どうも、はじめの恋人になります


何故ここがバレた。それに帰国日も当初の予定と違う上に私は何も聞かされていない。しかし、そんなことを考えている余裕はない。即座に私も顔に笑みを張り付けた。

「お疲れ様です九井さん」
「いつからオマエの家はここになったんだ」
「今日からです」

随分とお早いお帰りですね。でも貴方の家はこちらではないですよ。

「バカなこと言ってねぇで帰んぞ」
「だから今日からここが私の家なんですよ。荷解きがあるので失礼します」

ドアを閉めようとしたらそうはさせまいと手で押さえられた。しかしそれは想定済み。瞬時に手を伸ばし脇の下を突いてやった。それは最近知った九井さんの弱点だった。

「うっ…」と声が詰まりドアから手が離れる。そしてその隙とばかりにドアノブを思いっきり引っ張るが、今もなおドアは閉まりきらない。だがその原因は単純で足元を見ればお高そうな靴が挟まっていた。

「足を退けてください。ドアが閉まりません」
「いい度胸じゃねぇか」

ドアから手を離すのも早ければ掴み返すのも早かった。そうして半開きだったドアは大きく開け放たれる。真正面で九井さんと向き合う形になり思わず目を逸らした。でも玄関の敷居をまたぐつもりはないのかその場から動きはしなかった。

「なんでここが分かったんですか?」
「オマエの動向は部下に逐一報告させてたんだよ。GPSは早々に気付かれたからな」

さも当たり前のようにGPSのことを言うんじゃないよ。そして居場所の特定に関しては意外と原始的な方法だった。ということは尾行されていたということなのだろうか。全然気づかなかった。それにしても私がGPSを破壊したせいで九井さんの部下の方に余計な仕事をさせてしまったな——いや、そもそも監視されること自体おかしくない?

「九井さんであってもそこまで干渉されたくないんですけど」
「オマエはすぐ面倒ごとに巻き込まれんだろ」
「ここ最近はそんなことなかったですよ」
「夜に一人でバー行った日あったろ。あの日、オマエに声かけようとした男を五人も部下が伸してんだよ」

うっ…そう言われてしまえば多少なりとも申し訳なさというか罪悪感のようなものが込上げてくる。でも別に一人でもなんとかできたし……多分。

「その点に関してはご迷惑をお掛けしました。でもこれからは九井さんたちにも迷惑を掛けないようにするので今日はお引き取りください」

ドアノブに手を伸ばすがその前に手首を掴まれた。引くこともできなくなった自身の手から、ゆっくりと九井さんの方へ視線を動かしていく。そして改めて顔を見れば案の定、怒っていらっしゃる。しかもそれが真顔なものだから余計に怖くなってしまった。

「どういうことだよ」
「……今度改めてお話します」
「浮気か?」
「は?」

思わず顔を二度見すれば相変わらずの真顔。しかしどんどん目のハイライトがなくなっている気がしなくもない。まぁ九井さんの場合、目が細いから気のせいかもしれないけれど。というかめっちゃ手が痛いんですけど。この人、私の手首を粉砕するつもりか?

「ここもイヌピーの紹介だろ。頻繁に会ってたみてぇじゃねぇか。そういや前に金髪で色白な男がタイプっつってたよな?あれイヌピーの事だろ。オレがいなくなった隙に鞍替えすんのも大概にしろよ。それとも竜胆の方か?オマエは灰谷兄弟に気に入られてっからなぁ。で、どいつが相手だ?」
「ちょ、こわいこわいこわい!」

いつ呼吸した?怒鳴るわけでもなく暴れるわけでもなく、只々根も葉もないことを羅列される姿は軽くホラーだ。というかこのままでは完全に九井さんのペースに巻き込まれる。だから距離を取りたかったんだよ。

何とか手を振り払い、九井さんから距離を取る。しかし、やはりそれが気に食わなかったのか一歩こちら側へと踏み出してくる。それを私は目の前に手を伸ばして止まってほしいという意思表示をした。

