どうも、九井の元から家出した者になります


久しぶりに鳥の囀りで目が覚めた。というのも、木も届かぬほどの高層マンションに住むようになって烏も雀も見なくなっていたからだ。
ベッドから起き上がり辺りを確認する。家具は必要最低限のものが揃えられておりモノトーンを基調としたシンプルなものが多い。ミニマリストかと思うくらい物も少ないけれど壁一面にバイクの写真やポスターが貼られていた。しばらくそれをぼぅっと眺め、あぁ昨日は泊めてもらったんだと思い出した。

「イヌピー…?」

そして家主を探すが見当たらない。でも連絡を取る前に顔を洗う事にした。
洗面所の扉を開けて電気を付けて。そして鏡に写った私は酷い顔をしていた。化粧が剥がれているのはおいといて、目は真っ赤で唇からは血が出ていた。多分強く噛み締めたんだと思う。その癖直せって言われてたなぁ。

いつもバッグに入れているメイクポーチを取り出す。そうして何とか人様に見せれる顔まで戻した。しかし、顔色は優れない。
カチャ、と鍵の回る音がして急いで玄関に向かう。そうすればグレーのスウェットを着たイヌピーがビニール袋片手にサンダルを脱いでいた。

「あ、起きたんだ」
「ぎのうは、ごめんね」
「うわっ声ガサガサじゃん」

軽く笑われ、背中を押されてリビングに戻る。どうやら食べ物を買ってきてくれたらしい。でもとてもじゃないが食欲は湧かなかった。

「お茶くらいは飲みなよ」
「ありがとう……」

ペットボトルを渡され口をつける。意外と水分不足だったらしく三分の一ほど一気に飲んでしまった。まぁあれだけ泣いたら当然か。

「少しは落ち着いた?」

イヌピーに頬を摩られ顔を上げる。
書斎の部屋はそのままに、あの家を飛び出した。そして近くまで迎えに来てくれたイヌピーに泣き付いた。正直話したことは覚えていないが、支離滅裂なことを言っていた記憶はある。

そして九井さんと過ごしたあの家に戻る気持ちにもなれず、私が散々駄々をこねてイヌピーの家に泊まらせてもらったというわけだ。イヌピーに彼女がいないと知っていたからつい甘えてしまったけれど、昨日の自分はかなり面倒くさい女だったと思う。

「うん。あの、ごめんね急に押しかけちゃって……」
「別にオレはいいよ」
「それとベッドにも運んでくれた……?」
「散々泣いて急に寝落ちした時は笑ったわ」
「うわぁ……本当にごめん」

ということはイヌピーは床で寝たのか。この恩はいつか返さねば。

「ココと付き合ってたんだね」

今さらながら自己嫌悪に陥っていたところで声が掛けられる。
断片的に昨日のイヌピーとの会話を思い出しながら頷いた。

「黙っててごめんね」
「別にいーよ。二人が知り合いだってことは気付いてたし、言いづらかった気持ちも分かるからさ」

そして私は迎えに来てくれたイヌピーに九井さんの関係を全て話した。出会った経緯も一緒に住んでいることも好きになったことも。そしてあの写真を見つけてしまったことも。

「九井さんって赤音さんのこと好きだったの?」
「……うん」
「二人はいつ出会ったの?実際に付き合ってた?赤音さんも九井さんの事好きだった?」
「分かった、全部話すから。だから落ち着いて?」

背中を擦られ息が乱れていたことに気付く。イヌピーのところに押しかけたとはいえ、昨日はそのことを聞く余裕までなかった。でも一晩経って落ち着いて、ようやく私は知ってしまった現実と向き合うことにした。



イヌピーが言うには一目惚れだったらしい。
家に遊びに来た九井さんが初めて赤音さんと顔を合わせて、そこから二人は親密になっていったんだとか。イヌピーが居なくても二人で図書館へ行ったり勉強したり。赤音さんが五つ年上であることも気にせず好きになったんだって。でもそれだけだったら別によかった。だって私も今まで好きな人の一人や二人いたんだから。

「ココが本気で惚れてたんだなって気付いたのは火事があった時かな」

赤音さんが火事で亡くなったことは知っていたが、正確には一命を取り留めていたらしい。しかし、重度の火傷で意識不明となった赤音さんを全治するには四千万ものお金が必要だった。そんな大金をすぐに乾家が用意できるはずもなく赤音さんは寝たきり状態。そんな赤音さんを助けるため九井さんは四千万用意すると言ったのだそうだ。でも子供が集められるお金なんてたかが知れている。そこで目を付けたのが暴力を売る犯罪代行サービス。これこそが九井一のルーツだった。

