最期に笑うは徒花の

うつらうつらとしていれば外から男の声がした。

はっとして目を覚ませば読みかけの小説は机の上に落ちている。せっかく本革で作られた栞を貰ったが、その役目を与えることはできなかった。

外から再度、声が掛けられる。
すっかり夜も更けていて薄暗い部屋では壁掛け時計すら確認できない。
机の上の小さな灯りを頼りに声の方へと向かう。
わざわざ部屋の明かりをつける必要もないだろう。何故なら、こんな夜更けに訪れる者など一人しかいないのだから。

「どうされました?」

部屋の戸をわずかに開ければ榑縁を挟んだ庭から夜風が吹き抜ける。
あぁそうだ、今夜は雨戸を閉めなかったのだ。満開を迎えた金木犀の香りを楽しみたいというちょっとした気まぐれだった。

「夜這いや」

私の問いかけに男は一言だけ返し戸を大きく開けた。
最後に見えた外の景色に月はなかった。新月の晩に夜這いなど、確かに間違ってはいないのだが私は軒下に目印をぶら下げてはいない。しかし、だからこそ部屋に押し入ることはせずに声を掛けたのだろうか。意外にも律儀な男である。

そんなどうでもいい感想を脳内で述べていたら男がすでに目の前まで来ていた。そして覆いかぶさるように抱きしめられる。

遠慮なく体重を掛けられ一歩、二歩、と後退する。でも三歩目にはなんとか踏み止まって男の背に腕を回した。
擦るように背中に手を這わせると一層強く抱きしめられる。私の首元に顔を沈め深く呼吸をしていた。くすぐったくて少し距離を取りたかったけれど突き放したらより強く抱かれそうだったので我慢した。これ以上力を籠められたら骨が折れてしまうと私の本能が告げたのだ。

どのくらいの時間そうしていたかは分からない。
もしや寝たかと不安になったところでゆっくりと体が離された。
そして男は当然のように私の頬に手を添えて顔を近づける。その行為に思わず流されそうになるが、唇が触れる既で男の胸を押し返した。

「今夜はお約束の日ではないでしょう?」
「だから夜這い言うたんや」
「寝室を同じにしたと伺いました」
「誰が言うたん?」
「奥方がわざわざ私へご報告、っ——」

最後まで言い終わらぬうちに唇が塞がれた。そして男の舌が無遠慮に口内を搔き乱す。それに応えるよう自分の舌を伸ばしたところで後ろ手に頭を固定された。逃げるつもりもないのだからこんなことしなくていいのに。

この状況を冷静に捉える事はできたが私は完全に酸欠であった。それと先ほどからつま先立ちの状態のため脚が攣りそうである。自身が屈むではなく私を自分のところまで持ち上げるあたり、この男は人に合わせるということを知らないらしい。

ようやく解放されたものの、次は私の手首を掴み敷かれた布団へと押し倒された。驚きつつもここまでの展開は予想できた。

私の上に跨って再び首元に顔を埋められる。先ほどは金木犀の香りで分からなかったが男の体からは甘ったるい香りがした。着ている服からだろうか。女ものの香の匂いはこの男の趣味ではない。

「奥方に怒られてしまいます」
「あいつは俺の気に障ることは言わへん」

その怒りが全て私の方に向かってくることをこの人は知っているのだろうか。
顔を上げた男の目は熱を帯びていた。でも私は彼を現実へと引き戻すため淡々と事実を述べる。

「取り決めたお約束と違います」

机の上に置かれた小さな灯りが男の横顔を照らす。
彼は大層不機嫌そうな顔をしていた。

私の帯に大きな手が掛かり乱暴にそれを解いていく。次に襟元に手が延ばされ素肌が外気にさらされた。今さら裸を見られようとも羞恥に駆られることはない。憂い反応を希望されるなら演技をしてもいいのだが、その行為すら煩わしいと思われるほどには抱かれていた。

男の骨ばった指が肌を滑る。
鎖骨を、谷間を、腹を、臍を——そして下腹部にまで辿り着きぴたりと止まった。円を描くように指が這う。身動ぎしようとすれば真下にある臓器をぐっと押し込まれた。

「なぁ、自分の立場わかっとるん?」

そんなこと一度だって忘れたことはない。
生まれたときから決まっていた運命を何年もかけこの身に分からせてきた。頭で、というより体の方がよくわかっている。その証拠とばかりに男に触れられているところが疼いた。

「もちろんです。私は貴方様の胎でございます」

男は満足そうに笑って触れるだけの口付けをした。
これからの行為を考えればそれはあまりにも優しすぎた。

部屋の戸は開いたまま。
流れ込んだ夜風が金木犀の香りを運ぶ。確か花言葉は“謙虚”、“真実”だったか。いや、“誘惑”、“陶酔”との意味もあった気がする。

男の息遣い、女の嬌声、体が触れ合う音に金木犀の香り———
唯一の救いは月のない夜だったということか。

互いに陶酔した秋の夜長、未だに朝陽は昇らない。





開け放たれたままだった戸。
そこから差し込む光で目が覚めた。

体に巻き付いた男の腕を引きはがし声を掛ける。呼びかけには気づいたようであるが起きようとする気配はない。さすがに苛立って肩を揺すってみたが鬱陶しいとばかりに手で払われた。いつもなら好きなだけ寝かせてあげるのだが勝手に来られたからには早々に帰ってほしいのだ。できれば奥方に見つかる前に。

「おはようございます」
「んー……」
「朝にございます」
「…………」
「お時間が、」

再び声を掛けたところで腕を掴まれ布団の中へ引きずり込まれた。顔を厚い胸板に押し込められ、声を掛けるどころか息をするのも難しくなってしまった。
そうしてため息一つも付けぬまま、私は全てを諦め仕方なしに目を閉じた。



自分の立場はよく理解しているつもりだ。
京都に門を構える御三家の遠縁にあたる我が家系も類に漏れず呪術師を生業としていた。当然の如く女の地位も低い。相伝ではないものの術式を持って産まれた私とて扱いは使用人も同然だった。

家の雑用は勿論、父が会合に出掛ければその付き人に。憂さ晴らしのために兄達から暴力を振るわれるのもしょっちゅうで、初潮がきた私を一番上の兄が犯したことも内密に処理された。

男である兄達は母屋に住み、私は屋敷内の小さな離れで生活をした。きっと私はこのまま朽ちていくか、親の決めた相手の元へ嫁ぐのだろう。だが、処女でなくなった私に価値があるのか否。

