凪くん、それはちょっといきなりすぎる

御影玲王率いる新政、白宝高校サッカー部の活躍は実に目覚ましいものだった。
その初陣は全国出場常連とされる強豪・青森駄々田高校と行われた練習試合。御影玲王は相手チームのスタイルを分析し、その対策を練って試合に挑んだ。味方の配置はもちろんのこと彼自らがディフェンス、パス回し、ドリブルを行いゴールラインまで陣形を引き上げる。そしてフィニッシュは天才へ——これがサッカー選手としての凪誠士郎のデビュー戦となった。

世間は『白宝高校のダブルエース』として御影玲王と凪誠士郎の名前を連ねた。そしてその肩書に恥じることなく彼らは結果を残し、次々と強豪校を破り連勝負けなしの『無敗』を背負い突き進む。



「なに見てるの?」

青空快晴、気温も上々。絶好のお昼寝日和とも言える日差しの下、私たちは屋上に来ていた。

「…っ、……重い」

お昼も食べ終わり自分のスマホを眺めていれば、どすっと些か可愛くない勢いで横から体重を掛けられた。当の本人にそんなつもりはないのだろうが自分の体の大きさを少しは考えて頂きたい。加えて最近では筋肉が付いたのかその重量は以前にも増したように思えた。

「ごめん」

と謝りつつも退く気はないらしい。その証拠に彼は一度僅かに頭を浮かせてから改めて私の肩に体重を預ける形で寄りかかった。どうやらポジションが悪かったらしい。重いことには変わらないが痛くはないので諦めてそのままにしておく。

「いいよ」
「で、なに見てたの?」
「この前の試合の記事」

自分のスマホを傾ける。その画面に表示されているのは先日のサッカー試合のwebニュースだ。アップされている画像には玲王くんと凪くんが映っている。玲王くんは嬉しそうに凪くんに抱き着いているが凪くんはいつも通りのきょとん顔。そしてその記事を見つめる隣にいる本人も実に無気力な顔をしていた。

「あーそんな試合もあったね」
「もう忘れちゃったの?凪くんが七点も決めた試合だよ?」
「いつも通り玲王からもらったボール蹴ったらゴールが決まったってだけだし。サッカーなんてどこと試合しても同じコトの繰り返しだよ」

どんなに活躍をしても凪くんが試合結果に喜ぶことはなかった。そしてサッカーという競技に興味もなければ情熱も持っていない。それでも玲王くんのことは嫌いではないらしく、放課後も彼に付き合って練習はしている。

「そっか。でも私は凪くんが色んな角度からゴールするのを見るの好きだけどな」

凪くんは同じことの繰り返しと言うが全て同じポジションからパスを貰ってゴールを決めているわけではない。あり得ない体勢からワントラップ挟んでゴールを決めるときもあれば背後からシュートを打つことだってある。それが面白いくらい真っすぐゴールネットに吸い込まれる。サッカーの知識なんてロクにないけれどそのシーンは見ていて爽快だ。

「もういいでしょ」
「わっ」

凪くんに自分の手ごとスマホを掴まれたと思ったらそのまま電源を落とされた。急にどうしたというのか。しかし私が口を出すよりも早く目の前に紙袋が差し出された。

「これ名前にあげる」
「私に?」
「レオがくれた」

紙袋を受け取り中を見ればおしゃれな箱が一つ。そして改めて紙袋のロゴを見て確信した。これ、有名なホテルが数量限定で売り出してるマカロンだ。さすがは御影コーポレーションの御曹司、そのセンスも手に入れるルートもすごいとしか言いようがない。

「いや、こんなにいい物なにもしてない私がもらえないって。それに凪くんにくれたんだから凪くんが食べないと」
「箱あけるのめんどくさいからいらない」

高級店だからか、それとも湿気防止とも言うべきか、確かに包装はとてもしっかりしていた。リボンを解いてシールを剥がし、包装紙を捲り再びシールをはがした。この間にも凪くんは私の肩から退かなかったため箱を開けるのにかなりの時間を要したことは敢えて言っておく。