「そういう人はいません!それは誤解ですから」
「なら理由を言え」
「だからいま話すことはないんですよ。さようなら」
「チッ!オマエはいつも自分の都合が悪くなると黙っていなくなるよなぁ!前もオレの事あからさまに避けやがって」

最近では舌打ちも怒られることも少なくなっていたというのについに本性が出てきてしまった。九井さんって幹部の中でも冷静そうに見えるのに割と短気なところあるよね。写真の中の可愛らしい面影など今では一つもない。まぁ私は見ず知らずの女の面影を今も残しているけどね。

「九井さんの方こそどうなんですか?」

そこまで強く言ったつもりもないけれど、触発されたように語尾に力がこもってしまった。視線を上へと移動させれば眉間に皺を寄せた九井さんと目が合う。

「あ?他に女なんかいねぇよ」
「違います。浮気以前の問題です」

このタイミングで話すつもりはなかった。だっていま言い出してしまえば私は自分で自分を抑えきれなくなると思ったから。

「九井さんこそ私に隠していることありますよね?」
「はぁ?」
「あんなところに隠すなんて。エロ本でも出てきた方がよっぽど笑い話に出来ましたよ」
「……意味分かんねぇんだけど」

分からなくていいから帰ってよ。

「オマエはいつも黙っていなくなるよな。前の時もそうだった」

写真を見つけたときの私の気持ちが分かる?赤音さんのことを知った私の気持ちなんて分からないでしょう?私に与えられたものは彼女が受け取るはずのものだった。それを勘違いして舞い上がって、愛されているだなんて自惚れていた私。
そんな惨めな私の気持ち、分からないでしょう?

「言いたいことあんなら言えよ」

私の中でプツンと何かが切れた。

「じゃあ言いますよ!私は赤音さんじゃありません!」

こういう自分になりたくなかった。子供っぽい言い方をしたくなかった。せっかく少しだけ大人になれたと思ったのに。でも切れた理性は戻らずに自身の感情がそのまま言葉になる。

「私に赤音さんを重ねて、着飾らせて可愛がって満足できましたか?私から好意を向けられて自尊心は満たされました?九井さんが私に対して過保護だった理由がようやく分かりましたよ。こんな顔の似ている女、早々手放したくないでしょうからね!」

あぁ、でもドッペルゲンガーって世の中に三人はいるんだっけ。そうしたら残りの一人でも探すのかな。それか金の力でそっくりな女を作るのか。あー……こんな歪んだ思考になる自分が本当に嫌。でも動き出した口はそう簡単に止まらない。

「私は九井さんのこと本気で好きでした。出会いこそ最悪でしたけど私のことを評価してくれて傍に置いてくれて嬉しかった。一緒に暮らすようになって恋人になって。おかえりって言って、ご飯食べて、同じ布団で寝て。愛されてるって本気で思ってましたし本当に好きでした。でも九井さんが好きだったのは赤音さんに似た私ですよね。それはっ、私じゃないッ……」

泣き顔を見られたくなくて、私は俯いたまま袖口で涙を拭いた。別にお涙頂戴で今さら謝ってほしくもない。私に対してじゃない愛の言葉なんていらない。

「私は赤音さんにはなれません。今まで夢を見させて頂きありがとうございました」

やっと掴めたドアノブを引き寄せ扉を閉める。今度は遮られることはなかった。それが少しだけ寂しいと思ってしまった私は感情を押し込めるように扉を施錠した。

西日が照らす室内は茜色。なんだか嗤われているような気さえする。
鼻をすすり涙を拭って前を向く。何も変わらない、昔と同じ日常に戻るだけだ。仕事をして借金完済できたらそれで終わりの関係。一人で生きていく覚悟はもう何度もしている。私は私だけで生きていける強い人間。

カシャンカシャン——

未練たらしく纏わりついた感情を振り払って荷解きを再開させようとしたら聞きなれない音が玄関から聞こえた。まさかまだ九井さんがいるのだろうか。でももう話し合うつもりはない。それに九井さんだって私に話すことなどないだろう。言い訳するようなタイプでもないし。

鉄筋だけれどボロアポアートには変わりない。他の住民の生活音だろうと気にも留めなかった。しかし大きな音と共に風が部屋を吹き抜けたことで私はようやく異変に気が付いた。

「言いたいことはそれだけか?」

大きな音はドアが外れた音だった。しかもそのドアも今や壊した男の足の下である——そして手にはサプレッサーが取り付けられた銃。うそ、本物?