逃げ出す勇気はなかったけれど、いつかこの地獄が終わりますようにと私は理不尽に堪えながらずっと願っていた。

———それが、叶ってしまった。
如意ヶ嶽で五山送り火が行われた夜のこと。お精霊さんを送り届ける煙が上がったかと思えばそれと同じくらいの炎が母屋に燃え広がった。火元がどこかは分からずじまい。しかし柱も壁も、人すら跡形も残らずに燃え尽きた。父も兄達も、使用人も全て灰になった。
残ったものは離れと庭と数種の呪具、そして私というW物Wだけだった。

それを丸々引き取ったのが本家の人達だった。父に兄弟はいたがそれを乗り越えて彼等が全ての所有権を有したのだ。呪具と土地が目当てなのだろう、そう思っていたのに彼等は私までもを引き取った。

「ちょうどええ子がおるなぁ。お前は今日から俺の物や」

そして私は次期当主候補と呼ばれる男の所有物となった。
しかし、分家の女が本家の母屋に住むわけにはいかない。そのためこの離れが用意されたというわけだ。

部屋は寝室と居間の二部屋。それとは別に小さな台所がありトイレと風呂がある。そして縁側を挟んで広がるのは立派なお庭。母屋のそれには及ばないがここには金木犀といった樹木や白つつじの低木、池までもが存在する。水の音は柔らかく、花が咲けば美しい。しかしそれと同時に逃げ場はないと教えられる。

この離れと外を繋ぐのは一本の渡廊下のみ。しかもそこには鍵付きの扉が付いているので行き来はできない。鍵を有しているのは彼と、私の食事係である使用人だけだった。



「お目覚めですか?」

太陽が真上に来た頃にようやく目を覚ましてくださった。
二度寝した後、それでも彼より早く起き自分の身支度をした。そうして彼の着替えを用意し私は声を掛けたのだった。

「ん………あぁ」
「お着替えとお水をご用意しております」
「水」
「はい」

水差しから注いだグラスを手渡せば、一気に煽り飲み干してしまった。もう一杯いりますか?と聞けば首を横に振られたので空になったグラスを受け取る。

「これ、洗ったんか?」
「はい。血抜きもできております」

彼の着替えは、以前任務後に直接ここへきた際に着ていたものだった。返り血と泥で汚れていた服を置いていかれたので綺麗にしておいたのだ。

「捨てたらよかったんに」
「許可なくお捨てはできません」

こういう仕事は得意だ。我が家も裕福な家庭ではあったが任務の度に新しい物を用意することは流石にできない。故に、このような汚れ仕事は私がずっと引き受けていた。

「お前は出来がええなぁ」

着替えるなら手伝った方がいいのか、それとも外にいた方がいいのか。そんなことを考えていたら手が伸びて来て頭を撫でられた。それが頬まで流れるように滑り、擦られる。

「あ、の、頬紅が付いてしまいます」
「別にええよ。あぁ、今日は紅も差しとるんやな。俺が選んだ色がよお馴染んどる」

ツツッと指先で唇を撫でられ言葉が詰まる。
視線を右へ左へ動かして、最後は膝の上に置いた自分の手を見ることで落ち着いた。

「次は着物でも買うたるか。何色がええの?」
「私如きに滅相もございません」

外に出られないのなら着飾る必要もない。それに彼が来るのはほとんど夜だ。買い与えることに何の意味があるのだろう。

「普段ええ子にしとるからな、ご褒美や」

かと言ってここで断ることは彼を否定するに値する。だから少し悩んで——

「撫子色のものが……」
「へぇ可愛らしゅうてええな」
「母が好きだった花なんです」

私を産んですぐに実母は亡くなった。母との思い出も、顔すらも覚えていないけれど離れの周りにはたくさんの撫子が咲いていた。だから多分、好きな花だったのだと思う。

「ふぅん。ええよ、次会う時までに用意したる」
「ありがとうございます」

最後にもう一度私の頬を撫で、彼の手は離れて行った。

支度を終えた彼を渡廊下の手前まで見送る。
鍵が外れる音が聞こえ、深く頭を下げた。

その扉の先の景色を、私は未だによく知らない。





自分が彼の妾であることは理解している。

私がここへ迎え入れられるときには既にご結婚をされていた。未だに往古の考え方が残るこの家では側室の一人や二人いてもおかしくはないのだろう。

来て初めの頃、本妻である奥方にお会いしたことがある。自分の影を自在に操ることができる彼女は、相伝持ちを産むのではないかと期待されて迎え入れられたらしい。確かに十種影法術に通ずるものがあるのかもしれない。

そんな自分がいながらも妾を取った男にやや苛立っていたようだった。
その様子に、どのような顔をしたのかは忘れたが「何卒、宜しくお願い致します」と頭を深く下げたのは覚えている。立場は分かっている、という最大限の意思表示であった。

それ以来、奥方とは顔を合わせていなかったのだが先日わざわざ離れにまでいらっしゃったのだ。

そして今日も、昼とも夕方とも言えぬ時間帯に彼女は姿を現した。



「わざわざこのような場所にまでご足労を……申し訳ございません」

別に呼んでもいないのだけど…
その言葉は飲み込んで、奥方とその侍女である女性を居間へと案内する。侍女の分までお茶を用意しようか迷い、しかし彼女は席には着かず部屋の隅に腰を下ろしたので奥方と自分の分だけを用意した。きっと口は付けてくださらないのだろうけど。

「気になさらんといて。あんたに母屋の敷居を潜らせるわけにはいかへんのやさかい」
「はい」

肯定以外の言葉を発してはならない。
それは決して奥方だからというわけではなく私がそういう人間として育てられたからだった。

奥方は視線を私から外し隣りの部屋を気にするような素振りを見せた。そこは寝室だ。
そして何の脈絡もなく「実は寝不足なのよ」と眉を八の字にさせて視線を私に戻した。

「昨日は獣の声煩おして寝つきが悪かってん。離れの方から聞こえたようやったのやけどご存じへんかしら?」
「いえ、特には……」

呪霊となれば話は別だが例え犬を飼っていたとしてもその声が母屋に届くのはあり得ない。私がここに来た時の記憶にはなるが、この離れは書庫や物置部屋、さらには稽古場を超えた先にある。ましてや戸を開けたまま事に及んだところでその声が聞こえるはずがない。

