらい、ヘアセットまでしてもらう。ここまで丁寧な施術を受けたのは久しぶりだ。タダでここまでしてもらえるならパーティーに着いていくのも悪くないかもしれない。

そして時折、九井さんが顔を出し指示を出していた。色見とか長さとか。生憎、私にお洒落のセンスは皆無なので勝手にやってもらえるなら有難い。そしてそのままメイクとネイルもやってもらった。特にネイルなんて初めてだったからテンションも上がる。タイピングしにくくなるので付け爪はやめてもらったが十分可愛い。



「お待たせしました」

メイクをしてもらっている間、九井さんは店の隅のスペースで仕事をしていた。とはいえ待っていてくれたことに驚いた。

「…………」

九井さんの元に行けば瞬きを繰り返された。服は変わっていないが個人的にはかなりの大変身を遂げられた気がする。毒舌の九井さんもきっと褒めてくれると思ったのにまさかの無言だ。

「九井さん、どうですかね?」
「…あぁ、悪かねぇよ。ようやく人並みだな」
「もっと褒めてくださいよ」
「可愛い、可愛い」

遇らわれた気がしなくもないがあの九井さんに褒められたとなれば私も嬉しい。
しかし、へらへら笑っていたら「その顔でキモい笑い方すんな」と小突かれた。私は私なのにひどい。

「次はそのダサい服なんとかするぞ」

お会計はすでに済ませていたのか足早に店を後にする。その流れるようなスムーズさに感動すら覚えた。だから車が発進した時点で私は気になったことを聞いてみた。

「九井さんは彼女とかいらっしゃるんですか?」

梵天の首領を知る前に、私は九井さんのことについてもっと知るべきなのかもしれない。九井さんがとても頭のキレる人というのは知っているがプライベートなことは一切知らなかった。

「あぁ?」

九井さんの車は外車だ。左ハンドルなのに右折も難なくこなせてすごい。信号停止の車間距離もバッチリだ。そんな単純なことにもテンションが上がってしまった私は今の姿に相当満足しているらしい。

「今日は質問が多いな」
「エスコートしなれてるなって思って。興味が湧いたんです」

信号が青になりゆっくりと車体が動き出す。答えてくれるだろうかと横顔をガン見してたら「こっち見んな」と怒られる。しょうがないので座り直して正面を向いた。

「いねぇよ」

ふぅん。まぁ、常に忙しくしているし恋人に割く時間も惜しかったりするのだろうか。

「モテそうなのに」

見た目はちょっと怖いけど中身は案外まともな人なのだ。あそこにいるとまともか、まともでないかが指標になってしまうが九井さんは仕事もできるのでアリだと思う。まぁ毒ばかり吐かれている私からしたら恋愛対象からは外れるが。

「ハッ!オレが金を持ってるからか?」

そろそろ適当に受け流される頃かなぁなんて思っていたけれど、返ってきた言葉は思いの外冷たいものだった。それもどこか自虐的というか、自分で自分を嘲笑っている感じのもの。

「お金?まぁプレゼントを送られて喜ぶ女性はいると思いますが……」

何か地雷でも踏んでしまったのだろうか。明らかに機嫌が悪くなる。こっそり横から盗み見るも九井さんは前を向いたままだった。

「オレに集まってくる奴はシンプルだ。金、金、金…みんなそれが目当てなんだよ」

本当にそうなのだろうか。梵天メンバーは確かにビジネス上の関係だからそうかもしれないけれど古くからの友達とかは違うのではないだろうか。

「そんなものですかね?」

私は九井さんの交友関係を知らないので下手のことは言いたくない。そして無責任なことも。でも、少なからず九井さんに同情した。それは信頼できる人がいないからではなく、そのような考えしかできなくなったことについてだ。

「ガキには分かんねぇよ」

都合のいい時だけ子供扱いか。まぁ私と九井さんこそビジネス上の関係しかないから別にいいけど。
険悪なままドライブを終え、銀座の脇道で車が停まる。そして外へ出るよう促された。

