契約内容
朝霧が残る草むらを踏みしめる。葉に付いた雫がズボンの裾を濡らしたがこの後晴れるのは問題ないだろう。それは天気予報を見てきたからではなく、この地に住んでいた経験からだ。今となっては放射冷却という言葉で説明をつけられるが、朝に霧が出ると晴れる、というおばあちゃんの知恵袋を当時は人生経験の賜物だと尊敬していた。
「B級ホラー映画の舞台になりそうだね」
失礼な、と言いたくなったが吉田君がそう言いたくなるのも分かる。ここを離れて三年も経っていないのだが久しぶりの故郷はどうにも荒れているように思えた。
「とりあえず私が住んでた家に行ってみたい」
「分かった」
ザッザッ、と砂利を踏み締め村の方へと進んでいく。右手には手入れのされていない畑が広がり、傾いて立つ案山子の腕にはカラスが一羽留まっている。そして左を見れば蔵付きの戸建ての家がある。その垣根は手入れされていないのか道を隠してしまうほどに緑が茂っていた。
それからは家と畑が交互に現れるがここである疑問が生まれる。
「誰にも出会わないね」
「だね」
そう、人がいないのだ。小さな集落とはいえ三百人程の人口は有している。だというのに誰一人いない。畑仕事をする男性も井戸端会議をする女性も、虫取りや泥遊びをする子供もいない——廃村という言葉を使いたくなるくらいには荒れていて誰もいなかった。
「着いた」
風が木々を揺らす中、その家だけがどこか湿っぽく陰湿な空気を放っている。古い家だと言えども瓦屋根は一枚も剥がれておらず、窓ガラスだって割れていない。でもどこか人を拒絶するような霞がかかっていた。
「ここがキミの家?」
誰にも会わずして辿り着いた一軒の平屋。塀に残された心無い言葉のラクガキがオメガ性として迫害されていた時のことを思い出させる。現に今まで平穏だった村に悪魔を呼び寄せてしまったこともあった。そのうちの一匹が狼の悪魔だった。
「うん。とりあえず入ってみるけど吉田君は待ってる?」
狼の悪魔は言葉を話せた。だからこそ取引を持ちかけてきたのだ——「
村にとってはいいこと尽くしのその誘い。厄介者を処分できるだけでなく今後の安全も約束されるのだ——言わば生贄だった。
「何言ってんの。ここまで来たら付き合うよ」
塀はあるが門がない家の敷地へと足を踏み入れる。軽トラックも置かれている納屋は固くシャッターで閉め切られており、その周囲は膝丈にまで伸びた雑草で道がふさがれていた。しかし母屋の玄関までの道のりはまだ残されている。記憶を辿る様に飛び石を一つ一つ踏みしめた。
そうして一つ深呼吸し、玄関戸へと手を掛ければ鍵を回さずともスッと開く。中も案の定、埃っぽくて湿度が高かった。
「土足でいいよ」
そう吉田君に言って家の奥へと進んでいく。閉め切られた廊下に明かりはないが数年ぶりであろうとも家の構造は覚えている。だから台所を通り過ぎ、仏壇に手も合わせずに居間を抜けて縁側を目指す。
しかしそこへ近づくにつれ心臓が嫌な音を立てる。だが、それと同時に脳内の霞が晴れていくかのような感覚を覚えた。それが脚をさらに加速させる。目に見えぬものの正体を暴くかのように縁側の引き戸を開け放とうとする。が、建付けが悪くなっているのか閉ざされたままだった。
「え、ちょっ」
だから壊した。人ではない右腕を振り回してひと思いに破壊した。
戸があった場所から風が吹き込む。室内よりはまだ清潔な空気のように感じた。しかしそれも一瞬で目の前の光景に目を見張ることとなる。でも私が驚くことはなかった。
「これって本物……だよね」
裏庭は人間の頭部の骨が山積みになっていた。しかし所々に長い骨が落ちているのも見える。確かW毛Wが嫌いなのだと言ってたっけ。だから髪がある頭と、男性によっては腕や脛を吐き捨てていた。その時の惨状はよく覚えている。
「この村の人達だね」
眠っていた記憶が色づいて思い出される。
彼女は問うた、あの人の名前は何か。そして私がその名を伝えれば手を重ね合わせ捻るような仕草をして対象の人物の体を捻じ曲げていた。そうして圧縮された人間をオオカミは一人一人平らげていった。
真っ白な頭で淡々と名を答えていき、ついにその場は私と彼女、そしてオオカミだけになった。
「じゃあ今から私の言うことを復唱してね」
「はい」
「三百二十九名の命と引き換えに私に力を与えなさい」
「『三百二十九名の命と引き換えに私に力を与えなさい』」
「……うん。これでオオカミの力は貴方の物だよ」
トパーズのように煌めく瞳の中には吸い込まれるような波紋が広がる。それに魅せられて私は彼女に着いて行ったのだ。いつかマキマさんの番になることを夢見て、彼女の支配に溺れたのだ。
「何故こんなことに?」
両親が命と引き換えに、私に危害を及ぼす者を殺すよう契約したのではない。
「この人達を殺したの、私だ」
狼との本当の契約条件は村人全員の命と引き換えに戦う力を与えることだ。
「順を追って話してもらってもいい?」
吉田君は私を咎めるわけでもなく恐れる様子もなく静かに聞いた。