奥方の言わんとしていることは分かる。
だから私は曖昧な返事をした。

暫しの沈黙。
私は彼女の着物の重なり部分だけをじっと見ていた。膝の上に置いたままの指先は熱を失っていく。しかしそれに比例して汗が滲んできて自分の着物がしっとりと濡れているようだった。

「うちら夫婦がおんなじ寝室になった言うたわよね。わざわざこの私が離れにまで出向いてあんたに教えたったんやさかい忘れたなんて言わせへんわ」

真っすぐに、射るような視線だった。それは私の心の臓にまで突き刺さり、一瞬息が止まる。この感覚は懐かしい。かつての家の者たちから向けられていたものとよく似ていた。
私は静かに「はい」と返事をする。

「そやのにあんたは正妻への配慮もできず、あろうことか取り決め日以外に旦那様の時間を奪うやら失礼にもほどがある」

私が彼と会う回数を決めているのは奥方であった。正確には奥方が自分の父親経由で現当主様に話を付けたらしい。彼女の親も、やはり自分の娘に跡継ぎを作らせたかったのだろう。

これは初対面の時に奥方に教えられたことだった。
自分の方が価値がある。
そしてこの御三家に物言えるほどの力があるとの証明でもあった。

「申し訳ございま…ッ!?」

机を挟んで向かい側に彼女はいる、にも関わらず私は胸元を押され後ろへと吹き飛ばされた。起き上がろうとするも両腕を後ろに回した状態のまま体を拘束される。状況を確認するため目を開けようとすれば顔を蹴られ、左のこめかみに体重を掛けられた。畳に顔を押し付けられイ草と、そして血の匂いがした。

「ただの胎が出しゃばらんといて。うちにだって世継ぎを産む権利があんねん。影操術式を持つ私が相伝持ちの子を産む可能性はある。そやさかい、あまりええ気にならんといてくれる?」

私の体を拘束しているのは奥方の影だった。それは枝分かれをし、鞭のようにしなったかと思えば背中を思いっきり叩かれる。実際に見るのは初めてだが、これは確かにすごい。

「……以後、気を付けます」
「遅い」

再度顔を蹴られ、そして彼女の影がギリリと体を締め付ける。
こういうときは黙っていた方がいい。逃げるなどはもってのほか。謝罪の言葉を乱立させるよりもこの方が早く終わる。それは私の経験則から導き出された答えだった。

せめて楽な体勢をと、胎児のように丸くなった。しかしそれが気に入らなかったらしく背中を再度影で打ちつけられた。悪手だったか。

時折、小さな呻き声をあげながら折檻に耐える。
どれくらいの時間そうしていたかは分からない。
次第に彼女からの言葉が理解できぬほどに頭がぼんやりとしてくる。気を失えたらどんなに楽か。しかしそれが叶う前に嵐は収まった。

「後処理を」
「賜りました」

体の拘束が解かれるが当然ながら動けそうにない。が、体感として骨は無事なようだった。
今まで微動だにせず控えていた侍女が私の元へ歩いてくる。そうして印を結び術式を発動させた。先ほどまで視界もやけに狭まっていたのだがくっきりと見えるようになった。目元の腫れがひいたのだ。しかし、治ったのは見た目だけで痛みは今も残っている。

とっくに髪は乱れていた。そしてそれを無遠慮に鷲掴まれ持ち上げられた。ツゥ、と鼻から食道に液体が伝い反射的に喉を鳴らす。
奥方は私の痣がなくなったことを確認すると嫣然し、手を放して私の頭を落した。ピシャッと赤の水が僅かに跳ねる。

「この事は他言無用になります。旦那様に言おうものならその舌を引きちぎるわ」

一方的な縛りであっても拒否権はない。
奥方は優秀だ。豊富な呪力とその才能に、今の私では何も出来ない。

「返事は?」
「は、い……」

奥方と侍女が出ていくのを私は黙って見送った。
離れに続く扉が開錠され、そして再び施錠される。
しばらく動く気にはなれず、机の上に乗った口の付けられなかった茶器を見ていた。じっとして、しかし開け放たれたままの戸から入る風の寒さに身震いする。寒さに耐えかね、ようやく上体を起こした。

顔も叩かれ痛みはあるが痕が残らなくて本当に良かった。それとお腹。内部の修復がされないともなれば子宮に怪我を負うわけにはいかない。
救急箱の中に役に立ちそうな薬はあっただろうか。そして湿布や塗り薬はこの状態でも効くのか。色々と気になることはあるがそれよりも———

「畳が血で汚れてしまったわ」

服の染み抜きの要領で落ちるのかしら。
せっかくならこちらも直してくださればよかったのに、と侍女である彼女をほんの少し恨んでしまった。





深夜というには些か早い二十二時を過ぎた頃、離れの扉が開かれた。

鍵の掛かる音が聞こえれば今日こそ栞を挟んで本を閉じる。湯浴み後の身体を冷やすまいと矢絣模様の羽織りを引っ掛け部屋を出た。

「お帰りなさいませ」
「おん、戻ったで」

いらっしゃいませ、ではなく出迎えを申し付けられたのはいつだったか。敷地内の離れでこれは不思議な光景だ。でも私達しかいないのだから笑う者などいないのだ。

頭を下げ彼が先に行くのを待つ。女が男の三歩後ろを歩くのはどこの家でも変わらない。
しかし此方へと来られる気配がない。動かぬ彼を不思議に思いゆっくりと顔を上げた。

「どうかなされましたか?」
「俺がここに来うへん間、誰か来たか?」

心臓が僅かに跳ねる。
しかし、決して表には出さずにいつもの調子で返事をする。

「食事を運んでくださる使用人の方が」
「他は?」
「存じ上げません」

本当の事を言えば私の舌は引っこ抜かれる。はたまた舌切り雀のように先が割れるかもしれない。
彼はしばらく私の顔を眺めた後、にこりと人好きの良さそうな笑みを浮かべた。

「せや、約束の物買うて来たで」
「まぁ」

大きな風呂敷包みを受け取る。本当に買って来てくださった。今まで本や栞、花の苗などは貰ったがこれは私が選んだ物。そう思うと、一層特別な物のように感じられた。あの家にいた頃、私が自分の意思で手に入れられた物などなかったのだから。

「早よ着てみ」
「今からですか?」

彼は廊下を歩き始める。自分の前を過ぎ去るのを待っていれば腰を抱かれ隣を歩かされた。広くもない廊下を、二人できゅうきゅうになりながら歩く。

「せやで。着付けまではやらんでええから羽織ってみ」
「はい」

寝室まで辿り着き、風呂敷を解いて桐箱を開ける。
柔らかな撫子色、そしてその生地には白の撫子の花までもが描かれていた。雪輪文様の帯も納められている。二つも頂いてしまった。特別な日でも何でもないのに。