「結局、その金が集まる前に赤音は死んだよ」

もうお金を集める必要はなくなった。でもその才能を買った人達が九井さんの周りに集まるようになった。そして今では日本最大の犯罪組織梵天の金を生み出している。

「これがオレの知ってる二人の全てだよ」

九井さんが赤音さんを助けたかったという気持ちは素晴らしいと思う。結果、犯罪に手を染めることになってしまったけれど私から見ればそれは純愛と呼べるものだった。
そして、そんなにも愛されていた赤音さんに間違われた私。
赤音さんとしてではなくて私として見てくれていた時もあるのだと思う。でも全てを楽観的に受け止められるほど、私の器は大きくない。現に私はいま、赤音さんに嫉妬した。

「これからどうすんの?」
「……少し考えたい」
「そっか。まぁオレはキミの味方だからさ」
「もぉー!イヌピーがイケメン過ぎてまた泣きそうなんだけど!」
「もう泣いてるよ」

スウェットの袖で目の端を拭われる。いつから私はこんなに泣き虫になってしまったのだろうか。でもイヌピーに「ブサイク」と言われて、いつもと同じように先に手が出た。弱くも確かな腹パンを決めれば「元気じゃん」と笑われて、それはイヌピーのおかげだけどそう伝える前にスマホが鳴った。

「はい、もしもし?」

特に警戒もせずに出た。というのも梵天内で私の電話番号はダダ漏れなのである。以前、知らない番号からだったので無視し続けていたら春千夜さんからで後日ヤキを入れられた。

『よかった!繋がったぞ!』

私も貴方が春千夜さんじゃなくてよかったです。しかし初めて聞く声の男の人だ。ただ、彼の後ろの人達との会話から梵天の人間であることは分かった。

「あの、どちらさ——」
『今どこにいます⁈九井さんに言われて自宅近くまで迎えに来てるんですけど!」

ヤバい、そうだった。時計を確認すれば確かに迎えが来る時間だった。

「すみません、用事があって先に出ていて……でもここから事務所までは近いので自分で行きます」
『いや、ダメだから!九井さんから一人で歩かせるなって言われてるんです!』

本当に九井さんって過保護だ。前に一度危ない目にはあったけれどまだ外も明るいし大丈夫なのに。

「私なら大丈夫です」
『オレらが大丈夫じゃないんですよ!』

電話越しに叫ばれ耳が痛い。そしてさらにその向こうから『逆探知できたか?』『なんでGPS反応しねぇんだよ!』と割と物騒な会話が聞こえてきたので慌てて呼び止めた。

「すみません、駅まで行くのでそこで拾ってもらっていいですか?」

きっと私のスマホに何か仕込まれていたのだろう。だが定期的に独自でアプデートして怪しいアプリ等は削除しているためその心配はない。でもそれがバレたらより面倒くさくなりそうなので素直に指示に従うことにした。

「色々教えてくれてありがとう!私もう行くね」

荷物をまとめて立ち上がる。まだ心のわだかまりは取れないけれど大分気持ちは晴れた気がする。持つべきものは友である。

「またいつでも来て。いってらっしゃい」

靴を履き扉を開けようとした時にそう言われた。そしたら、なんだろ。急に断片的に記憶がフラッシュバックした。いってらっしゃい、と言うと「いってきます」と返ってくる。一緒に出ることの方が多かったけど私は九井さんを送り出すのが好きだった。玄関先の段差では目線が少しだけ近くなるからそれが嬉しかった。

「……いってきます」

今さらだけど九井さんも嬉しかったのかな?だって多分、赤音さんにはされてないよね……ってなんで赤音さんにマウント取ろうとしてるんだろ。虚しすぎる。もう考えるのやめよ。