「えっ⁈ちょっと何やってるんですか⁈」
「それはこっちのセリフなんだが?」
「いや、え?もしかして撃って壊したんですか⁈」
「あぁ」

アタマオカシイヒトガイル。
は?もしやあっちでクスリでもやってきたのか?というかこれはマジでヤバイ。本能的に体が逃げ場を求める。玄関が無理なら窓しかない。生憎この部屋は二階であるが窓のちょうど真下には植え込みがある。だから上手く受け身で落ちればそのまま走って逃げられる。

「逃がさねぇよ」

しかし、踵を返すが遅かった。カシャン、というまたも聞きなれない音に続き目の前の窓ガラスが割れた。もちろんそれは銃弾が当たったからだ。確実に私には当たらないように撃たれていた。でも裏を返せば私に当てることも容易にできたということ。

—オマエが逃げねぇように首輪つけて閉じ込める—

いつかに言われたその言葉。
そして頭に浮かんだのは監禁の二文字。

「ちょっと待って!一度冷静になりましょう!」
「オレはずっと冷静なんだが?」
「じゃあそれを下ろしてくださいよ!」
「そしたら逃げんだろ」
「逃げませんから!」

両手を上げて降参の意を示す。春千夜さんに銃を向けられるのとはえらい違いだ。それだけ今の九井さんは本気だということ。「下手なマネしたら脚狙って撃つからな」と言われたのがその証拠だ。
誠意を見せるためその場に座る。姿勢を正す必要まではなかったけれど正座をした。そうすればようやく物騒なものを仕舞ってくれた。でも九井さんの表情は変わらない。靴を履いたまま上り込み、そして私の目の前で立ち止まった。

「オマエが言いたいことはそれだけか?」
「遺言ということならまだありますけど」
「随分と余裕はあんだな」
「待って!銃はやめてください!」

再び服の中へと手を伸ばしかけたので慌てて呼び止める。いくらなんでも短気すぎでしょ。サプレッサー付きとはいえ閑静な住宅街で銃声を鳴らさないで欲しい。それに私は思ったことを言っただけで余裕があるわけではない。そもそも九井さんが余裕なさすぎなんだって。

「じゃあ次はオレの番だな」
「何がです?」

ずっと私のことを見下ろしていた九井さんが膝を折って屈む。
そうして私の目の前で胡座をかいて座った。

「……まずは赤音さんのこと、黙ってて悪かった」

私の目の前で頭を下げた九井さんは順を追って一から話をしてくれた。
私を傍に置いていたのは使える人間だと判断したから。眼を掛けるようになったのは赤音さんに似ていることに気付いてしまったから。でも私が一度距離を取った時からか、九井さんの中で変化があったらしい。

「クソみたいな人生の中でもバカみてぇに真っすぐ生きるオマエのことを知りたいと思った」

まだ半信半疑で九井さんの言葉を上手く飲み込めない。不安をかき消すように私は首元で光るネックレスに手を伸ばした。

「確かに赤音さんは火事で亡くなった。でも火事に遭ったオマエを心配したのは他でもないオマエだったからだ」

だから家にまで連れ帰った。普段からあまり自分の感情を表に出さない九井さんが一つ一つ言葉にしてくれて、私に伝えてくれる。それだけで胸がいっぱいになって苦しくて、嗚咽が出そうになった。