「こんなに上等なものを……嬉しいです、ありがとうございます」
「でもそれ既製品やねん。次はちゃんと仕立てたるからな」

呉服屋を呼び付けると言った彼の言葉を右から左に聞き流し、着物を撫でた。私には勿体なくて着られそうにない。いや、でもこのまま閉まっておく方が尚のこと勿体ない。

「着ぃひんの?」
「あっはい」

彼の言葉に我に返り着物を広げる。羽織るにしたって寝巻きの上からではやや不恰好になる。脱いだ方がいいのかと迷っていると彼は立ち上がって私の寝間着の帯に手を伸ばした。

「あの……」
「しゃーないから俺が着替えさせたるわ」

帯を解かれることなど今までもあったのにやけに心臓が煩く音を立てる。しゅるしゅると布の擦れる音だけが聞こえ、むず痒い気持ちになりながら寝間着を脱いだ。
彼は私の後ろで着物を広げ腕を通すよう促した。主人である彼にここまでのことをさせていいのか。しかし声を上げようとすれば「寒いやろ」と素早く袖を通させた。

背中を押され姿見の前まで連れていかれる。
撫子色の上品な着物。
私のために用意されたもの。
私だけのもの。

「素敵……」
「似合うてんで」
「本当に、ありがとうございます」

このまま抱きしめて寝たいくらいだ。
しかしそれは叶わずに——もちろん本当にしようとしたわけではないが——骨張った手が伸びてきて肩からするりと着物を落した。
薄着の状態で後から抱きすくめられる。

「ぅッ……」
「どないしたん?」

傷が痛む。あれから何日か経過していたが、うっ血痕の一つもない体では治り具合も分からない。しかし入浴の際は以前の倍の時間が掛かり、寝返り一つ打てないほどの痛みは残っていた。その状態で男からの抱擁を受ければどうなるか、火を見るよりも明らかだった。

「いえ…いきなりでしたので、驚いてしまいました」
「ふぅん」

腕の力が強まり、歯を食いしばった。声は出なかった。しかし痛みで涙が出そうになりそれも何とか堪えてみせた。

「今日は立ったまましてみよか」
「えっ、」
「鏡見ながら。自分の乱れる姿は知っておいた方がええやろ」

そんな男の気まぐれに、当然拒むことはできなくて。
痛みと羞恥で嗚咽と嬌声を吐きながら。涙を流し、腰を振る。男の手が這う感触も、胎の奥に注がれる熱も。全てを一身に受け、最後は蜘蛛の糸が切れるよりあっけなく意識を手放した。

鏡に映った女の姿は、苦しくも幸せそうな顔をしていた。





約束は守ったけれど、それでも彼女は再び離れまでやってきた。

出迎えをしたら大きな包みを持っていた。
何かと聞いたら着物だと言われた。
藤色の包みの中身はきっと女物。
だから自分への土産だろう。
しかし目が合うことなく歩いていく。
きっかり三歩後ろを付いていけば邪魔だと一喝された。
夜の闇に消えていく。
その先には離れしかないというのに。



「それが旦那様から頂いたもの?ただの家畜が図々しい」

何が起こるかは分かったが、分かっていても避けられない。物理的ではなく心理的に。
奥方の影が体に纏わりつき、今日は庭へと投げ飛ばされた。玉砂利のため怪我はないが体が打ち付けられ激痛が走った。まだ前回の怪我は治っていないのだから。

「しかも桜色の着物なんて。そらあきまへんわ、あんたに着る資格はあらへん」
「これは、撫子色で……」
「誰が喋ってええ言うた?」
「あ、…——ッ!」

体が浮いたかと思えば空中に投げられる。次に感じたのは、またも体を打ち付けた激痛。視界に映るは水の粒、そして歪んだ景色。刺すような冷たさと水分を含んだ着物が体を水底へと沈めた。

「我が家系の家紋は桜。その色は私以外に着ることは許されんのや」

池の水面へと浮上すれば影に阻まれ、僅かな呼吸の後に再び沈められた。
これは桜色なんかじゃない、撫子色よ。
これだけはどうしても言いたかった。譲れなかった。唯一の“私のもの”なのだから。

「これ、は桜ではないです。撫子色で、っ」
「うちが桜言うたらそれは桜色やの。身をわきまえなさい」

初めての私の反抗。それはやはり彼女にとって大層面白くないらしい。
何度も何度も沈められて、だが当然のごとく力尽きるのは私の方が早かった。
一度沈んで、そしてしばらく経っても浮上しなかった私は奥方に引き上げられた。さすがに殺すのはまずいと思ったらしい。

玉砂利の上に転がされ、何度か頬を叩かれた。意識を取り戻すのと同時に、逆流した池の水を吐き出す。
はくはくと釣り上げられた魚のような呼吸しかできぬ私を奥方は見下ろしていた。それはまさに強者と弱者、捕食者と被食者、そして本妻と妾の図であった。

「うちに子が出来たらあんたは用なしよ」

しかし去り際の一言は、敗北者のそれだった。

気力だけで立ち上がる。
体は痛い。でも寒さで感覚が麻痺しているのか水に落ちる前よりも気にならない。まだ意識は朦朧としているがこの離れの構造は体が覚えている。

床や畳が濡れることも気にせず上り込み、箪笥から手拭いを取り出した。濡れた着物の水分をそれに吸収させる。それでも追い付かず、帯も着物も肌襦袢も脱ぎ捨てて、バスタオルまでも持ち出して処置に当たった。帯ももちろんだけれど、この着物だけは駄目にするわけにはいかなかった。

だって、唯一の私の物だもの。





四十度近い高熱に魘された。
自分の体よりも着物を優先したのだからしょうがないことだった。

努力の甲斐あって、共、努力の甲斐虚しく、共言えるのだが着物はおおよそ元の状態に戻すことが出来た。ただ、やはり全体的に色落ちをし縮んでしまった。着れなくもないが人前に出るには些か不格好。それに元の良さを知っているだけあって、どうしたってみすぼらしく見えてしまう。

精神的にも肉体的にも参ってしまい、熱を出した。昼になっても布団から抜け出せない。
その様子を見た食事係の使用人がお粥と解熱剤を用意してくれた。それを有難くいただいて、自らを抱きしめるようにして布団にくるまった。