「オマエ整形失敗したのかよ」

うわっまたブサイク発言。でも間接的にブサイクって言われるとめっちゃ腹立つな。

「ひどい!無礼者には粛清を!」
「突然殴りかかってくる方が無礼だわ」

腹パンを喰らわせようとしたところで片手で顔面を掴まれる。頭じゃなくて顔面ね。そして腕のリーチが違うため私の拳は届かなかった。

「離してください!」
「その前に言うことは?」
「ごめんなさい!」
「よし」

ぱっと手を離されようやく解放される。イヌピーの家を出て、九井さんの部下の方達と合流しアジトまでやってきた。部下の方にはそれはもうこっぴどく怒られてしまった。「勝手にどっか行かないで!」「キミに何かあったらオレらがスクラップだから!」等々真っ青な顔で言われ素直に謝った。そして事務所に入ったところで竜胆さんに先程の第一声を掛けられたのだ。

「鼻が潰れました」
「先に喧嘩吹っかけてきたオマエが悪いんだろ。つーか泣いた?」
「……昨日は泣ける映画を見ていたので」
「嘘つけ。ホントは九井がいなくて寂しかったんだろ」

頬を摘まれ引き伸ばされる。やめてください、と叩き落としたら逆側を摘まれた。「ブサイク直してやってんだよ」って言われたが余計なお世話だ。そんなことで顔が変えられるなら私は昨日一晩それをやってたわ。

「竜胆さんは何しにきたんですか?」

どうにか手を振り払って近くのパソコン前に座る。いつもは作業部屋で個人業務をこなしている事が多いけれど九井さんがいない今、別の仕事を任されているので席はこっちだ。

「三途の管轄先リストくれ。このあと行ってくる」

中国マフィアと協定を結ぶため向こうに向かったのは九井さんだけではない。梵天首領のマイキーさん、ナンバー2の春千夜さん、そして明司さんと鶴蝶さんが中国へと出払っている。結構な大人数だがそれほど大きな取引なのだろう。その為、残りの幹部でその人達の分の仕事を割り振っているのだ。

「わかりました。少し時間ください」

パソコンを立ち上げながらバックの中からヘアゴムを取り出し一纏めにする。さすがに寝癖を直してくる時間はなかったのだ。そうしてお目当てのファイルを開こうとしたところで突然髪を引っ張られた。ヘアゴムを奪い取られ髪が舞う。え、竜胆さんいきなり何してくれてんの?

「ちょっと何するんですか⁈」
「いや、それはマジでない」
「マジでないのはこちらの台詞なんですけど!竜胆さんのこと軽蔑しますよ?」

フツーじゃない奴らに囲まれた中でも割と高めだった好感度が急降下したわ。冷めた目で見てれば後ろの首筋をトントンと叩かれる。何かついてるのかと思い鏡を取り出し確認し、全てを察した。

「す、すみません…」
「髪は下ろしとけって」

赤く小さなうっ血。これを虫刺されだと言い張るには些か私は大人過ぎた。でもこんなところにされたっけか。まぁ寝ている時であれば気付かないけどなんか違う気がする。

「アイツ意外と独占欲あんのな」

そりゃあ昔の女の写真ずっと持ってるくらいですしね!あれだけ沈んでいたというのに、いざ冷静になりだした私はその感情が怒りの方向へとシフトしつつあった。なんで私ばっかり傷つかなければいけないのか。そしていつも私が振り回されてしまう。

「ハッ!どうなんでしょうねぇ!」
「なんか話し方もアイツに似て来たな」
「キィイィィ!」

ハンカチを噛みしめて叫ぶ悪役令嬢並みのリアクションを取れば「早く仕事しろよ」と至極まっとうなことを言われさらに腹が立つ。しかし事実でもあるのでパソコンに向かい必要な資料を探す。その間、竜胆さんが後ろで何かしていたけれど面倒くさいので無視しておいた。

「おー助かったわ」
「いえ……というか人の髪で何してたんですか?」
「カワイクしてた」
「カワイク……」

好感度がマイナスにまで下がったいま、その言葉に信頼はない。ことりのとさかでも出来上がっていたらどんな反応をすればいいのかと思いながら鏡を確認すれば、確かにカワイクなっていた。ハーフアップの編み込みとか可愛すぎか。

「え、すごいです!ありがとうございます!」
「我ながらいい出来だわ」
「竜胆さんって実は器用なんですね」
「兄ちゃんが髪長かった頃、毎日やらされてたからな」

へぇーそうだったんだ。というか竜胆さんってめっちゃいい人だよね。好感度爆上がりだよ。いつも蘭さんとセットでいるからつい避けちゃうけど割と面倒見はいいように思える。まぁ弟属性もしっかり兼ね備えているので甘ちゃんなところもあるけどそれを差し引いてもポイントは高い。

