番う

番になる、といっても直ぐにそうなるわけではなかった。吉田君曰く、私の発情期が来るまで待つという。
一般的に発情期は三ヵ月周期でくるといわれているが、私はというと今まで抑制剤を打ちまくっていたのでいつそれが来るかも分からない。だから自身の家で軟禁生活な日々を送っていた。

「吉田君も大変じゃない?」
「そうでもないよ」

だから食料品や日用品の買い出しも吉田君がしてくれている。今日もビニール袋を引っ提げてうちの家に来てくれた。そして勝手知ったる我が家と言った具合に食材を冷蔵庫に移している。

「だってほぼ毎日うちに来てくれてるでしょ?」
「任務や学校帰りに来てるからそうでもないよ。それにここに来ればご飯も食べられるし。ねぇこのサラダ食べていいの?」
「どうぞ。じゃあカレー温めるね」

確かに今だってデビルハンターの任務帰りに来てくれたようだし吉田君の分のご飯も作ってあった。でもそれにしたって吉田君の負担が大きすぎる。

「ごめん、私は先に食べちゃった」
「構わないよ。ありがとう、いただきます」

ワンルームの部屋にはソファすら置けず、吉田君はベッドに背中を預けながら胡坐をかいた。そしてローテーブルに並べた食事に猫背気味になりながら口を付けていく。その様子を斜め向かいで膝を抱えながらじっと見つめた。

「さっきの話の続きだけどさ、」
「うん?」

ルーを入れて煮込むだけだけど今回のカレーは上手くできた気がする。じゃがいもがほどよく溶けて一口サイズに丸みを帯びていた。隠し味にはチョコレートではなくインスタントコーヒーを。それは吉田君が自分で飲むように買って置きっぱなしにしていたものだった。

「私はさ、もう覚悟できてるんだけど……」

お腹が空いていたのかサラダは食べ終わりカレーもすでに三分の一ほどなくなっていた。
黙って咀嚼し喉仏を上下に動かし飲み下す。そしたら不意にこちらを向いたから、びっくりして肩が跳ねた。

「随分積極的だね。そんなに俺の番になりたいの?」

そんな私を見ては、いたずらっ子のように笑う。確かにその気持ちの変わりようと言ったら極端すぎて自分でも笑えてくる。ただ、日が経つにつれて彼のことが欲しくなるのだ。それはずっと一人で家にいるせいかもしれないし、もしかしたら一種のストックホルム症候群なのかもしれない。

「なりたい……です」

でも本能が、オメガ性の細胞が、彼を求めている。吉田君の深い海のような匂いは身体を熱くする。それはマキマさんの時のような淡い心臓の高鳴りからくるものではなく、体中の血液が沸点に達したかのような滾る熱なのだ。

「そっか」

腕が伸びてきて吉田君の大きな手が私の頭を撫でる。頭を撫でられるのはあまり好きではなかった。飼い主が犬を愛でるような、自分が人間ではなく愛玩動物であるかのように感じるから。でも今はひどく落ち着く。

「じゃあ、」
「でもごめん、もう少し待ってて。これはキミの為でもあるから」
「……分かった」

髪をひと房撫でて離れていった。

食事をした後も吉田君はしばらくいた。でも日付が変わる前には家を出て行く。私の家に泊まっていったことは一度もない。この日も玄関まで着いて行き彼のことを見送った。

「また明日来るから」
「うん、気を付けてね。おやすみ」
「おやすみ」

そして三秒にも満たないキスをする。
この時間が愛おしくて、でも虚しい。
玄関の扉が閉まる頃にはそのぬくもりはすぐに冷めてしまうのだから。





それは突然だった。

朝起きてどうにも熱っぽい感じがした。でも昨日病院に行ってきたのでそこで移されたのかなぁと軽い気持ちでいた。一先ず解熱剤を飲み再びベッドに潜り込む。しかし次に目覚めた時には最悪の状態になっていた。