「すごい!」

そうしてようやく姿を見せてくれた四つのマカロンは宝石のようにキラキラしていた。マカロン自体、安いお菓子ではないけれどこれは一粒千円はしそうである。それくらい高級感に溢れていた。

「ほら凪くん。せっかく玲王くんがくれたんだから食べてみたら?」

玲王くんなりのご褒美≠ネのか、試合で勝つごとに(といっても連勝続きなので毎週末と言った方が正しい)こういったお菓子を凪くんは貰ってくる。だからか凪くんからお昼を誘われる機会が増えたので玲王くんには感謝してたりする。

「じゃあ名前が食べさせて」

私が促せば凪くんはこちらに向けて口を開けた。その様子は池の中にいる鯉である。昔はそうねだられても、それこそ鯉にエサをあげるくらいにしか思っていなかったけれど今はやたらと緊張してしまう。でもそう悟られたくなかった私は平然と一つ手に取ってその口にマカロンを入れた。

「美味しい?」
「うーん」
「ここすごく有名なお店なんだよ」
「なんか口の中パサパサする」

可もなく不可もなく、といった顔でマカロンの感想よりも先に口内の乾燥を訴えてきたことは実に凪くんらしい。その様子に苦笑しつつまだ開けていないレモンティーのペットボトルを差し出した。いつもは水筒を持って来ているのだけど今日は暑くて午前中の時点で飲み干してしまったのだ。

「これ飲んでいいよ」
「ン、」

もちろんキャップを開けるのも忘れずに、溢さないように気を付けながら凪くんに渡す。そこでようやくこちらに寄りかかるのをやめ、空を見上げるような形でレモンティーを飲んだ。上下に動く喉仏は思いのほか大きかった。

「ありがとう」
「どういたしまして」
「じゃあ名前も。はい、どーぞ」

そして凪くんは蓋の空いたペットボトルをその場に置き、箱に入ったマカロンを一つ摘まんで私の前に差し出した。ピンク色のそれは甘い香りがする。イチゴか、それともカシス味か。しかし問題はそこではなく今のこの状況だ。

「えっ?!わ、私はいいよ!」
「マカロン嫌いだった?」
「そうじゃないけど……」
「なら食べたら?」

純粋無垢なその瞳に下心は何も感じられない。となると意識してるこっちが逆に居た堪れなくなってくる。だから目をきゅっと閉じて薄く唇を開けた。そうすればスッとマカロンが口に当てられる。

「……美味しいね」

落ちないように手を添えて、マカロンを食べきった。正直、味はよく分かんなかったけどくちどけは良かったので多分味も美味しかったはずだ。

「よかったね。じゃあ次はこれ」

そして間髪入れずに差し出されたのグリーンのマカロン。いやいや、さすがにちょっと待って。

「私はもういいよ。後は凪くんが食べて」
「俺よりも名前に食べてもらった方がマカロンも浮かばれると思う」
「玲王くんの気持ちが浮かばれなくなっちゃうよ」
「それはそれーこれはこれー」

その言葉はひどくのんびりしているのに有無を言わないようマカロンを差し出してくるこの圧はなんなのか。でも高級マカロンを味わいたいというのもまた事実。だから誘惑に負けたことにしてもう一度口を開いた。

「うん、美味しい。ありが……っ、けほけほっ」
「やっぱり水分持ってかれるよね」

そう言ってお次はレモンティーを渡してくる。すごい、今日の凪くんはものすごく気が利く。でもそれ凪くんが口を付けたやつだよね?それと私としてはもう凪くんにあげたつもりでいたんだけど。

「いい、大丈夫」
「名前のじゃん」
「もう凪くんのものだから」

そこまで言うと凪くんは「あぁ」と何かに気付いたように一人納得した。そして徐に立ち上がる。もしかして何か怒らせた?しかしその背に声を掛ければ予想外の言葉が飛んできた。