そのおかげでこちらも気負いせずに思い出したことをぽつぽつと話していく。
肉が腐り落ちた人骨の山は木々の隙間から覗く日の光を受けて神秘的にさえ思えた。彼らは目の前にいる罪人を見ても尚、沈黙を貫いている。
「とっくにマキマさんからの支配からは解放されてたのにね。今になってようやく思い出した」
私自身は確かにマキマさんの支配を受けていたがオオカミはその支配下にいなかった。だからこそチェンソーマンとの戦闘時に私は自我を保っていられた。
マキマさんが直接、狼の悪魔に手を付けなかったのは自分の気配を残さないためだ。悪魔の餌である私が支配の悪魔の所有物だと知られれば寄ってくるものも減る。だからこそマキマさんはオオカミを支配しなかった。
「キミ自身が辛い記憶の一部を抑制したんだろうね。解離性障害、確かそう呼ばれていたと思う」
夢から覚めたような感覚だった。そしてさらに現実を見せつけるかのように自分の脳から記憶のピースがバラバラと剥がれ落ちていく。
背筋をシャンと伸ばして胸を張った父親も、陽だまりのような温かな雰囲気の母親もいなかった。
現実にいた父は私に背を向けて酒を煽っていた。母はいつも泣いていた。
「へぇ吉田君は物知りだね」
「……大丈夫?」
「なんか、なんだろう。どこかで、やっぱりそうだったのかぁみたいに思う自分がいるんだ」
涙が出ないのは私が
「私は人殺しだね」
しかしだからこそこの惨状も一つの運命だと、そう正当化しようとする自分がいる。これも解離性障害のなごりだろうか。でもそう考えないと頭がおかしくなりそうだった。
「実際に手を下したのはあの人だろ」
マキマさんはどこまで計算済みだったのだろうか。私を支配すること、狼の悪魔と契約させること、公安でデビルハンターをさせること。それだけでなく、この村でオメガ性の人間が生まれてくることも織り込み済みだったのなら……
「それでもっ…!」
「いいや、支配の悪魔が殺した。キミはただ名前を教えただけだ」
支配の悪魔がどういう力を持つ悪魔なのかは知らない、それでも彼は私のせいではなかったと言い張る。
その言葉がただの慰めでも同情であっても今の私にはどうでもよかった。
ただ、今の自分を肯定してくれる存在がいる。その事実だけで救われたのだ。
山積みの骸の上にカラスが一羽留まった。しかし不安定な足場だったためか太陽光により脆くなっていた骨が砕け頭蓋骨が崩壊する。その粉塵はカラスの羽ばたきにより風に流され飛んでいった。
そのようにしていつかここから跡形もなく消えていくのだろうか。それとも心霊スポット化してテレビで取り上げられるのが先か。どちらにせよ私がここに来ることはもう二度とない。このことは忘れずに、しかし記憶の底に蓋をして一生を生きていくのだろう。
そして私が今考えなければいけないのは終わった過去のことではない。
それは吉田君も同じだったらしい。
「でもこれで一つはっきりした」
「何が?」
これから先の生き方を決める。
三百二十九人分の命の上で生きていく自分のこれからを。
「悪魔との契約主はキミだ。俺がオオカミに認められなくてもキミ次第では契約を解消できる」
そうは言うが、吉田君はとっくに悪魔にも認められていたのだ。そうでなければ昨夜、私にキスをした時点できっと彼は死んでいた。
「キミはどうしたい?」
そして私自身もアルファという存在を受け入れていた。もう薬では抑えられないほどに本能的に彼を求めている。内に籠る熱が抑えきれなくなって少し離れるだけでも不安がる自分がいる。
「……オオカミ」
埃の溜まった縁側に、お構いなく座り込み全身を脱力させた。名を呼べば三メートルほどの三つ目のオオカミが現れる。姿を現せばじゃれてくることも多いのに今日はそれがない。もう私の言わんとしていることを悟ったのだろう。
「貴方との契約を解除します」
そう言えば山に木霊するほどの遠吠え一つ残し姿を消した。随分あっさりとした別れだった。といっても悪魔からしてみれば契約の代償は受け取り済みだから損もなかったのだろう。
「それがキミの答え?」
これで私は普通の人間……いや、オメガと言う劣等個体になった。これからは悪魔に襲われても戦う手段がない。他のアルファに見つけられても逃げる手段がなくなった。社会的カーストにおいて下流階級にいる人間。もう一人では生きられない。
「私を吉田君の番にして」
だからこそ一年前よりも昨日よりも、一分前よりアルファを求める。でもその相手は吉田君がいい。吉田君でないと意味がない。それは本能なのか、それとも心という抽象的な概念がそうたらしめているのか。
「おいで」
彼が掴んだのが先か、私がしがみ付いたのが先か。
どちらともなく求め合えば快晴を思わすすっきりとした空気が辺りを満たす。
目の前に積まれた骸の上に今ある幸福が築き上げられている。その事実を決して忘れてはいけない。
それでもようやく曝け出せたこの感情に、今はただ身を委ねていたいと、そう思った。