入学初日、隣の席の糸師くんに嫌われました


春の気配もようやく整い、心浮き立つ高校生活が始まる。ドキドキしながら割り振られた教室へと踏み入れれば既に半数以上のクラスメイトが揃っていた。黒板に貼られた座席表を確認し自分の席を探す。あそこかな?と思い歩いて行けば自分の隣の席となる生徒が視界に入った。

痛みのない透き通るような髪に、机の下からはみ出るほどの長い脚。流氷を思わせるような孤独な冷たさを感じるのはターコイズブルーの瞳のせいか。しかしその瞳を見た瞬間、私の中である一人の人物が思い出された。

「あの、」

声を掛ければ目が合って、やはりそうだと確信する。これは是非とも仲良くなるチャンスなのではないだろうか。だから張り切って先の言葉を続けた。

「もしかして糸師冴選手の弟ですか?!」
「あ?」

心浮き立つどころか背筋が凍りつくような絶対零度の吹雪が駆け抜ける。
入学初日、私は糸師凛の地雷を踏んだ。





父親と弟がサッカー好きで試合がある日はいつもテレビを占領される。だから興味はなくとも中継を見るようになり、そしてサッカーを熱く語る彼らの会話も自然と耳に入ってきた。そんな二人が最近注目していたのが糸師冴という選手だった。

「ふぅん、この人そんなにすごいんだ」
「世界的に活躍するミッドフィルダーなんだぜ!そんで弟もすげぇらしいの!」
「そういやお前の高校はサッカーが有名だったな。もしかしたら糸師冴の弟もいるかもしれないぞ」
「確かに!そしたら姉貴サイン貰ってきてくれよ!」

そんな浅い情報しか持ち合わせない状態で声を掛けたのがいけなかったようだ。どうやらお兄さんの話題は糸師くんの地雷だったらしい。な〜にぃ〜!?やっちまったなぁ!!の後に続く解決策を未だに餅をついている人は教えてくれないがこのまま嫌われたままなのも悲しい。だから私は己の失態を水に流し、一クラスメイトとして彼に声を掛け続けた。



「糸師くんおはよう」
「………チッ」

朝の爽やかな挨拶も舌打ち一つで返される。しかし今日は無視されなかっただけまだマシだ。
彼は自身の机に中身の入ってなさそうなスクールバッグを掛けた。そして机の中から教科書と端の折れたプリントを取り出す。どうやら一限目提出の課題すら家に持ち帰らなかったようだ。サッカーに関してはもはやプロ級で、しかもそれだけ熱心に取り組める素晴らしい才能の持ち主だとは思うけど学生の本分を忘れちゃいけないと思う。

「気が散る。こっち見んな」
「二問目間違ってるよ。聖徳太子じゃなくて蘇我蝦夷」
「うっせぇタコ」

消しゴムで一度解答欄を白紙に戻し『そがのえみし』と記入する。これは漢字も教えてあげた方がいいだろうか。しかし四文字分教えるとなると私が四回「タコ」と言われることになってしまう。蛸の悪魔と契約してるわけでもないんだしそれだけは避けたいところ。

「はい」
「なんだ?」
「二問目の答え」
「…………」

付箋に書いて渡せば引っ手繰るように奪われる。そして書き写してしまえばその付箋は用なしとばかりに返された。相変わらずクールだな糸師凛。私はもう口出しすまい。手の中の付箋はくしゃくしゃに丸めて自分のペンケースに突っ込んだ。



高校生活にも慣れ一ヶ月ほど経過した。そして私は改めて気付いた。糸師くんは本当に勉強ができないらしい。

英語はネイティブ並みに話せるが他の筆記科目は軒並みできない。例えば数学なのだが時たま授業初めに全五問の小テストが行われる。それは前の授業の復習のようなもので五分もあれば解ききれるもの。それから隣の人と解答用紙を交換し、採点し合うのが常なのだが糸師くんはまさかの白紙ゼロ点だった。

「早くしろよ」
「ちょっと待って!」

教師への反逆心からわざとゼロ点を取ったのかもと思ったけれど多分違う。糸師くんは本当に分からないのだ。真面目に教科書を読み込んでいるようで熱心にサッカー雑誌を見ているのを知ってるし、一部の先生にも「糸師はサッカーと英語以外はからっきしだな」と言われているのを聞いたことがある。

「ごめん、お待たせ」
「……んだよこれ」

ようやく採点し終えたプリントを返せば糸師くんの目が僅かに見開いた。そのターコイズブルーの先には赤文字で書かれた数式。多分間違ってはいないはずだ。現に私の解答用紙には五つの丸が書かれていたから。

「空白恐怖症で思わず…」
「は?」
「なんてね〜あはは」

答えを教えてあげたというのも上から目線だし、気を使ったと思われたらきっと増々嫌な顔をするだろう。だからなんとも苦し紛れな受け答えしかできなかった。

「……?」

よくて舌打ち悪くてタコが飛んでくる。しかしそう身構えていたにも関わらず隣からは何も聞こえてこない。ちらりと視線を向ければ糸師くんは解答の書かれたプリントをじっと見つめていた。





中間テストの前日である今日は委員会も部活動もなしと学校側で決められていた。だからこそ、その日初めて糸師くんと帰り時間が重なった。しかし彼の場合は家ではなくこの先にあるサッカーコートに用がありそうだが。