「新しいの買ってくる」
「え、そこまでしなくていいよ…!」
「だってこのままだと辛いでしょ」

辛いってほどでもないのだけど……でも私が見栄を張ったせいで凪くんに買いに行かせるのも申し訳ない気持ちになってくる。屋上から自販機までは距離があり、買って戻ってくる頃には昼休みも終わってしまう。せっかく凪くんと一緒にいるのにそれはもったいない。

「凪くん、やっぱりこれ返して!」
「うん?」

蓋の開いたままのペットボトルを手に取ってレモンティーを一気に煽った。それはもうスポーツ飲料のCMかってくらい勢いよく飲んだ。レモンの酸っぱさと砂糖の甘み、そして茶葉の香りが一気に鼻を抜ける。

「……っもう、大丈夫だから」

キャップを締めて自分のすぐそばにペットボトルを置いた。五〇〇mlのボトルの中身がもう半分もなくなっている。この分だと帰るまでにもう一本買うことになるかもしれない。

「そう?」

凪くんはこちらに戻ってきて先ほどと同じ位置に胡坐をかいて座った。そして物珍しそうな顔してこちらを見てくる。

「なに?」
「名前ってさ、」

面白いって言うんでしょ。好きなだけ笑うがいいさ。と言っても凪くんの緩みっぱなしの表情筋では口角を上げることすらできないだろうけど。

「やっぱり可愛いね」
「なっ……?!」

この人は本当にっ……!
箱に手を伸ばしてマカロンを掴む。そしてバタコさんもびっくりのその勢いで凪くんに向けて腕を振った。この時の私なら五十メートル先のアンパンマンの顔すら取り換えられたかもしれない。

「ラスイチどうぞ!」
「んっ」

そしてこれ以上の発言を控えさせるため残り一個のマカロンは凪くんの口に詰めておいた。





それから季節は移ろい、またブレザーを着るような季節になった。街路樹の葉は散って日が落ちるのも早くなる。今日の夕食当番は自分だから帰りに買い出しに行かないと。だからいつもより少し早めに図書室を後にして夕日に染まる廊下をひとり歩いていた。

「名前」
「凪くん?」

昇降口へと向かっていれば、そちらに続く曲がり角から凪くんが顔を出した。いつもならまだ玲王くんと運動場にいるのに珍しい。ブレザーの下に黒のパーカーを着ている凪くんは練習終わりのようだった。

「もう帰るの?」
「うん。スーパーに寄りたいから早めに切り上げたんだ」
「俺も一緒に帰っていい?」
「? いいよ」

二人で昇降口に向かい、互いのクラスの下駄箱で靴を履き替え出入り口のところで落ち合う。西の空は茜色に色づきそこから幾重にも淡いグラデーションが折り重なっていた。その先の夜に向かって並んで歩きだす。

「今日は玲王くんと一緒じゃないんだね」
「レオはばぁやさんと帰った。でも俺は話したいコトがあったから名前を探してた」
「話したいこと?」

凪くんは右肩からリュックの肩ベルトを外し、左肩には掛けたまま器用にリュックを前の方に持ってきた。そしてファスナーを開け中から一通の封筒を取り出す。真っ白な封筒は見るからに重要そうな雰囲気で。そして差出人を見た時、確信した。あぁついに来たのかと。

「日本フットボール連合ってとこから届いた。なんか強化指定選手ってのに選ばれたっぽい」
「それって日本代表選手に選ばれたってこと…?」
「詳しくは書いてなかったからよく分かんない」

凪くんの許可を貰って封筒の中身を見る。そこには確かに凪くんが強化指定選手に選ばれたことが記されていたがその内容は「新しい育成プロジェクト集会」という曖昧な言葉で濁されていた。他に同封されているものと言えば参加のための誓約書と会場までの地図くらい。