「はぁ、はッ……もしかしてっ」

ヒートだ。ずっと抑制剤で制御していたのでその前兆の感覚というものをすっかり忘れていた。
なんとかキッチンまで這って行き、コップも使わずに蛇口から直に水を飲む。髪も襟周りも袖も濡らしたが当然、身体の火照りが覚めるわけでもない。

吉田君、と唇を微かに動かし名前を呼ぶ。
変わらず荒い息をしながらリビングに戻りテーブルの上の携帯を取った。二つ折りのそれを開けば画面には十二時四十八分の時刻が表示されている。学校ならば昼休みが終わるかどうかの時間帯であろう。

大して人も登録されていない電話帳から『よ』を引いて吉田君に電話を掛ける。出て欲しいと願いながらワンコール、ツーコール……そして四回目のコール音を聞き終わる前に電子音が途切れた。

『もしもし?』
「よ…しだ、く……ッ」
『……ヒート?』
「うっ……ッ」
『すぐ行く』

通話が切れたのと携帯が手から滑り落ちたのはほぼ同時だった。だからなんて言ったのかも聞き取れなくて、部屋の中には自分の荒い息だけがこだましていた。

吉田君は私の状態を察してくれただろうか。お願いだから早く来て、と心の中で何度も叫ぶ。しかし吉田君の学校からここまでは少なくとも三十分はかかる。彼が特別な移動手段を持ちえない限り瞬間移動のようにすぐには来てくれない。

自分の荒い息遣いと秒針の音だけが耳に届く。何故こんなにも時が進むのが遅いのかと行き場のない感情に頭を掻きむしる。このままだと頭がおかしくなりそうだ。

「はッはッ……っ、あ!」

ぐつぐつと煮えたぎる脳みそがあることを思い出させる。
ローテーブルに手をついてよろけながらも立ち上がる。そしてベッドやラック、壁に体をぶつけながら脱衣所まで急いだ。

洗濯機の上にはホームセンターで買ってきて付けたラックがある。その一番上は私の身長では届かなかったからずっと使っていなかった。でも吉田君がこの家に出入りするようになり、着替えをそのスペースに置いていたのだ。

「届かないッ…はぁ、オオカミの力があれば、こんなの……!」

独り文句を言いながら必死に手を伸ばす。ヒート状態ではどうにも知能すら下がるらしい。風呂場には浴室椅子があるというにも関わらずそれを使おうという思考にまで辿り着かなかった。

だから最終的に洗濯機ごと蹴ってラックの足場を壊した。今までオオカミに頼ってきた分、契約を解除した後でも物理で解決するという手段が身に付いたままだった。
結果的に脚は痛いもののラックを壊し目当ての物を手に入れることが出来た。
洗濯済みの衣類の雪崩を頭から被り、その場に座り込む。

「うぅ……はーっはーっ…うッ」

ジャケットやズボン、シャツや肌着を手当たり次第に掴んで匂いを吸い込む。洗剤と柔軟剤の香り、しかしそこには吉田君の匂いが残っているような気がした。
この光景だけ見られたら私は間違いなく変態であろう。しかし常識や世間体を考える余裕すらない。

「うっ…ひっく…ひっ」

これはオメガの本能でしょうがないこと。だけど野生動物を思わせる自分の行動には悲しくなった。現に今も泣きながら、しかし散らばった服で身の回りを囲い、その真ん中で衣類に顔を埋めている——ネスティングと呼ばれるこの行為は『巣作り』ともいわれる。性行為に及べる場所を誰に教えられたわけでもなく作っていた。

ガタ、ガタン——

扉が開く音。次いで「うッ」というくぐもった声がした。
しかし音よりも先に匂いで分かった。周りの衣類など比でもないほどに香る強者アルファのフェロモン。それにより一度はまだマシになった動悸が酷くなる。