「でも弱いところは見せたくなくてすぐ逃げる。言いたいことも我慢して全部自分の中で完結させようとする。だからいつしか目を離せなくなった」

九井さんは私以上に私のことを分かっていた。そしていよいよ我慢できなくなって涙が溢れてしまえば親指で拭われた。布越しでは伝わらない体温が直に伝わってくる。ひんやりとした指先は火照った顔に良く染みた。
僅かに距離が縮められ手で顔を持ち上げられた。九井さんの瞳に映った私の顔はそれはもう酷いもので涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。でもそんな赤音さんとは似ても似つかぬ酷い私を見て、九井さんは頬を緩めたのだ。

「オマエは赤音さんじゃねぇよ。で、オレがいま好きなのは目の前でブサイクな面して泣いてるオマエだ」
「うっ…うわあああん」

イヌピーに泣き付いた時でさえこんなにも声を上げることなんてなかった。泣くときはいつも口元を抑えて声を殺した。だってこんなみっともない姿誰にも見られたくなかったから。でもそんな私のちっぽけなプライドさえ見抜いてしまった九井さんに、今さら張るほどの見栄はなかった。

抱き寄せられて九井さんの服に顔が埋もれる。こんな状況でも服を汚してはいけないと顔を離そうとしたら後ろから頭に手が添えられた。だから私は全てを許された気がしてそのまま泣き続けた。

「どうしてずっと黙ってたんですか?」

少しだけ落ち着きを取り戻した私はそのままの体勢で問いかける。
貰ったあの日から肌身離さず付けているネックレスが揺れた。

「オマエに嫌われたくなかった」
「え?」

九井さんの胸を押し返して顔を上げる。日の落ちた部屋ではその表情は良く見えない。

「九井さんってそんなキャラでしたっけ?」

真っ直ぐと私を見ていた九井さんの目が逸らされる。そうしてぐしゃりと銀の髪を握りしめて息を吐き出した。

「九井さんも言いたいこと言ってくださいよ」
「オレはねぇよ」
「ソファで私にキスしようとした時も誤魔化しましたよね?言ってくれなきゃ分からないことだってあるんです」

いま向き合わないと上辺だけの愛しか貰えないと思った。それじゃ足りない。全部が欲しい。私も全部あげるから、九井さんの全部が欲しい。

「オレが好きだった赤音さんに似てるつったらあんまいい気はしねぇだろ?」
「そうですね」
「泣かせたくなかった、傷付けたくはなかったんだよ」
「だから赤音さんの命日に飲みに行ったことも黙ってたんですか?」
「……悪かった」

それは逆に言って欲しかった。出掛けてもいいけど嘘は付かないで欲しい。赤音さんのことを忘れろだなんて言わない。でも、ひとつだけ約束して欲しい。

「必ず私のところに帰ってきてください」

おかえりなさいの言葉を口にできるのは私だけの特権だ。

「なら家はここじゃねぇよな」
「はい」

せっかく紹介してもらったのにまさか一日も経たないうちに退居することになるとは。しかもドアも窓ガラスも壊したから修繕費が大変なことになりそう。後日ちゃんと謝りに行こう。

「さっさと帰んぞ」

立ち上がった九井さんを見上げる。そして自分も追いかけようとしたところで、やってしまったことに気がついた。

「九井さん」

手を上げてヘルプサインを出す。私にとっては割と危機的状況だ。

「足が痺れて立てないです……」

固い床の上で正座をしていた足は限界だった。

「めんどくせぇ女」

そんなこと今に始まったことじゃないでしょう?好きになったんならちゃんと面倒みてよね。

「手を貸してください」
「抱えてやるよ」
「いやぁそれはっ…〜〜ッ!今わざと足掴みましたね⁈」
「運んでやってんだから文句言うな」

蝶よりも花よりも丁重に扱えと学ばなかったかコノヤロー。ブーブー文句を言っていれば顔に影がかかって唇を奪われた。思わぬ不意打ちに押し黙れば意味深に笑われて。悔しかったからグーで胸を殴ってやった。余計笑われた。
靴を履かずに出てきてしまったものだから、マンションに着いても部屋まで運んでもらう形になってしまった。別に裸足で歩いても良かったけれどそこは九井さんが譲らなかった。