しかし二晩経っても熱は下がらない。味の分からぬ粥を胃に詰めるもそれすら体が拒否し始め、ついには吐き出してしまった。そうなれば当然薬も飲めなくて。
このまま独りで死ぬのだろうかと、久しぶりに考えてしまった。



カタン——という音が聞こえ、反射的に目を覚ます。でも体はやはり動かなく、睫毛をわずかに震わせで瞼だけでも引き上げた。
足音は次第に大きくそして速度を上げて、そのことを理解するより先に戸が開けられた。

「も、うしわけ…、ござい……ま、」
「喋らんでええ!大丈夫か?」

初めて怒られた。でもそれは迎えが出来なかったからではない。そのことが私は大いに疑問であった。
彼は大量の荷物を投げ捨てて私を抱き起こす。

「風邪が、移ってしまいます」
「そんなん言うとる場合か!こんなに窶れてもうて……水、飲めるか?」

こくりと頷けば盆の上の水差しからグラスに水が注がれ口元にあてがわれる。その水を舐めるようにちびちびと飲んだ。それに急かすわけでもなく、私の満足がいくまでゆっくりと水を与えてくださった。

「薬は飲んどるん?」
「……物が食べれずに飲めておりません」
「果物なら食えるか?」
「くだもの…?」

再び布団の上に寝かされる。視線だけで彼を追えば、放り出した荷物の中から何かを取り出していた。一度部屋を出ていき、大急ぎで戻ってきた彼の手には皿に乗った果実があった。大粒の苺は水滴を身にまとい、キラキラと宝石のように輝いて見える。

「一粒でもええさかい、食べや」

再び抱き起され、彼に体重を預けながら口を開く。
その宝石は甘くて少しだけ酸っぱくて、特別な味がした。
大粒のそれを七口ほどでようやく食べきる。でも一つ食べれば次も欲しくなって、気付けば十個も胃に収めてしまった。

「薬飲もか」

二錠の解熱剤を口に含め、水を貰うが上手く飲み込めない。口に含む量が少ないのだ。それは分かっているのだけれど、多く含めば口の端から零れ落ちる。終いには錠剤までも出してしまった。幸い空の皿の上だったからよかったものの、はしたない姿だった。

「すみません…」
「ええよ。せやったら、」

彼は二錠の薬と水を口に含んだ。それをぼんやりと眺めていたら次第に顔が近付いてくる。頬に手を添えられ、親指で強制的に口を開かされたかと思えば唇が押し当てられた。
呼吸するのも忘れていれば生温かい液体が口の中へと流れ込む。初めての口移しという行為に上手く応えられるはずがない。でもここまでしてくださっているのに私が無下にするわけにもいかず、飲み下せるよう努力する。舌がねじ込まれたかと思えば苦い味がして、それが薬だと分かれば口の中に残っていた水をかき集めて流し込んだ。

「ぅ、けほっ」
「はぁ、ッは」

唇が離れれば二つの荒い息が聞こえるのみ。
彼の手は優しく私の背を擦り、私の手は彼の服を掴んでいた。

ようやく呼吸が整えば、見計らったように目が合い視線が交わる。いつもより熱の籠ったその瞳を、薄い涙の膜越しに見ていれば再び顔が近付けられた。
思わず目を瞑れば、唇にちょんと触れ合う感触があった。その後も二度、三度と啄むような口付けがされ、最後は音を立てて離れていった。

「傍におるさかい、安心して寝たらええ」
「ですが、万が一にも風邪を移すわけには…」

横たえさせられ布団を被せられる。
風邪ならとうに移してしまっているだろう。
この時の私は烏滸がましくも彼を欲してしまったのだ。初めて人に看病をされた私は、初めて見たものを親と縋る雛鳥のような気持ちであった。
現に、私の手は彼の服を掴んだままだった。

「病人に心配なんかされたない。ただ、礼は後でぎょうさん貰うからな」

私の手は簡単に解かれて、次は服の代わりに彼の手を握らされた。
それがなんと温かいこと。

「私、もう死んでもいいです」
「簡単には死なさへんわ」

眠りに落ちかけている頭では、その言葉にどういう感情が乗せられていたのかまでは分からない。

でも目が覚めたとき一番に彼の姿が見られたので、私は良いように捉えたのだった。





着物のことをお伝えした。南天を食べに来た椋鳥に気を取られ池に落ちてしまった、と。

「阿保やなぁ」と笑われ数日後、私は来た時以来はじめて離れから出ることを許された。
といっても連れていかれたのは渡廊下を歩ききった直ぐ近くの部屋までだ。彼に案内されるよう付いていけば三人の女性と色取り取りの布地が並べられていた。呉服屋の人たちだった。彼はいつかに言ったあの約束を果たし、本当に着物を一から仕立てるつもりらしい。

彼の命により何種類もの色や柄の布があてられた。あれでもないこれでもない、あれもいいこれもいいの言葉を何遍も聞きながら私は人形のように動かなかった。

離れへ戻ればどっと疲れが押し寄せる。人当たりをして疲れたのだ。
だからその夜はいつもより早めに布団へと潜った。ただただ眠かった。

「この前の礼もろうてへんかったわ」

鍵が開く音がして、急いで出迎えれば抱きしめられた。

「夜這いですか?」

もう寒いので庭を覗く戸も閉め切っている。でも確か今夜は新月のはずだ。

「出迎えがあったならそれは逢引言うんやで」
「まぁ」

逢引という響きが可笑しくて。でもどうしてだか感嘆とも取れる声が出た。そう言った自分が益々可笑しく思えて笑っていれば横向きに抱え上げられた。
驚きと、そして高さからの恐怖でしがみ付けば次は笑われる立場になる。

「もう夜も冷え込むさかい。温まってから寝よな」

お風呂を焚きますか?と馬鹿なことは言わない。
でもその言葉に頷くのは少し違う。
この肯定は、私の欲を叶えるのと同じになってしまうから。
だから返事の代わりに、私は彼の匂いを胸いっぱいに吸い込んで頬を摺り寄せた。



着物は驚くくらい早くに出来上がり、食事係の使用人が他の使用人達も連れ立ってそれを届けてくれた。

他にも既製品と思われるものがいくつかあった。こんなにたくさん、今ある桐箪笥には収まらない。どうしたものかと考えていたら使用人たちが箪笥を勝手に開け中の物を取り出していた。