「これ詐欺とかじゃない?本当に本物の日本フットボール連合ってところから届いたもの?」

現実を認めたくなくて嫌なことを言ってしまった。ただ二人の実力をもってすれば声が掛かるのも無理はないだろう。

「どうだろ。でもレオにも同じものが届いてた。それでレオは行く気満々」
「一日で帰って来られるのかな」
「もしかしたら合宿なのかもしんない。そしたらゲームとか昼寝できなくなるからやだー」

この手紙が本物だとしたらU-18の日本代表合宿と考えるのが妥当だろう。有力者がついに天才と言う名の才能の原石を見つけた。ここからは本人が望まなくとも周囲がその才能を手放さなくなる。

「合宿だとしても凪くんは行くんでしょ」

それは玲王くんを見てればよく分かる。そしてその玲王くんが行くというなら凪くんも一緒に行くのだろう。凪くんは何においても淡白ではあるが玲王くんの存在を軽視していない。それを友情と呼ぶのか絆と定義するのかは分からないが凪くんにとって、玲王くんとの付き合いに「めんどくさい」という言葉はない。

「まぁとりあえずね」
「そっか……淋しくなるなぁ」

もうクラスも違うから一日話さないことだってある。でも合宿に行ってしまえば窓の外から姿を見掛けることも、玲王くんから凪くんの活躍ぶりを聞くこともなくなってしまう。凪くんのことだから連絡先を知っていたとしても疎遠になるのは目に見えていた。

「名前」
「どうし……いっ?!」

でも曲がりなりにも本人が「行く」というなら送り出さないと。しかし私が笑顔を作る前にその頬は引っ張られた。突然の出来事にびっくりして足が止まる。

「そんな顔しないでよ。ちゃんと帰ってくるよ」

ひょーんと私の頬を引っ張ってそんなことを言う。凪くんはなんだかちょっと怒っているようだった。この場合、怒りたいのは私の方なんだけど。

「凪くんちょっと痛いよ」
「名前、俺のコト信用してないでしょ」
「信用?」

ようやく頬から手が離れていったが目は逸らされなかった。こちらをじっと見たまま。そして僅かに痛みが残る私の頬に、今度は手を添えてやさしく撫でた。

「これが一生の別れってわけじゃないでしょ。俺が名前から離れるわけないじゃん」
「は……」
「てゆうか自分だけ『不安です』って顔しないでよ。名前は優しいから一人で何でも頑張ろうとするし目離すとすぐに変な奴に引っかかるでしょ。俺の方が心配なんだけど」
「えっと……」

私はいま怒られているのか…?こちらの脳内はクエスチョンマークで埋め尽くされているが凪くんは相変わらず目を逸らさない。それどころか瞬き一つしなかった。

「連絡…は正直マメにできないと思うケド努力はするし音信不通にはならないようにする」
「う、うん……」
「それでちゃんとご飯も食べて倒れないようにする」
「うん…?」

唐突なひとり立ち宣言に私は目を回すことしかできなかった。凪くんが何を考えているのかまったく分からない。

「俺もちゃんとやるから名前もしっかりしてね」
「あの、つまりどうゆうこと?」

そしてようやく疑問を口にできた。しかしお次は凪くんの頭にクエスチョンマークが浮かんでいる。なんで分からないの?とでも言いたそうな顔。でもね、分からないのは私の方だよ。凪くんってぼぅっとしてそうで意外と周りを見てるし勘もいい。だけど顔には出さないから私は勘ぐって深読みして、それで空回っちゃうんだ。

「名前のコトが好きだから他の奴に取られたくないの。だから浮気しないでってコト」

だから今回もまともな答えなんて期待してなかったのに。

「なっ……、えっ?!」

剛速球のど真ん中ストレートで投げられた言葉が左胸を貫いた。こんな私でも理解できるように、勘違いしないように。めんどくさがりの凪くんがはっきりと言葉にして告白をしてきたのだ。