「今からこの店に行け、店員には話ししてあっから。それとこれ」

歩道の運転席側に回り込めば店の名刺とタブレットが手渡される。名刺には私でも分かるブランドショップとその店長さんの名前が書かれていた。

「その格好何とかしてもらえ」
「えっ私一人で行くんですか?」
「店員には話ししてあるっつったろ。それにオレも暇じゃねぇ」

いやまぁ確かにそうなのだろうけど連れてきたんなら最後まで責任は取ってほしいところではある。

「分かりましたよ……で、こっちは?」

渡されたタブレットを指す。先程、美容室で九井さんが見ていたものだ。私も触ったことがあるのでパスワードは知っている。

「参加者の名簿がある。パーティーまでに全員の顔と名前覚えとけ」
「は?」
「時間になったら迎え寄越すからその車に乗れ。じゃあまたな」
「ちょっとぉ⁈」

私の呼び掛け虚しく窓を閉められ車はあっという間に走り去ってしまった。当然追いかける気もなく、仕方なしにタブレットのパスワードを解除する。そうしてファイルを確認すれば三百人ほどの顔写真付きのデータが収められていた。

「マジか……」

これは相応のボーナスを貰わなければ割に合わない。後で直談判してやるからな。
下唇を噛み締め、一先ず紹介されたショップへと向かうことにした。



パーティーというからどこかのホテルでやるのかと思いきや、連れて来られた場所はジャズバーであった。入口こそ小さく分かりづらいが中のホールはかなり広い。吹き抜けのフロアからは二階席も見える。薄暗い店内の四隅にはカウンター席も設けられ、そこではお酒や食事が振る舞われていた。

「君は?どこの組のモン?」

九井さんは先に来ているらしい。中に入り姿を探していればギトギトに髪を固めた男に声を掛けられた。口裂け女でなくとも卒倒したくなるポマードの臭いがすごい。このポマード男は品川でクスリの売人をしている人物である。初対面ではあるが名簿を丸暗記してきた私に死角はない。

「梵天です」
「君みたいな可愛い子が?」

おぉ全身コーディネートしてもらった成果が出ているらしい。髪色に合うワンピースは店長さんの一押しだ。そしてバックや靴、小物も一つ一つ私に合いそうなものを選んでくれた。
そしてこの格好は相当男ウケがいいらしい。時間になるまで近くのカフェで待っていたら五人くらいの人に声を掛けられた。人生初のナンパというものに驚いたが三百人の名簿を覚えるのに必死で全員無視した。

「本当ですよ」
「またまたぁ」

男の手がするりと伸ばされ腰を抱かれる。その行為に思わず固まってしまった。こういったことへの免疫は全くないのだ。

「あの……」
「どうせ呼ばれたキャストだろ?ならオレの相手しろよ」

違う違う違う。頭の中ではそう否定するがすっかり委縮した私はその腕を振りほどくことすらできなかった。しかしこんな男の相手をしている暇はない。連れていかれそうになるのを何とか踏み止まり、最低限の抵抗はする。

「ここで人と待ち合わせをしてるんです。放してください!」
「こんな素敵なお嬢さんを待たせるなんて碌な人間じゃないだろ。いいから早く……」
「よぉ、粗悪なブツは売れてるか?」

後ろから引き寄せられた反動で男の腕が解かれた。鼻についたポマードの臭いはかき消され、今では嗅ぎ慣れた香水が鼻を抜ける。気付けば背後から抱え込まれるように腕が回されており視界に白スーツが映った。顔を僅かに上げれば揺れるピアスと頭の刺青が見え、待ち人なのだと確信する。