「あの、」
「今ある物は処分するようにとのご命令です。そのお着物もお脱ぎください」

今ある着物はここに来た時に貰ったものだった。しかし、具合的にも誰かの着古したものではあった。
一人の使用人に急かされ着物を落し、新しいものを着なおした。それはあの人が見立ててくれた南天が描かれた淡黄色の着物だった。池に落ちた私への皮肉半分、そしてこれからの季節に合うだろうということでお選びになっていた。派手な色は苦手だけれど南天の赤は紅唐で、私でも気負いすることなく腕を通せた。

用が済めば使用人たちはすぐに離れを出ていった。
私は箪笥を開けて改めて収められた着物をうっそりと眺めた。この桐箪笥は私の宝箱だ。明日はどれを着ようか、明後日は?その次は?帯留めや髪飾りは何が似合うだろう。

飽きることなく見ていられる。するとカタン——と再び扉の開く音がした。使用人が戻ってきたのだろうか。いや、もしかしたらあの人かもしれない。
私は着物の袖をはためかせ渡廊下へと急いだ。



しかしそこにいたのは、般若の顔をした女だった。
今さら突然の来訪には驚かない。でもこれはあまりにも………

「おくがたさ、」

一直線に伸びてきた影は体に巻き付き、私は無様に転倒した。そしてそのまま引きずられていく。渡廊下に繋がる扉の段差でようやく自分が置かれた状況を理解した。

「奥方様、お待ちくださいませ!私などが母屋に行くなどっ、うぐッ…」

引きずる影がしなったかと思えば頭を廊下の柱に打ち付けられた。意識が跳びかけ、でも床のひんやりとした冷たさが私を現実へと引き戻した。髪をまとめていた簪はぽっきりと折れてしまった。

時折、母屋の人間とすれ違う。使用人である女中等も、炳の所属と思われる男たちも遠巻きに私たちを見ていた。私のことを知る人間など、この屋敷に五人いるかいないかだ。

抵抗することはもちろん、抗議の声も上げずに引きずられていく。
体を柱や段差にぶつけられながら辿り着いたのは、立派な木を中心として造られた庭であった。

色褪せた高麗芝に立つ木の前には池がある。しかしそれが造られたものと感じられないのは年数を掛けて岩に生えた苔のおかげかもしれない。土地の起伏を生かし作られた築山が奥行きをつくる。庭石や草木を配し、今の季節は真っ赤な木瓜が景観を作っていた。離れの庭とは大違いだ。でもこの立派な庭よりも、離れの箱庭の方が美しいと思えてしまった。

奥方の侍女が大急ぎで現れて履物を用意した。当然、私の分はない。奥方は庭へと降りたって、私は転がり落ちてさらに引きずられていく。
下が芝のためそこまでの痛さはない。でもずっと引きずられていた体はもう限界に近かった。

「これはね、私が嫁入するときに持ってきたんよ」

ずっと黙っていた奥方が声を発する。私は顔だけを上げて彼女の視線の先を見た。

「桜はうちの家紋言うたなぁ。そやさかい嫁入り道具の一つとして運び込んだ。この伝統ある名家に、うちの存在が大きく根付くようにと」

言葉を区切り、彼女は私を見下ろす。

「春になると淡おして可愛らしい花を咲かせんねん。うちが着とる着物とおんなじ色の」

影が揺らぐ。鋭利なまでに研ぎ澄まされ大鎌を彷彿とさせる形になった。
今の彼女に私の声は届かないだろう。でもこのままでは取り返しのならないことになる。それは奥方に言えることだった。

「おやめくださ——」
「黙りなさい!」

届いたのは、影で作られた大鎌の先端だけだった。

「奥様、おやめ下さいませ…!!」

控えていた侍女が大慌てでやってきた。
私は反射的に体をうつ伏せにし、背中でそれを受けた。痛いというよりも背中が熱い。心臓は僅かに逸れたか。しかし肺を掠めたのか、胸の痛みと息苦しさを感じる。どんなに空気を取り入れてもそれは体に巡らずに、内側から圧迫されていくようだった。

「まだ死なんといて。早う治しぃな」

抑揚のない声で侍女に命ずる。彼女は青ざめながら震える手で私に術を施した。傷だけでなく痛みまでも引いていく。彼女には人の情があったのか。しかし、痛みは引けども出血をした血液までは戻らない。それにせっかくの着物は破れ、血に濡れてしまった。

「着物は直してくださらないのかしら?」
「は?」

この着物が死装束になったとて後悔はない。ただ綺麗な格好で、綺麗な姿で逝きたかった。
だから彼女は私の外傷と生地だけをなおしてくれたらよかったのだ。

「着物は?」
「え、あ…」

狼狽えた彼女に思わず詰め寄る。
直してはくださらないのかしら。
それとも直せないのかしら。

この人はとても優しい心を持っている。だから私に情けを掛けてくださらないのかしら。
どうせ死ぬなら、あの人に与えられた物に包まれて逝きたいのよ。

「お願いよ」
「あっ……ガァッ!?」

パッ花が咲いたのだ。
それは花火よりも一瞬で、木瓜よりも強い赤だった。
顔にぬるりとした感触があって私の胸元には南天が描き足されていた。これは些か派手過ぎると思っていたら、倒れこんでくる。だから腕を伸ばして受け止めた。

「きゃあああああ!!!」

屋敷の方から悲鳴が上がった。
腕の中の女性は背中に大きな傷を負っていて口から血を吐き出していた。大鎌で切られたような、真っすぐな傷。そこには残穢も残っている。
私は哀憐と慈愛の意味を込めて抱きしめる。すでに事切れていた。

「奥様!?なんてことを…」
「奥方がご乱心だ!自分の侍女に手を掛けた!」
「ち、違う!私じゃないわ…全部この女がっ…!!」

すでに般若の面は取れていた。
男たちに連れていかれるその背を黙って見届ける。

「その者も引き取ります」

血に塗れた彼女を渡し、立ち上がる。
母屋の方は騒々しく、廊下を多くの人間が行き来していた。

あちら側から見れば私も景観の一つになっているのだろうか。その景観の主役である桜を見上げる。春になればさぞかし美しい花を咲かすであろう。

「こんなところに居りましたか…!」

赤を滴らせて佇んでいた私に声が掛けられた。食事係の使用人である。青ざめる彼女に手拭いを渡され、着物に含んだ水分を拭った。そうしていたら取り上げられ、顔と髪を拭かれた。