「あー……キミの匂い、こんなにきつかったっけ?」

衣類に埋めていた顔を上げる。見上げた視線の先には学ラン姿の吉田君がいた。しかしいつものような余裕もなく壁に肩を付け、重心を預けながら立っていた。彼の息遣いもまた荒く、かなり急いできてくれたのか額には汗が滲んでいた。

「よ…よしだく……」
「わかってる」

ボタンを一つずつ外すわけでもなく無理やり引っ張り学ランを脱いだ。弾け飛んだボタンがばらばらと床に散らばる。
そして二歩で距離を詰めてきて床に押し付けるよう覆い被さった。その瞬間に香った強烈な香りに息苦しくなる。あんなにも求めていた匂いなのに肺いっぱいに吸い込もうとしてもうまく呼吸ができない。只々、息苦しさが襲ってくる。

「はッはッはッうッ……が?!」

助けを求めたいのに声も出ない。しかしそれを物理的に抑えるかのように吉田君の左手が喉元を絞めていた。膜の張った瞳で焦点を合わせていけば目の前に吉田君の顔があった。彼もまた苦しそうな表情を浮かべている。

「ぁ……んっ」

そして顔が近付いてきたかと思えばそのまま口付けられた。喉元を締め付ける力は弱くなったり強くなったり、私の呼吸に合わせて加減が変えられている。

「っ、んん……ふぁ」
「ン…はッ、ンン」

混ざり合う水音。身体の火照りはまだあるが息苦しさは徐々に緩和されていく。次第に全身を強張らせていた力が抜けていき吉田君の肩に手を付いて自分の体を支えた。そのタイミングで唇が離れていく。

「はぁ…はぁ……」
「もう大丈夫?」
「だいじょばない…けど、だいじょうぶ」
「はははっ何それ」

互いのフェロモンに当てられているというのに理性を保つためにいつも通りの会話を心掛けているようだった。でもやはり本能には抗えないのか彼の首筋に顔を埋めた。安心する匂いだ。

「なんで首絞めたの?」

だが先ほどの行為を許したわけではない。今回は以前、顔を叩かれた時のような理由がない。

「過呼吸だったでしょ。だから一度息を止めようと…イテッ」
「もっと!他に!やり方が!あった!」
「ごめん、俺も余裕がなかったんだ」

振り上げた拳で胸を叩く。でも効果はいまひとつのようで拳は白いシャツの上をするすると滑っていった。それと同時に吉田君の心臓も激しく波打っているのが分かる。彼も本当に余裕がないらしい。

「向こう行こう?」

そして私の手首はあっけなく捕まえられた。首筋に埋めていた頭をゆっくりと持ち上げれば吉田君と目が合う。ここまでの至近距離で見つめ合ったのは初めてだった。だからこそ彼の瞳が真っ黒ではなく、僅かに青が混ざっていることに気が付いた。虹彩の奥、それは深海を思わせるほどの薄暗い青だった。

「向こう?」
「ベッド」
「ここがいい」
「狭い」

せっかく作り上げた巣はお気に召さなかったらしい。しかし、二畳にも満たない場所でするにも無理がある。だからここは素直に諦め、再び吉田君の首筋に顔を埋めしがみ付いた。

「じゃあ連れてって…?」

身体の火照りは覚めずに脳みそも熱に浮かされたまま。考えるのも億劫で怠い。欲のまま、本能のまま、身を委ねるのがどんなに楽か。
今までのちっぽけなプライドも意地も見栄も全部捨てた。それだけの信頼も特別な感情もすでに彼に抱いている。
吉田君は囁くように小さく笑った。息が耳にかかってくすぐったい。

「仰せのままにお姫さま」

そうして軽々と抱き上げてベッドまで歩いていく。時折、壁やラックにぶつかりながら早急に脚を動かしていた。

「痛かったらごめんね」

そしてベッドの上で覆い被さり、私の喉元に噛み付いた。