「名前も俺のコト好きでしょ」
「あ……」

私の頬から手を離し、斜めにしていた体をこちらに向けた。僅かに残っている西日が凪くんの横顔を照らす。きっと私の頬も夕日と同じ色に染まっていることだろう。この状況ではそれがとにかく有難かった。

「好きじゃないの?」

だって、確信をもって聞いてくるその質問があまりに恥ずかしかったから。
顔が赤いのもぜんぶ夕日のせいにして。でも凪くんのことだからきっとそれも見抜いてる。そして私の気持ちもお見通しだ。

「いや、えっと……好き、です」
「だよね」

よく言えましたー、と頭を撫でてくる凪くんは相変わらずのローテンション。あれ?私たちって両想いだったんだよね…?と不安になってくるくらいいつも通り。

「あのっじゃあ私と凪くんは今日から恋人同士ってこと……?」
「そうなるね」
「そうなんだ」

自分を納得させるように言ってみたがやはり実感が湧かない。
そんな私の手に凪くんが触れた。今までも寒い日に手を繋ぐことはあった。でも冬本番と言うにはまだ早い。ただ凪くんは私の手を取って、そして指を絡ませて握った。それは私たちの今の関係を現した手のつなぎ方だった。

「いい?」
「…、うん」
「じゃあこっちも」
「…………?」

西の空から太陽が消えた。でもまだ完全には暗くない。日没後も数分は薄命が残る。その光景は魔法のように幻想的で、それは私たち以外の人がいない住宅街の道端でも言えること——マジックアワーのやわらかな光が重なった二つの影を包み込んでいた。

「……名前?」
「〜〜〜〜っ」
「大丈夫?生きてる?」
「キャパオーバーです…!」

久しぶりに一緒に帰ることになって、それで強化指定選手に選ばれたって話を聞いて。凪くんにいきなり頬を抓られて告白されて実は両想いでした!ってだけでもいっぱいいっぱいだったのに、キスまでされて平常心で居られる人間がどこにいるというのだ。少なくとも私は全部初めてだった。

「ここまで取り乱してる名前は初めて見るかも」
「凪くんこそなんでそんなに冷静でいられるの?!」
「そうでもないケド」

凪くんは私の手を引き、魔法が消えて暗くなった道を歩きだす。等間隔に立てられた街灯が唯一の光源だ。この道はコンビニもなければ信号もない。

「凪くんもそうゆうことしたいって思うんだね」

未だうるさく音を立てる心臓の音を聞きながら会話を続けようとした。凪くんとの間に会話がないことなんかしょっちゅうあるけどこの時ばかりは無言が気恥ずかしくて誤魔化したかったのだ。

「自分でもちょっとびっくりしてる」
「そうなの?」

夢見心地の気分も戸建ての家から聞こえるテレビの音と夕飯の香りに徐々に現実へと引き戻されていく。だから私も凪くんに負けじと平静を取り繕った。

「これからも名前が傍にいてくれたらいいなって思ったから告白した。でもいざ名前も俺のコト好きなんだなって思ったら止めらんなくなった」
「そ、そっか」

でも一つ一つの言葉がストレート過ぎて取り繕った平常心もあっけなく剥がれた。凪くんがちらりと横目でこちらを見たのが分かる。私はもう全てを諦め朱に染まった顔を隠すのを諦めた。

「まぁ俺も男ですから」

凪くんはそれだけ付け加えて繋がれた手をきゅっと握った。骨張っていて一回り以上大きなその手は確かに男の人のものだった。





春が好きだと彼は言った。その理由は何も考えなくていい気分になれるからだって。今年は気温の関係で桜の開花は早かったがそれでも彼が帰国する頃にはまだその枝先に花をつけていた。

『ホテル着いた!部屋何号室?』
『受付で名前言えばOK』

しかし残念ながら会う場所は桜舞う青空の下ではなく、豪華なシャンデリアが目を引くホテルの一室である。もちろんこのホテルを経営しているのは御影コーポレーションだ。今や世界的に有名なサッカープレイヤーとなった彼と会うときはいつも場所を用意してもらっている。