「梵天の九井⁈」
「三途がオマエのこと目ェつけてたぞ。次会ったらブッ殺すっつってたから早く身を引いた方が己の為だな」
「し、失礼します……!」

来たばかりであろうに、男は真っ青な顔して走り去っていった。改めて梵天の怖さを知る。正しくは梵天ではなく三途さんに恐れてかもしれないけれど。

「九井さん!よかったぁ来てくれて」

非常に嫌な思いはしたが九井さんと出会えてよかった。改めて助けてもらったことにお礼を言えば面倒くさそうに溜息をつかれた。いやはや、本当に申し訳ない。

「ったくオマエは……」
「すみません、ああいう風に絡まれたのは初めてで」

そこでようやく九井さんと目が合い全身をチェックされる。そういえばヘアメイクの時は逐一チェックされたが服は勝手に決めてよかったのだろうか。

「悪くねぇじゃねぇか」

少し不安ではあったがお褒めの言葉を頂けた。正確には褒められていないが九井さんからの言葉と思えばこれは及第点以上であろう。

「本当ですか?」
「馬子にも衣装だな」
「素直に褒めてくれていいのにー」
「調子乗んな。ただ、露出は多いな」

そうだろうか?スカートの丈は膝上ではあるがそこまで短くもない。デコルテは大きく開かれており、まぁ谷間が見えなくもないがこれくらい許容範囲であろう。

「店長さんも綺麗に見えるよって言ってくれたんですけど」
「貧相な胸を見せんなって言ってんだよ」
「はぁぁ?」

胸はそこそこある方ですけど?九井さんは顔より乳のデカさで女を選ぶタイプなのだろうか。そんな情報知りたくなかった。あと普通に腹立つ。

「見せつけられる男の身にもなれってこった。今夜はオレの側から離れんなよ」

背後から飛び膝蹴りを喰らわせてやりたい。そう思いながら睨んでいれば「返事は?」と圧を掛けられる。小姑かよ。渋々、ハイハイなんて返事をすればデコピンを喰らわされた。結構痛い。おでこに風穴が空くかと思った。



「あの左にいる男は誰だ?」
「広瀬一家若衆、田頭直人です」
「広瀬……尾道仁涯町で幅利かせてるっていう」
「そうです。構成人数五人ほどの小さな組織ではありますが顔は広いです。繋がりを持っても損はないかと」
「よし、行くぞ」

二時間で脳内に叩き込んだ知識を引きずり出す。
そして私と九井さんは今後梵天の利益となりそうな相手に片っ端から話しかけに行った。今日の目的は取引ではなく交友関係を広げることである。いくら都内で名の知れた梵天といえども古くから東京各所を牛耳る組には敵わない。それ故、このような場所で繋がりを作るのだ。

「初めまして。広瀬一家の田頭さん、ですね?梵天の九井と申します」

いつもは人を小馬鹿にしたような話し方しかしないのに、仕事の時はちゃんと敬語になる九井さんにはギャップがある。萌えないけど。しかし社会人未経験者の私はその姿を素直にかっこいいと思った。

「おぉ!あの有名な梵天の幹部さんじゃあないですか!ん?後ろの彼女は?」

そして話し方以外にもいつもと違うことがある。

「オレの秘書になります」
「初めまして」

内心ドヤァアと大きな顔をしながら挨拶をする。パシリから秘書への昇格である。もう言霊は取った。次にパシリと呼ばれたら秘書ですからって言ってやるんだ。あ、痛い。その長い足で私の脛を隠れて蹴るのやめてください。
私の仕事は人物紹介なので挨拶をしたならば他にすることはない。だから後は黙って九井さんの会話を聞いてればいい。

「なぁ、君はアイツの秘書なんだな?」

そのはずだったのだが横からゴリラ顔の男に話しかけられた。田頭と同じ一家の松永という男だ。

「はい」
「というこたぁアイツの女じゃないんだな?」
「はい?」

本日二度目、初対面の男に腰を抱かれた。えっマジでなんなん?この人達の脳みそは女とヤることしかないのだろうか。只々不快である。

「後はアイツらに任せとけばいいだろ?オレと抜け出そうや」
「いやぁ……」

誰かこういう時の交わし方を教えてくれ。男性経験皆無の私はお断りの仕方も分からないのだ。そのまま、グイと腰を引かれ体が浮く。顔だけかと思いきや腕力もゴリラだった。

「イッテェ⁉」
すると毛むくじゃらな手が離れていった。言わずもがな助けてくれたのは九井さんである。こちらも本日二度目。

「うちの秘書が何か粗相でも?」

白スーツに包まれた腕は今も男の手首を捻り上げている。顔は笑っているが目は笑っていない。だいぶお怒りらしい。それは男に対してか私に対してかは微妙なところではある。

「少し口説いてただけだよ!アンタだってその気だったろ?」

いいえ、全く。でもはっきり言うと角が立ちそうだったので曖昧に笑っておくしかない。そうすれば頭上から舌打ちが聞こえてきた。外面はよくてもやはり中身はいつも通りの九井さんであった。