九井さんのポケットから鍵を取り出して、家の扉は私が開ける。そうしてようやく下ろしてもらったところで私は久しぶりにこう言った。

「おかえりなさい九井さん」
「ただいま」

ここが私の居場所なのだと、そう確信した瞬間だった。



これでいつも通りの日常に……かと思いきや微妙に前と違った。

「もう上がっていいぞ」

いや、まだ外明るいんですけど。

「私はまだ働けます」
「オマエがやる仕事はねぇ」
「え、ありますよね?中国マフィアと同盟結べたならそれに関する情報収集とか……」
「今じゃなくていい」
「じゃあフロント企業の仕事は?」
「他の奴に振った」
「なんで⁈」

最近、私の仕事がめっきり減ってしまった。私の給料は歩合制なのだ。基本給はあれどプラスで稼がないと借金の返済が追いつかない。それなのに仕事が減らされた。これは由々しき事態である。

「今からでも私がやります!」

因みに恋人になったとて九井さんが借金を帳消しにしてくれることはなかった。私も期待していたわけではないが、借金残りいくらですか?と聞いたら額を教えられた後に「このペースだと完済は十年後だな」と鼻で笑われた。

「引継ぎする方が面倒だろ」
「でも……」
「——おい、事務所の前まで車回せ。……いま迎え呼んでやったからオマエは帰れ。それと今日は幹部会だから飯はいらねぇ。オレは遅くなるから先に寝てろよ」
「勝手に決めないでください!」

その後もしつこく食らい付いてみたが結局家へと強制送還されてしまった。最近ではほぼ毎日こんな状態だ。日暮れ頃に上がって家に帰って夕飯を作って九井さんを出迎える。
まぁそれでもいいんだけど私としては少し納得していない。

もう九井さんから離れるつもりもないので借金が有り続けようが問題はない。でも私は借金を早く返したい。だってこのままでは私と九井さんの関係が『彼女と彼氏』である前に『債務者と債権者』になってしまう。なんかこれって恥ずかしくない?少なくとも私は嫌だ。



「梵天って副業できますか?」
「は?」

仕事がないなら探せばいいじゃない。だから夕食後、比較的のんびりしていた九井さんに思い切って聞いてみた。もちろん今の業務に支障が出ない範囲で。

「お金が欲しいんですよ」
「なんか欲しい物でもあんのか?」
「物じゃなくて稼ぎたいんです」

十年も借金抱えてたくないわ。それに金利も高いから長引くだけ返済額が増える。

「副業って、例えば?」
「えーっと……闇サイトで依頼を受ける、とか」
「そっち系はダメ。梵天で情報漏洩があった場合、真っ先に消されんぞ」

確かに匿名の掲示板といえども私が梵天の人間とバレればいいように使われる可能性だってある。でもその他思い付くのはスーパーのレジ打ちとか居酒屋のスタッフくらいしかない。でもそれじゃあ雀の涙程度しか稼げないしなぁ。あ、でもそれなら——

「キャバクラとかどうです?梵天のお店で働かせてもらえば大丈夫ですよね!」

さすがに身体は売れないが接客メインのキャバクラなら何とかなりそう。お酒はあまり飲みたくないが弱いわけではない。それに以前、蘭さんには七位くらいにはなれると言われた。

「却下」
「えー!」

割と現実的な案だと思ったのに秒で否定された。梵天の管轄下なら情報漏洩の心配だってないのに。

「店のオーナーも九井さんだから問題ないですよね?」
「大アリだわ。オマエはキャバ嬢が何すんのか分かってんのか?」
「九井さんみたいに疲れ切った人を癒したり九井さんみたいに無愛想な人にも愛想振りまいたり九井さんみたいなお金持ちにボトルをたくさん入れてもらう仕事ですよね?」
「よし。オマエが根本的に間違ってるっつーことは分かったわ」