「いつまで着いてくんだよストーカー」
「私もここのホームなの!」

そして乗る電車が同じだったものだから奇しくも後ろを着いて行く形になってしまった。
糸師くんからは冷たい目を向けられたため別の車両に向かうため脇を通り過ぎる。その時、彼の持っていたスマホのディスプレイがちらりと見えた。SNSのタイムライン、そこに一件の動画付きツイートが表示されている。そして糸師くんはワイヤレスイヤホンを耳に入れその動画を再生しようとしていた。

「……お前はさっきから何してんだ?」

私はというとその背後に回り込みなんとか画面だけでも覗き込もうとしていた。しかしさすがは空間認識能力の高い男。私の気配を一瞬にして察知し睨みをきかせてきた。

「糸師くんもそのアーティスト好きなの?」
「…………まぁ」
「そうなんだ!それこの前のライブ映像だよね?私も見たい!」
「自分のスマホで見ろよ」
「実は今月パケ代がいった」

電車通学になってからは移動時間にスマホを触る機会が増えた。だからすぐに上限がいってしまう。今度のテストでいい点数が取れたら容量を増やせないか親に交渉してみるつもりだ。

「バカか」

まさか糸師くんにその言葉を言われる日が来るなんてね。でもまぁ私なんかに動画見せてくれるわけないか。早く帰って家で見ようっと。

「ン、」
「え?」

私の行く手を遮るように腕が伸ばされる。その指先には黒のイヤホンが握られていた。糸師くんの右耳から外されたもの。その行動が信じられずに思わず顔を二度見する。

「聞かねぇんならいい」
「待って待って!聞きたい聞きたい!」

思考時間〇.五秒、元の場所に戻されそうになったイヤホンを掴み取る。そうして耳に突っ込めば独特なリズムが脳を駆けた。どうやらライブ仕様に仕上がっているらしい。しかし映像がない。何故ならスマホは糸師くんの身長に合わせ彼の見やすい位置で固定されていたからだ。

「糸師くん、糸師くん」
「あ?うっせぇ」
「画面見えない」
「お前が合わせろ」
「無茶言わないで」

ご自身の脚の長さをご存じで?あしながおじさんはあんなにも心優しいというのに、こちらのあしながおにーさんに慈悲の心はないようだ。

「重い」

スマホが握られている左腕に手をかけ背伸びをする。それに対し年頃の女の子に言っちゃいけないワードベストワンをダイレクトシュートして来たことに関しては敢えて触れずにしておこう。今の私には目の前の糸師凛より画面越しの井口さんの方が大事。

「サッカー選手って体幹いいんだからこれくらい余裕でしょ」
「そういう問題じゃねぇ」
「鍛えてないんだ?」
「お前あんま調子に乗んじゃねーぞ」
「調子と言うよりは腕に乗ってるかな」
「……ウザ」
「いけず〜」

ちっちゃくまるい女の子のように口を尖らせればこちらをじっと見て何も言わなくなった。なぁんだ男の子って単純ね!とイマジナリーフレンドの昭和アイドルが微笑めば私も満面の笑みで答えてみせる。すると糸師くんがパッと顔を背けた。え、動画見ないの?

「糸師くん、もう一度初めから再生してよ」
「お前マジでウゼーな」
「えっごめん」
「一々謝ってくんのもウゼェ」
「そっか。じゃあ勝手に再生するね」

何度も言うが今の私には目の前の糸師凛より画面越しの井口さんである。気難しい思春期ボーイはほっぽって背伸びをして画面の三角矢印をタップする。すると先ほどよりも腕の位置が低くなった。少しは私の気持ちを汲み取ってくれたらしい。しかし、油断はならないのでその腕を掴んだまま動画を見切った。

「めっちゃやばいね!一回生で聞いてみたいなぁ。あっでも今度新曲のリリースあるしテレビにもたくさん出るようになるよね!そしたら……」
「おい」

興奮気味に話していたところでターコイズブルーと視線が交わる。嫌悪を通り越して呆れたようなその顔に、これは本気でマズいと慌てて手を離した。イケメンが黙ったままだと逆に怖い。そして暴言の一つも飛んでこないと調子が狂う。

「大満足だった。後は家で見るね、ありがとう」

そうだ、イヤホンも返さないと。しかし慌てるあまり髪に絡んでしまった。また小言が飛んでくる、と急いでいれば不意に音楽が聞こえてきた。それはようやくほどけたイヤホンから流れてきたもので、思わず耳にはめ直した。

「曲調が似てる……でも歌ってるのは違う人?」
「メンバーがアレンジで参加してんだよ」
「詳しいね」
「好きになったモンは調べるからな」
「じゃあ他にも教えてよ」
「自分で調べろ」
「いつも勉強教えてあげてるのにー」
「それはお前が勝手に口出ししてくるだけだろ。……おい、なに勝手に曲送りしてんだ」

イヤホンの腹を叩けば曲は次々に再生されていく。そしてこれはアルバムではなくプレイリストにまとめられた曲のようだ。だからつまり糸師くんセレクトのお気に入り楽曲というわけだ。

「あ、これ好きかも」

確かにこのアーティストのファンではあるが最近好きになった私は新参者だ。故に過去の楽曲はまだ追いきれていないところがある。だから今聞いている曲は私が初めて聞いたものだった。

「なんて曲?」
「プレイアーエックス」
「いい曲だね」
「聞こえねぇから黙っとけ」
「あっはい」

でもイヤホン返せとは言わないんだね。
結局、糸師くんは丸々一曲聞かせてくれた。

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