目眩がするほど長い時間エレベーターに乗り、辿り着いたのは最上階の一室。ロイヤルスイートでなくてもセキュリティがしっかりしているこのホテルならどの部屋だっていいだろうに、毎回眺めのいい部屋を用意してくれる玲王くんはさすがだと思う。
心の中でお礼を言いつつチャイムを鳴らせば扉の向こうから足音が。そして扉が開いたのと同時に大きな影に襲われた。

「やっと来たー」
「お、重い……!」
「なんか名前の顔見たら安心して眠くなってきたかも。ねぇおんぶして?」
「潰れちゃうからできないよ!ほら、中入って」

ぽんぽんと背中を叩けばようやく体が退いた。身長こそ変わらないがまた一回りほど逞しくなった気がする。彼は確かに一九〇という高身長の持ち主だが世界を見てしまえばそのくらい大きな選手はたくさんいる。フィジカルで勝負するプレイヤーでなくとも世界で戦うなら体作りは基本だ。

「そこのソファ座ろ?」
「じゃあ名前も来て」
「わっ…?!」

そして逞しく成長した彼はいともたやすく私を抱いてそのままソファに腰を下ろした。その勢いのままに膝の上に座ってしまう。さすがに重いよね……と思い動こうとしたけれど後ろから抱きしめられてしまえば身動ぎ一つできなかった。

「苦しいのですが」
「名前不足だから許して」
「私だって誠士郎不足だよ。ねぇ、ちゃんと顔見せて?」

そうお願いすればお腹に回されていた腕が僅かに緩む。身体を捻って振り返ればそこには久しぶりに見る誠士郎の顔があった。画面越しでは毎日と言っていいほど見ているが実際に会うのは半年ぶりだった。

「おかえりなさい」

言いたかった言葉をようやく伝えれば「ただいま」と答えて、そしてまた潰れるくらいぎゅっと抱きしめられた。だから私もその背に腕を回して誠士郎の存在を全身で確かめた。



「名前はいつから仕事?」

感動の再会が一頻り済んだところで備え付けのケトルを使ってお茶の用意をした。ただのティーパックにお湯を注いだだけだがさすがは一流ホテルと言うべきか、ダージリンのフルーティーな香りがその場に広がった。

「四月からだよ。公務員だから暦通りなんだ」

ついにこの春から私も社会人デビューだ。夢と呼ぶにはドライなのかもしれないが希望通りのお役所仕事に就くことが出来た。これでようやく十代の内から海外に移住しプロサッカー選手として働いている誠士郎に追い付けたようで嬉しい。

「一人暮らしするんだよね?今度遊び行っていい?」
「もちろん!でもうち狭いよ、誠士郎がいた寮よりも狭いかも」
「そんなの気にしないよ」

ティーカップをローテーブルに並べて置き誠士郎の隣に座る。紅茶を勧めれば両手でカップを持ちふぅふぅ冷まして一口飲んだ。そしてほっと一息つきカップの中の琥珀色の液体を見つめていた。

「トリュフが食べたくなったかも」
「トリュフ?」

誠士郎が何かを食べたいというのは珍しい。それにしてもトリュフか……このホテルにはもちろんレストランもある。そこのメニューにトリュフがあるかは分からないが誠士郎が頼めばきっと用意はしてくれるだろう。

「ルームサービス頼む?」
「そうじゃなくて名前が作ったトリュフが食べたい。前に作ってくれたでしょ」

それは確か高一のバレンタインだったか。今思い返してみても我ながらすごい提案をしたなと思う。しかしそれもまたいい思い出だ。

「さすがに今すぐには無理かな。それとここで用意してもらったものの方が美味しいと思うよ?」
「ホテルのシェフが作ったチョコより名前のトリュフが好きだし黒毛和牛のハンバーグより名前の豆腐ハンバーグの方が俺は好きだよ」