「あの人になんと説明しましょう…!離れから出られたと知れたら私はっ…それに奥様があれでは鍵とあの件も……」
「もし、」

ぶつぶつと呪文のように言い訳を唱える彼女に呼びかけた。

「裁縫道具をお借りできないかしら。あそこには針も糸もございませんの」

血抜きは努力するとして、繕うのだけは道具がなければ何もできない。そのための申し出だった。しかし、先ほどまでの独り言が嘘のように彼女は黙ってしまった。毎日顔を合わすが、挨拶くらいしか言葉を交わさないため突然話しかけてびっくりさせてしまったらしい。すみません、と謝ったら口を開けたまま喉だけを動かし「いいえ…」と小さく言った。

次の日から、私の食事係は別の人間になった。





知恩院からだろうか、重く間延びした除夜の鐘が良く聞こえた。

こんなにも心穏やかな年の暮れは初めてのことだった。
あの家では三十一日から元旦にかけて夜通しで宴が行われていた。親戚親族を集め男たちは日暮れ前から酒を煽り、女はその準備に明け暮れる。夜も更ければ一人、二人と空き部屋に連れていかれ男の良いように扱われた。私とてその経験がある。

だから、除夜の鐘を聞きながら過ごすことなど初めてだった。
箱庭の真ん中で空を見上げる。仕切られた空間の中央には月が見えた。美しい満月だった。

月の光と冷えた空気を胸いっぱいに吸い込む。熱を持った空気を吐き出せば、自分が清い何かになれた気がした。浄化されたような気になれた。事実なれていなくとも、そう感じられただけで十分だった。

「何しとるん?」

重心が崩れ、後ろへと倒れこむ。しかしその体はしっかりと支えられぎゅぅっと抱きしめられた。首元に吐息が掛かり、その熱で自分の体が随分と冷えていたことを知った。鍵の開く音にすら気付かず外にいた。時間の感覚もなかったのだ。

「出迎えが出来ず、申し訳ございません」
「寂しかったわぁ。俺のことにも気付かずに何しとったん?」

内緒話をするように耳元で問われる。くすぐったくて顔を背ければ逃がさないとばかりに耳の縁をかまれた。ひゃ、と変な声が出て笑われる。お酒の匂いがする。随分と飲んでいるようだった。

「ずっと見ていたのです」
「何を?」
「空を。あまりにも月が綺麗だったものですから」

白い息を吐き出しながら告げれば彼も空を見上げたようだった。
二つの息が交わって夜空に消える。

「ほんまやね。死んでもええくらいや」
「そのような滅多なことを…」

そこまで言いかけて、私は酷く恥ずかしいことを口走ったのだと気が付いた。
彼もまた“私が気付いたこと”に気付いて喉を鳴らした。クツクツと笑うその振動が、音が、私の心臓を加速させる。

「出過ぎたことを…」
「もっと言ってくれてもええのに」

月の光から逃げるように頭を下げれば首元を撫でられた。ひんやりとした指先の感覚に驚いて肩が跳ねれば、「他にはないん?」とせがまれる。
熱に浮かされた脳を働かせて私は必死に考える。その間も男の指は私の首や頬を撫で、耳やこめかみに口付けを落す。

「あなたと見る月だから、より一層綺麗に見えたのかもしれません」

それがやっとの返しであった。
体が離され、向きをかえられる。
そこで私は月よりも美しいものを見てしまった。

「なんや嫉妬してまうな」

貴方の黄金は月のそれより綺麗なものでしたわ。

「私には勿体なきお言葉です」
「このままだと月に還ってまいそうや。今のうちに印付けとかんと」

ぐいぐいと腕を引っ張られ、部屋の中へと連れ込まれた。

本当にその日は酔っていたのだと思う。
御三家ともなれば当然のごとく年末年始に祝いの宴が催される。
それを抜け出て私の元へ来てくださった。
時期当主候補の彼にとっても大事な席だというのに。

期待してもいいのかしら。
欲をかいてもいいのかしら。
図々しくも、烏滸がましくも、望んでもいいのかしら。
私は許される?許してくださる?

ねぇお月様。
私はまだそちらには行けないわ。
行けなくなったの。

何故なら、私の身にもう一つの命が宿ったのだから。



お月様にはちゃんとお断りを入れたのに、次の満月に迎えが来てしまった。

人の形はしていたけれどその装いに以前の面影などない。
頬はこけ、髪は痛み、覇気もない。
私がなぜそれを識別できたのか。それは目と眉の形だけは般若の形をしていたからだ。

「何であんたがここへ来たのよ」

あの方の所有物になったからよ。

「何であんたに子が出来たのよ」

食事係が変わり、薬を混ぜられなくなったからよ。

「何であんたばっかり愛されるのよ」

本妻の貴方の方が愛されているわ。

「……もうええわ」

何が?

「あんたも、胎の中の子も殺す。そしてあの男も殺す」

愛している人でしょう?
何故、そんな恐ろしいことを言うのかしら。

「好きじゃないわよ。あんな男」

ずるい。
貴方は私が知らない彼を知っているのに。

あの方は朝食に何を食べられるの?
あの方は袴以外も着られるの?
あの方は親族の方とどういった話をするの?

「何で ■ ■ はあんたを……」

ずるい、ずるいわ。
私にも教えてよ。
それが一番知りたいの。

「今度こそ殺したる」

私が死んだらあの方は悲しんでくれるかしら。
涙を流してくださるかしら。
でも私がここで死んだらあの方も殺されてしまう。

それは許せない。許されない。

「ハッ!雑魚の家畜に何ができる?ただのハッタ、リ……ぁ、ェっ…………ギッッ!!!」

満月を背景に、赤い花が散った。
桜色が好きだと言ったのに、貴方の中身は随分と汚れた色をしているのね。
ああそうだ。
何故、私があの方の所有物になったか教えてあげる。

「私の方が格上だったからよ」

残念、もう聞こえていないのね。

可哀想な人。
でも、せめて貴方の望みは叶えてあげる。

私達、普通に出会えていたらお友達になれたかしら。
縁側でお茶を飲みながらゆっくりお話しできたかしら。
私はそうしたかったのよ。

嗚呼、ほんとうに、
可愛かわいそうな人。





"呪い"とは人の辛酸、後悔、恥辱といった負の感情の集まりである。これが貯まると呪霊という存在が生まれる。しかし呪力操作に長けた呪術師は自身の負の感情を"呪い"に昇華させることはない。
だが、呪術師の負の感情すらも"呪い"に還元させる者もいる。受け手はその"呪い"を蓄積し負の“ストレス”を溜めこむ。そうしてその者の器が満たされた時、それは倍以上の"呪い"となり跳ね返す———"呪詛返し"である。