そこからは一時間のガチ説教コースだった。キャバクラのお姉さんってすごい。こんなお客にも誠心誠意対応してるんだね。
っていうかなにさ、最初の頃は私に風俗店で働けだなんて言ってたのに今さら禁止だなんて言い出して。もしかして浮気でも疑われるのか?そう思い、好きなのは九井さんだけですよ、なんて伝えてみたけれど「都合のいいことばっか言うな」と火に油を注いだだけだった。本当に思ってるのに捻くれすぎ。あとキャバクラで働きたいのはお金だけが目的というわけではなかった。

「私が働けば他の女の子を牽制できると思ったのに」

煙草と甘ったるいお花の香り。仕事上、不可抗力により着いてしまった匂いだとしても正直に言ってしまえば嫌だった。それにもしかしたら本気で九井さんを狙ってる子がいるかもしれないし。

「………」

九井さんが私を心配してように私だって心配なのだ。それをどこかの誰かさんとは違いストレートに言葉にしたと言うのにまさかの無言。顔は手で覆っているし思わず、聞いてます⁈なんて怒れば「少し黙ってろ」って言ってくるし。ムカついたので弱点である脇の下を擽ったら倍以上のひどい目にあった。
そして結局、キャバクラはなしになった。



「なにやってんだ?」
「あっ明司さん、お疲れ様です」

どうせ無駄だろうけれど、コンビニでもらってきた求人広告誌を事務所で見ていれば後ろから声を掛けられた。梵天相談役の明司さん。私自身、仕事上であまり関わることはないが顔を合わせれば世間話をする間柄だ。

「ンなもん読んでどうした?」
「お金稼ぎたいんですよ」

そう正直に答えれば「オマエには必要ねぇだろ」と言われた。明司さんもまた私と九井さんの関係を知っているらしい。

「日本にいる部下からの報告に毎日顔青ざめてたぞ」

そして出張中のことを思い出しては笑っていた。確かその頃は引っ越し準備に明け暮れてたんだっけ。私ってそんなに監視されてたんだ。というか最近は勤務時間も減ったからそのうち家に監視カメラとか付けられそう。でもさすがにそれはな……いや、九井さんも頭のネジ足りないところあるからなぁ。

「ちょーっと可愛くおねだりすりゃあ、こずかいくらいくれんだろ」

中国での仕事が終わった瞬間、無理やり当日の航空チケットを取って帰国したらしい。そこまで惚れられてんならやる価値はある、と明司さんに後押しされた。もはや欲しいお金はこずかい程度で済まされる額でもないけれどその「おねだり」という言葉に私は興味が引かれた。

「具体的には何をすればいいのでしょうか?」
「そうだなァ」

さすがは相談役である。そして今まで色々と遊んできた経験もあるのか知識が豊富だ。そんなややアダルトな内容を頭に詰め込んで出来そうなことをさっそく実践することにした。



今日も早めに家に帰ってきていた。スープとサラダから作り始め、メインの料理を煮詰めている間に風呂掃除を済ます。そうしてお湯を溜めベッドメイキングも済ませた。
そろそろ帰ってくる頃かと思い食器を用意していれば玄関の方から扉の開く音がした。ついに来た、と私はいつもよりも速足で玄関まで迎えに行った。

「おかえりなさい!」

私の様子にやや驚きつつも「ただいま」と返される。そうしていつも通り鞄を受け取って私は頭の中で何度も復唱していたとっておきのセリフを言ったのだ。

「ご飯にします?お風呂にします?それとも、わ・た・し?」
「………………は?」

はい、死んだ。
明司さん、全然だめじゃないですか。さすがは昭和生まれの人間。もう時代は変わったみたいです。平成生まれの平成育ちの人間には通用しないって。というかこれやったところでどのタイミングでおこずかいをせびるかまでは考えてなかった。それに大食漢の人間に対してこの三択って最早愚問だよね。マジで恥かいただけだった。