「こいつはオレの秘書なので。ほら、行くぞ」
「えっ九井さん?」
「田頭さん、失礼します」

背中を押されその場を後にする。まだ話は途中のようだったけれどよかったのだろうか。
そのままフロアの隅にまで連れて行かれた。謝罪の言葉を脳内で考えていれば、大きな音と共に目の前を白スーツの腕が遮る。これが私の人生初の壁ドンであった。

「オマエは馬鹿か?ちったぁ学習しろや」
「すみません……でも九井さんの傍からは離れていませんよ」
「それは最低限なんだよ。一から十まで教えなきゃわかんねぇのか?」
「九井さんが教えてくれたの精々〇・五くら……いったぁ⁈」

デコピンという名の銃弾が額に直撃する。マジで痛い。ここまでの働きを鑑みればこれくらいの迷惑はもう少し軽く見てほしい。

「次はねぇからな」
「………九井さんの話が長いから悪い」
「あ?」
「何でもないです」

チッと舌打ちをして壁から手を離していた。次はないと言われたが、返事はしていないので次があっても怒られないだろうと自己完結させる。

「もういい。大方の人間には会えたしそろそろ帰るか」

九井さんの高そうな時計をチラ見すればここに来てから三時間ほどは経過していた。人も減ってきたようだし引き際かもしれない。

「そうですね」
「迎えの連絡してくるわ」

ここは電波暗室になっているため外部への通信手段はない。警官のガサ入れ対策なのだろうか。そのため連絡を入れるためには一度外に出る必要がある。
お願いします、と言って見送れば数歩進んだ九井さんがこちらを振り返り戻ってきた。

「これ着てろ」

そして肩に白のジャケットを掛けられる。先程まで着られていたそれには熱があり、また香水の匂いも移っていた。

「なぜ?」
「男除けだよ。いいか、絶対ェここ動くんじゃねえぞ。そんで絡まれんな」
「善処します」
「イエス以外の返事はいらねぇ」
「ハイ」

改めて掛けられたスーツを見るとオーダーメイドのものと分かった。それにしても白スーツとかよく着れるな。これ着て九井さんはどうやってご飯を食べるのだろうか。見た目の倍以上は食料摂取をする九井さんにとっては致命的な色だと思う。

さて、九井さんが戻ってくるまで暇である。ソフトドリンクくらい欲しいものだが勝手に動くとまた怒られるしマジで暇だ。暇過ぎたので吹き抜けのフロアから二階席を見上げてみた。そこで、一人の男が下を見下ろしていることに気が付く。二階はソファ席もありキャストのお姉様方が多くいてキャバクラっぽい雰囲気になっている。だから大抵の人は両手に花を抱え、酒や料理を楽しむのだ。しかし、その人は近寄ってきたキャストすら追払い暇そうにしている。他の人達とは明らかに雰囲気も違った。

「峯……?本物?」

私はその男を知っていた。髪をオールバックにし渋い色のスーツと黄金色のネクタイが光る。昨日もらった資料にはなかったが 私達の界隈では有名人。しかし、滅多に表に姿は現さないのだ。

「おい、動くなっつったろ」

戻ってきた九井さんに怒られた。いつの間にか三メートルほど前進していたらしい。というか三メートルなんて誤差の範囲でしょ。一々怒らないでほしい。

「いや、違うんですよ」
「イエスと謝罪以外の言葉はいらねぇ」
「峯義孝がいました」

九井さんの目の色が変わった。九井さんも峯のことは知っていたらしい。表に出ないと言えども裏で金を回している人間で彼のことを知らない人間はいない。

「オマエ、あいつの顔知ってんのか?」

しかしその姿を知る者は少ない。彼への連絡手段は電話かメール。社交界などというものには姿を現さず、金銭の受け渡しが発生しても部下に任せている。曰く、人間不信の人間嫌いらしく取引以外の関係を作りたくないらしい。