「うっかり惚れちゃいそうですよ」

あ、でも竜胆さん悪い意味でも女の人に好かれやすいんだよなぁ。前にメンヘラっぽい女に執着されていたのを見たことある。女のストーカーっているんだな、とその時の光景を見て学んだ。九井さんくらい不愛想なくらいが安心である。ってまた九井さんのこと考えちゃった。

「は?マジでやめろ」

別に告白したつもりもないけれど、一方的にフラれた。しかも割とガチめのトーンだった。半分冗談のつもりだったのにさ。せっかく元より上がった好感度も今のでプラスマイナスゼロだよ。

「アイツがいねぇんだからあんま面倒ごと起こすなよ」
「分かってますって」
「オマエらもしっかり見張ってろよ」

誰に言ってるんだと思えば事務所の入口から野太い返事が返ってきた。おそらく私をここまで送ってくれた九井さんの部下の方たちであろう。もしや見張られているのか?え、こわっ。
梵天から逃げるつもりはない。ただ九井さんとは距離を取りたいとは思っているけれど。これからについて私は考えなければいけない。



石造りの階段を下りていき、木目調のドアを押し開ける。足を運ぶのは二回目、でも一人で来るのは初めてだった。

「いらっしゃいませ。あ、君は……」

暖かみのあるライトオレンジと共に私を迎え入れてくれたのはこのバーのオーナーさんだった。私のことなど覚えていないと思ったのに「ココ君のお連れさんだよね」と笑って挨拶してくれた。

「お久しぶりです」
「久しぶり。今日はひとり?」
「はい。九井さんは出張で」
「そうなんだ。好きなところ座っていいよ」

一人なのでカウンター席に座らせてもらう。でもここの椅子は高くて苦手だ。よじ登る様に座って、そういえばゴマフアザラシみたいだと笑われたこともあったなと思い出す。何でもかんでも他の物に私を例えやがって。

「何にします?」
「ハンバーガーってまだありますか?」
「今日はあるよ」
「じゃあそれとサラトガクーラーで」

噂に聞いていた絶品だというハンバーガーを注文した。先にドリンクを用意してもらいそれを楽しんでいれば本日の主役が運ばれてきた。専門店でもないのにお肉もジューシーでソースも濃厚ですごく美味しかった。食通の九井さんが美味しいというだけある。意外と大きかったけれどこれなら全部食べられそう。

「美味しい?」
「はい!物凄く美味しいです」

無心で食べていたところでオーナーさんに話しかけられた。店内には私が入ってきた後に二組ほどの入店はあったがお客さんも少なく手が空いているようだ。でもそれならこちらとしても都合がいい。

「ココ君もよくそうやって無心で食べてるよ」
「……!もしかして先日も九井さん来ませんでしたか?確か——」

赤音さんの命日を伝えた。オーナーさんは考えるそぶりも見せず、すぐに頷く。やっぱり飲みに来てたんだ、とチクリと心が痛む。

「その日は毎年ここに来るんだよね」
「へぇ……そうなんですね」

ということは毎年ここで故人を偲んでいたわけだ。いや、別にいいんだけどね。私だって一々プライベートなことに突っ込まれたくないし、それは九井さんだって同じはず。でも嘘つかれたことにはもやもやするし、相変わらず赤音さんには嫉妬してしまう。というか私は浮気調査をしている探偵か?九井さんを知ろうとするほど自分が惨めになっていく。

「でもさ、毎年キープボトル何本か空けて帰るんだけど今年は違ったよ」

オーナーさんの声が僅かに弾み、顔を上げる。

「一杯だけ注文してすぐに帰っちゃったんだ。今日はもういいの?って聞いたら家で寂しがってる奴がいるからもう帰る、だって」

なにそれ。でも結局待ちくたびれて私は先に寝ちゃったよ。まぁ起きたら隣に寝てた九井さんに抱きしめられてたけど。
言葉足りなさすぎ。それでいて分かりづらい。私は私として愛されていたのだろうか。生憎、それを断言できる自信はない。でも、貰ったネックレスだけは肌身は出さず付けている。ここまで来たら私のやる行動は一つだった。