「くっ…私を殺してください…!」
「いや、殺さねぇけど」

受け取った鞄で顔を隠す。このやり取りはこの先一生揶揄われる自信はある。そもそもこの手のネタを好むような人じゃないよね。私ももう少し考えるべきだった。

「ご飯の準備しますね」
「おい、今の何だよ」
「記憶から抹消してください」
「できるか」

靴を脱ぐのを待つよりも先にリビングへと足を向ける。

「今日は煮込みハンバーグなんです。すぐに盛り付けますね」
「さっきの何だよ?」

いつもなら着替えを済ませてからこちらに来るというのに、私の後を追っかけてリビングに入ってきた。ソファに投げ捨てるように鞄を置き、私は逃げるようにキッチンの方へと移動する。

「おい、」
「それとほうれん草のポタージュも作ったんです。結構手間かかったんですよ?あっでも安心してください、これに野草は使っていないので」

完全無視して私は食事の用意をする。サラダや果物、漬けておいたピクルスも取り出して黙々と準備をする。そして再び冷蔵庫を開けたとき白い箱が目についた。

「そういえばタルトケーキも買ってあるんです。はじめさんが気になってたシャインマスカットのやつ」

お金を稼ぎたいと思っているのにこういう出費をついしてしまうのは私の悪いところかもしれない。でも私も食べたかったし、きっと喜んでくれるかなと思って少し奮発して買ってきたのだ。

「は?」
「だからシャインマスカットのタルト」
「なんつった?」
「何回聞くんですか?ついに——」

ボケたんですか?と言いかける。しかし振り返ったら思いのほか近くにいて持っていた皿を落としそうになった。

「びっくりした」
「もういっぺん言え」

マジでボケたのかと、ケーキのことを再度言ったがそのことではないらしい。ということは玄関口で言ったあのセリフか?それこそ私に死ねと言っているようなものである。断固として拒否したら片手で両頬を挟まれた。

「DVだ!」

そう抗議すればそのまま腰に腕を回され抱き寄せられた。間一髪のところで手に持っていた皿をシンクの上に置く。状況が飲み込めず至近距離で見つめ合う形となり私の頭には「?」が舞うばかり。相変わらず分かりづらいんですけど。前述のセリフ意外に何か気に障る事でも言っただろうか。

「いま名前で呼んだろ」

あ、そっちね。明司さんとの会話も最終的には「まァ猫なで声で名前でも呼べば大抵惚れた女の我儘くらい聞くもんさ」で締めくくられた。猫なで声、なんてさすがに気色悪いなと思ってしまったがそういえば私はずっと「九井さん」のままだったなということに気付いたのだ。仕事の時に呼ぶつもりはないけれど二人の時くらいなら、ということで言ってみた。

「ダメでしたか?すみませんでした」

もう私のライフはゼロに近いからな。名前で呼ぶことなど恥かいたセリフに比べればなんてことなかった。羞恥ですっかり無に還った私に対し軽い口づけが落とされた。

「え?」
「これからも名前で呼べ」
「じゃあ、はじめさん?ンンッ——」

まさかキッチンでこんな状態になるなんて。IHの電源切っておいてよかったな、とぐずぐずに溶けた頭の片隅で思った。
唇が痺れるくらいになってようやく解放されて、脳に酸素を送るために深呼吸する。なんかご飯食べましょうって雰囲気じゃなくなっちゃったなと、視線を彷徨わせていたところで腕を引かれてキッチンから連れ出された。

「さっきのやつ、まだ答えてなかったな」

引きずられるように連れていかれた場所は寝室で。綺麗に整えられたベッドを見て、あぁ私も実はこっちを期待してたんだと気付いてしまった。

「オマエがいいんだけど」

まぁ事実誘うようなこと言っちゃったし。

「私もはじめさんがいい」

シーツの海に溺れながら、求め合うようにキスをした。

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