「以前、錦山組のコンピュータをハッキングしたことがあるんです。そこに彼の画像データも含まれていました」
「随分と危ねぇ橋渡ってんな」
「その仕事は割が良かったので」

峯義孝はIT企業サラリーマンから極道の世界に入った少し変わった経歴を持つ。錦山組に入ってからはITビジネスや株取引で莫大な利益を上げ組の金庫番を務めていた。しかし組長が代わり組織の方針が変わったことから極道の世界からは足を洗ったらしい。それからは個人事業主として裏社会の人間と関わっていた。

「早く行きましょう!」

視線を再び二階席へ移動させると峯の姿がなくなっていた。あれほどの大物には早々出会えない。もし良好な関係が築ければきっと今後の仕事にも繋がる。そして私の臨時ボーナスにも繋がる。

「アイツか?」

やはりまだ居てくれた。二階席のバーカウンターには椅子も置かれている。そこに一人、腰を丸めている男がいた。

「ジャケットお返します」
「あぁ。オマエは先に外出て車乗ってろ」
「はい」

羽織っていたジャケットを脱ぎ、後ろから九井さんに着せる。すっかり仕事モードに入った九井さんを邪魔するつもりはない。私のボーナスも掛かっているので。だから今度こそ二つ返事で送り出した。



迎えの車に乗り込み九井さんの戻りを待つ。しかしシートへと腰を下ろしたところでドッと疲れが押し寄せた。脚はパンパンで始終愛想笑いをしていた表情筋は死んでいる。そして背を預けてしまえば一気に睡魔が押し寄せ瞼は自然と下がっていった。

「でかした!」

せっかく心地よい眠りについていたというのに馬鹿デカい声に夢の世界から引き摺り出される。そうして肩を揺さぶられたことにより現実に戻ってきてしまった。

「う、うるさ……峯といい話でもできました?」

いつから九井さんは蘭さん化したのだろうか。そう言いたくなるくらい距離が近い。でも首を絞めあげられないだけマシだ。ただ私の肩に腕を回しその状態で肩を叩くのはやめて頂きたい。割と痛い。

「おう!」

今日の九井さんは素直というか可愛げがあるというか……いつもとだいぶ印象が違う。この人、血の通った人間なんだなって改めて気付かされたくらいだ。

「向こうのコネクションで取引の幅を広げられそうだ」
「へぇーそれはよかったですね」

叩き起こされたがまだ眠い。思い返せば今日一日で色々なことがあった。車のバックミラーには今朝とは全く違う自分がいて、それが全ての証明でもある。もうすぐこの長い一日も終わる。今夜はよく眠れそうだと夢現の頭で思った。

「おい、六本木まで飛ばせ」

だがしかし、九井さんが運転手に指示を出したところで私の脳は覚醒した。そちらは私の家の方角でもアジトの場所でもない。もしやこの人、自分だけ送ってもらおうとしてる?九井さんの家の場所は知らないけども。さすがに私も送れとまでは言わないがそれなら最寄駅で降ろしてほしい。今なら終電にもギリ間に合う。

「あの、そこの角曲がったら降ろしてもらえますか?」
「あ?オマエなに言ってんだ?」
「帰るんですよ。もう業務終了ですよね?あ、ちゃんとそれなりの手当て付けてくださいよ」
「停まらなくていい。六本木まで飛ばせ」
「なんで⁈」

運転手さんは梵天の下っ端隊員で幹部の命令には絶対に逆らわない。そのため私の声は当然の如く無視され車は走り続けた。

「今から飲み行くぞ」
「未成年なのでお酒飲めないです」
「酒くらい中坊でも飲めるわ」
「私は飲まないです」
「ならガキはオレンジジュースでも飲んでろ。行くぞ」
「それならジンジャーエールがいいです。そして行きません」

世の中のサラリーマンやOLは締め日の度にこのようなパワハラを受けているのだろうか。食事をする飲み会であってもこれはサービス残業と言っても過言ではない。

「残業代は出す」
「行きます」

しかし金が出るなら時間外労働として考えてやらなくもない。
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