「私を試しましたね」

木蓮の花が空に向かって美しく咲いている。
箱庭の縁側にいるのは一組の男女。その仲睦まじい様子は恋人とも夫婦とも見て取れる。
女の問いかけに、眠りに落ちようとしていた男の意識が浮上する。
 
「なんやねん急に」

起こされたことにより機嫌が悪いようだった。
彼女は膝の上の金の髪を撫で、すみませんと行動で示す。しかし会話は続けるつもりらしい。男の頬にかかった髪を払い除け再度声をかけたのだ。

「私の術式と気持ちにございます」

木蓮の足元には撫子が植えられている。まだ蕾のそれは、あとひと月ほどすれば可愛らしい花を咲かすはずだ。
春風に揺れる蕾を眺めながら、男は業火の中に残った撫子を思い出した。

「そら試すやろ。呪詛返しの術式持ちなんかそうそうおらへんで」
「私を呪詛師と仰るの?あんまりです」

呪術師が呪術師を殺せば、その者は呪詛師と呼ばれる。故に彼女は呪詛師に値する。しかし、その証拠と真実を語る者がいなければ証明されない。それに彼女は呪術師としての資格を持ってはいなかった。

「どの程度で器が満たされるか分かったん?」
「いえ、そこは私の知るところにございません。呪詛返しにそこまでのコントロールが出来るのならば、私はとうの昔に父や兄弟をもっと無惨に殺していましたわ」
「おぉ怖い」

彼女の運命を変えたあの日。火元は兄達の体だった。日毎夜毎、理不尽な扱いを受ける度に彼女は彼等を呪った。彼等の体に流れる血液がマグマであればいいのに、と。そして同時に彼等を哀れんだ。きっと彼等は愛情というものを知らない。だから女の私に縋るのだと。彼女は大層慈悲深い心の持ち主だったのだ。

しかし、彼女は兄弟を呪ったことも哀れんだことも覚えていない。全てが燃え尽きた時、煙と共にそれらの感情も昇華されたからだ。

男は起き上がりくぁっと欠伸をした。目元を擦り、伸びをする。暖かな日の光を受けた横顔を彼女はじっと見ていた。昼下がりに過ごすことは滅多にないことで、その横顔を目に焼き付けておきたかったのだ。

「この子の名前、どないしよか」

男の手が彼女の腹を撫でた。
まだ大きくもないのだが、そこには新たな命が宿っている。

「私では決められません。どうか貴方がお付けください」

腹に添えられた男の手に、彼女の小さな手が重なった。

「 ■ ■ 」
「はい…?」

鳥の囀りひとつ聞こえずに木の葉の揺れる音がする。
その心地よい空間に走る、ノイズ。
しかしそれは彼女にしか聞こえない。

「ほんまに自分の名前も分からんのやな」

呪いを溜め込む体を持って生まれた彼女は"真名"を知ることができない。

"言霊"という言葉があるように、言葉には強い力がある。事実、呪言師は言葉に呪力を乗せ呪いを祓う。そして呪術師でなくとも人は言葉に敬愛を、悲嘆を、恐怖を、憎悪を乗せることができる。そうでなければ万葉時代に言霊信仰など生まれない。

そして"真名"は人とその人間の魂を繋ぐ言葉。
"真名"を相手に知られることは自身の魂を繋ぐ糸を握らせるのと同じこと。

彼女は自分の名前も他人の名前も分からない。言われてもそれは雑音にしか聞こえずに、文字で書かれても黒く塗り潰され読み取れない。
それが彼女の天与呪縛の代償。

「はい。貴方の名前も分からぬことが悲しいです」

名は体を表すと言う。
しかし、その名を知らずに彼女は男の何を知れようか。

男は彼女の手の下からするりと手を抜いた。そうして、次は大きな手で華奢な手を包み込む。

「結婚しよか」

散歩を誘うような軽い口調だった。しかし、それは決して冗談ではない。
彼女は二、三回と瞬きを繰り返す。大きな瞳に反射するは月よりも綺麗と思った黄金の髪。
彼女はすん、と木蓮の香りを吸い込んで甘い吐息を吐き出した。

「私には勿体ないお話にございます」

男はようやく邪魔者がいなくなったと思っていた。だからこそ不機嫌になって、何故かと詰めよる。
彼女は困ったようにそして少し嬉しそうに頬を染めていた。

「私は、自分の気持ちというものに疎いのです。悲しい、淋しい、幸せ、愛おしい——その感情に疎いのです」

奥方に何をされても彼女は文句の一つ言わなかった。寧ろ可愛そうな人だと同情までした。
しかし男を殺すと言った奥方の言葉に彼女が耐えてきたものが一気に溢れでたのだ。

「でも私の術式が発動されればそれは一つの証明になります」

彼女は奥方がいなくなってしまったことを悲しく思っていた。
自らの感情が揺れ動き、術式が発動される。感情を押し込めることしか知らなかった己が、生きていると実感できる。そして———

「貴方を愛しているのだと、その度に気付かされますの」

彼女はこうも考えていた。

私達が結ばれたら終わってしまうじゃない。

貴方が私に会いにこの離れまで来るの。
貴方が私の為に贈り物をくださるの。
貴方が私の匂いを纏って帰っていくの。

そうして、貴方はこれからも私の気を引く為に別の女を妻に置くのでしょう?

だからこのままでいい。
このままがいいのよ。

「そない言うならこのまま一生飼い慣らしとこか」

男は額に、頬に、首筋に。そして最後は唇に口付けを落とす。
彼女は目を瞑って、そしてゆっくりと開く。

「お好きになさって」
「従順すぎて逆に怖なるな。望みの一つもないんか?」

視界の端に一輪の撫子が映った。他より早くに咲いたらしい。それは彼女が初めて殺した女と同じ名前の花だった。

「でも、そうですね……」

そこでハタと彼女は思う。もしこの男が他の女に靡いてでもしたらどれほど無惨に殺してしまうのだろうか。その死に様こそ、彼女が男をどれだけ愛していたのかという証明になるのだろうか。
その姿を空想し———

「貴方の命が尽きる時、最期に浮かぶのが私であればと思います」

春の柔らかな風が二人を包む。
歪だけれど美しい。
彼等だけの箱庭は、この世の何よりも美しい世界だった。

桜の下に眠る女は、じっと二人のことを見た。