「えっ敷金礼金ゼロな上に仲介手数料も分割でいいんですか⁈」
「いいよ、イヌピーの知り合いだしな」
「パーちんに感謝しろよ!」
「よかったな」

あの家から出ていくため、私はアパートを借りることにした。何故かって?それはもちろん九井さんとの距離を物理的にも取る必要があると思ったからである。
本人に直接聞きたいことは山ほどある。でも、頭のいい九井さんでは私はおそらくいいように丸め込まれるだろう。それならせめて最低限の逃げ場所を作ってから話し合いをしたい。喧嘩してもあの家に住み続けるとか気まずすぎるし。

そしてイヌピーには不動産屋を紹介してもらった。オーナーはパーちんこと林田さん。そしてパーちんさんの隣で私にメンチを切っているのがペーやんこと林さん。三人はむかし同じチームにいたことがあったらしい。

「入居っていつからできますか?」
「清掃と鍵は変わってっから今日から住めるぞ!」
「本当ですか⁈」
「ンなわけねぇだろ!電気水道ガス通るのに最低でも一週間は掛かんだよ!パーちんの脳ミソは空気なんだから鵜呑みにすんじゃねぇ!」

なぜか私が怒られた。どうやらペーやんさんの方がしっかり者らしい。隣のパーちんさんは「そうだったな!」と言いながら笑っている。地味に悪口を言われていたような気もするがいいのだろうか。まぁイヌピーにも「いつもあんなだから」と耳打ちされたので細かいことは気にしないことにした。



「いい不動産屋さん紹介してくれてありがとうね」

ペーやんさん主導のもと手続きをさせてもらった結果、一週間後には入居ができることになった。九井さんが帰国する前日である。何とか間に合いそうで良かった。

「でもあの部屋でよかったの?せめてインターホンあるとこの方がよかったでしょ」

今日一日付き合ってくれたイヌピーが心配そうにそう言った。選んだ物件は前に住んでいたアパートと似たようなところ。でも火事の経験から今回は木造ではなく鉄筋の家を選んだ。

「そうなると家賃上がっちゃうからね。お風呂とトイレが別なだけで十分だよ」
「危機感なさすぎ」
「あーもー痛いってイヌピー」

伸びてきた人差し指が私の頬を突く。皆そんなに私の頬で遊ぶのが好きか。そろそろ頬が伸びてだらしのないハムスターのようになりそうなので出来ればご遠慮いただきたい。

「オレの家からも近いし何かあれば呼んでよ」
「イヌピーがイケメン過ぎて惚れそう」
「惚れてくれていいよ」

そして返しまでもがイケメン。どこぞのミスターマッシュウルフにも見習ってもらいたいくらいだ。



そしてあっという間に引越しの日がやって来た。
でも部屋自体には入ることが出来たので荷物は少しずつ移動させてはいた。荷物と言っても精々自分の服と少しの雑貨程度。これもほぼ全て九井さんから貰ったものだと思うと捨てたくもなったが物に罪はない。そして捨てて困る自分もいるので持ってきた。

六畳1Kと随分と手狭だが、私にはこのくらいの方が合っている。家賃重視の為、北向きの部屋を選んだ。日当たりはよくないと聞いていたが、夕方の今は西日がかなり眩しい。今日は段ボールで凌ぐとしてカーテンも早めに買い揃えなければ。

きっと九井さんにはこの場所もすぐにばれるのだと思う。でも一先ず逃げ場ができたことに安心する。
顔を合わせたら何から話そうか。言いたいことも聞きたいこともたくさんある。あの写真は元の場所に戻したけれど持ってきた方が良かったかな。証拠とばかりに目の前に突きつけたりして……でもあれは九井さんにとって大切なものだろうから私も大切に扱った。



一晩のうちに考えるかと早くも前向きにとらえ始めていたところで玄関からチャイムの音が聞こえた。その軽い電子音に促され「はーい」と緩い返事をする。
この時の私は大層お気楽なものだったと思う。新聞の新規契約かはたまたテレビ受信料の取り立てか。もしかしたらお隣さんが挨拶に来てくれたのかなぁなんて。それともイヌピーかな?要は大した警戒もしていなかったのだ。
だって私がいま一番会いたくない人は日本にいないから。

「はい。どちらさ、ま……」
「よぉ」

おっかしいなぁ。
勘は良い方だと思ってたんだけど。

「二週間ぶりだなぁ」
「正確には十三日ぶり、ですね…?」

どうやら相手の方が一枚上手だったらしい。
ドアを開けたら笑顔が素敵な九井さんがいらっしゃった。
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