僅かに唇を尖らせたその姿はかわいくて愛おしかった。お世辞でも、いや誠士郎に限ってそれはないか。だからこそ嘘のないその言葉に嬉しくなった。

「ありがとう。じゃあ誠士郎のためにも料理のレパートリー増やさないとだね」

味だけじゃなくて栄養バランスも考えていかないとだよね。低カロリーで高たんぱく。そういった専門知識は持ち合わせていないけれど勉強するのは苦ではない。

「……そうだ、名前に渡すものがあるんだった」

誠士郎は立ち上がり部屋の隅に置かれた荷物の元へと向かう。お土産か何かだろうか。しかし手にしたのは誠士郎が愛用しているリュックだった。お土産の類はいつもキャリーケースに仕舞い込んで持ち帰ってくるのにそうではないらしい。そして探し物は見つかったのか誠士郎は両手で包み込むようにしてそれをこちらへと持ってきた。

「なに?」

すると誠士郎はスッと腰を折りその場に跪いた。私の目線よりも低くなり、そして下からこちらを見上げる。誠士郎の大きな瞳は真っすぐに私のことを捉えていて目が離せなかった。

「これ、受取ってくれますか?」

左手には真っ白な小箱が一つ。その中から出てきたのは小指の爪ほどに大きなダイヤが付いた指輪。部屋のライトを反射し七色に光るそれを見て息を呑んだ。

「俺と結婚してください」

人は本当に驚くと声が出なくなるらしい。口の中はひどく乾燥して喉もカラカラ、頭は真っ白だった。目の前の光景もドラマのワンシーンを見ているようでとても自分が当事者だとは思えなかった。

「名前?おーい」
「こ、れは…プロポーズというものですか?」

だから他人行儀にそんなことを聞いてしまった。しかし誠士郎は気を悪くすることもなく、咎めることも笑うこともせずに一つ頷いた。

「うん、指輪はちゃんと給料三ヵ月分の買ってきた。あっでも月給制じゃないから年俸の四分の一になるかな」
「つまり……」
「カードで買ったからよく覚えてないケド確かゼロの数は……」
「待って待って待って待って!」

誠士郎の今の年俸は確実に億は超えてた。その四分の一の額って考えるだけでも目眩がしてくる。それこそ私が一生働いて稼げるかどうか微妙はところだ。それほどまでの金額が目の前の指輪に注がれてると思うと感動や喜びを通り越して恐ろしくなってくる。

「そんな高価のもの受け取れないよ!」

もはやプロポーズのことは二の次で目の前のブツに頭を抱えることになった。万が一落としでもしたら……というかこれ目当て強盗に襲われるのでは?!なんて物騒なことまで考えてしまう。
そしてここで初めて誠士郎は不機嫌そうに眉をひそめた。

「レオにも名前は謙虚だから高いものは受け取ってもらえないって言われた。でも俺はこれを名前に付けて欲しいって思った」

ダイヤモンドはその圧倒的な透明感と何物にも傷つけさせない硬さから純潔∞不屈∞純粋無垢≠ニいった意味合いを持つ。

「名前にはこれからも俺の傍にいて欲しい。隣で笑ってて欲しいしダメなとこはダメだよって言って欲しい。ずっと変わらないでいて欲しい。だからダイヤモンドの意味を知ったときこれにしようって思った」

予め考えてもいなかっただろうに淀みなく告げられた言葉。そのあとの「それにお金の使い道もないし」の言葉さえなければ完璧だったんだけどな。でも完璧な誠士郎を私は望んでない。ちょっとだらしなくてローテンションでマイペースな誠士郎が好き。

「だから俺と結婚してくれる?」

そんな誠士郎からのダメ押しとばかりの同じ台詞。
いや、もう答えは決まってるようなものなんだけど。でも、でもね……

「それはちょっといきなりすぎる…!」

まだ心の準備ができてない。

fin.

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