『糸師凛』にさようなら


桜が散り終えるよりも早く、凛は地元を旅立つらしい。次はいつ会えるのか、それは彼すらも知りえないだろう。だからここを去る前日に勇気を出してあるお願いをしてみた。

「ボールは友達!」
「あ?ゴール決めるための球でしかねーだろ」

西日に目を細めながら足の甲でポン、とボールを蹴り上げる。そしてテンポよく左右でボールを回して一度高く上げたと思ったら、地面に着く前にそのボールを勢いよく蹴り飛ばした。それは美しい軌道を描き、狙い通りであろう左端のゴールネットを揺らした。

「おー!すごい!」
「お前も見てないで早く来い」
「うん!」

クラブチームの練習も終わり、地元のサッカーグラウンドは貸し切り状態。
スニーカーで砂利を踏みしめ、三メートルほど距離を開けて向かいあう。そして凛に軽くボールを蹴ってもらいそれを蹴り返した。

サッカーに興味がなかった私が試合を見るようになり、そして今ではやってみたいと思うまでになっていた。だから己を奮い立たせ「おい磯野!野球しようぜ!」とばかりに、サッカー教えて!と誘ってみれば思いのほか二つ返事で頷いてくれた。ただ、凛の練習を邪魔したくはなかったので一日の終わりにここに集まった。

「腰引けてんぞ」
「えー?」
「背筋伸ばせ」
「はーい」

体育の授業以外で運動はしていなく、そして日常で球といえば玉ねぎくらいしか身近にない私にとってサッカーボールは新鮮である。というか意外と重くて硬いな。普通のスニーカーでは直にその衝撃が足に響く。

「次はドリブルやってみっか」

そして軽い気持ちでお願いしたのだが凛は中々にスパルタだった。しかしそれでも『教えよう』という気持ちはあるらしい。ド素人且つ運動音痴と言えなくもない私のことを見捨てずに教えてくれた。

「この動きをしながら周り見て試合するってすごいね……」

そうなれば私も応えなければ失礼と言うわけで。全力で着いていったが当然ながらこちらが先に息を上げた。両膝に手をついて、背中を丸めながら息を整える。凛は首筋がしっとりと濡れているものの呼吸は乱れていなかった。自分は練習後にも関わらず、だ。

「少し休むか?」
「いや、もうすぐ日も暮れちゃうし大丈夫。次は何する?」

体力はなくても根性だけは持ち合わせているつもり。だから両膝から手を離して顔を上げる。そうすれば凛は驚いたような表情をしてからスッと目を細めた。そして転がっていたボールを軽く蹴って私に渡す。

「ゴールに向かって好きに蹴ってみろ」
「分かった!」

ペナルティエリアの境界線上、ゴールの真正面にボールを配置する。凛はゴールキーパーをやってくれるようでゴールネットを背に立った。それならばと気合を入れ直し、では行くぞと軽く助走をつけて、えい!と蹴ってみる。

「あー……あはは」

しかし無情にもコロコロと転がったボールは凛の目の前でぴたりと静止した。蹴る≠ニいう行為は案外難しい。
そのボールを無言で見つめ、凛はこちらに蹴り返した。そして膝ではなく脚全体で振り切るように、とコーチさながらの指導が入った。

「そんなに思い切っていいの?凛の顔面にシュートしちゃうかもよ?」
「それができたらアイス奢ってやるよ」
「今の言霊取ったからね!」

今までの醜態もこの一蹴で塗り替えてやる。おれのドライブシュート…大空へはばたけ!!と瞑色へと変化を遂げた空に向かって片脚を蹴り上げた。するとどうだろうか。それは大きな湾曲を描き飛んでいく。

「マジか……」
「どうやら命拾いしたようだね!」
「ボールに掠りもしてねぇだろうが」

そしてゴールの上をも通り過ぎてその後ろの茂みに落下した——私のスニーカーが。どうやら靴ひもが緩んでいたらしくすっぽ抜けてしまったようだ。これが靴飛ばし選手権であったならばホームラン記録を打ち出した私が確実に優勝していただろう。

「ごめん……取ってくる」

しかし今やっているのはサッカーである。色々と教えてもらっていた手前、申し訳なさが込み上げてくる。
脱げた方の片足が地面に付かないように片足飛びでスニーカーを探しに行く。すると凛がこちらまで走ってきて私の前に立ちはだかった。

「俺が取ってくるからここで待ってろ」
「でも、」
「お前の場合、辿り着く前にゼッテェ転ぶだろうが。そこにいろ」
「ハイ」

自分のことなのに戦力外通告を受けたため大人しくその場で待つことにした。靴が脱げてしまった方のつま先をもう片方のスニーカーの上に乗せバランスを取る。この状態も中々危ういよなぁと途方に暮れる前に凛が猛ダッシュで戻ってきた。その手には私のスニーカーが握られてくる。

「はやっ」
「ほらよ」
「ありがとう」

目の前に置かれたスニーカーに足を入れようとする。そしたら横から伸びてきた手が腕を掴み、体が支えられた。予期せぬことに動揺し体がぐらつく。しかし、前のめりになれば体の重心を戻すように引っ張られた。それと同時に「コケんなよ」と小言が飛んでくる。誰のせいだと思ってんの。

「履けた」
「よし。ならもう帰んぞ」

夜に練習をすることを想定していないグラウンドにナイター照明はない。だから精々、歩道に設置された街灯が点灯するだけだ。すっかり日の暮れた今となってはコート全体を見渡すこともできない。

「……うん」

凛がボールを蹴りながら歩く姿を後ろから見つめる。
その背中はやっぱり少し遠かった。

「忘れ物ない?」
「あぁ」
「ん?」

地面に置いていた荷物を凛が腰を曲げて持ち上げる。その時、肩に何か付いているのに気が付いた。一瞬、虫かと思いびくりとしたが外灯に近い場所だったためその正体は直ぐにわかる。だから指先で摘まんで、春つかまえた!と言って見せびらかした。

「桜か……?」
「みたいね。靴を取って来てくれた時に付いたのかな」

今いるこの歩道にも桜の木が植えられており足元にもいくつか花びらが散らばっている。でも凛の視線はここからでは暗さで到底視認できないゴール後ろの桜の木に向けられていた。いや、桜ではなくグラウンド全体を見ているようだった。

「どうかした?」
「……いや、帰るか」

グラウンドを背にし、桜が舞う道を歩く。ここまで来れば等間隔に外灯が立ち並んでいるため先程より周囲は明るい。そこで隣を歩く凛の顔を盗み見れば何やら硬い表情をしていた。仏頂面、無表情ともまた違う顔。一年ほど昔であったら気付かなかったであろう違いに、今では一目で気付くことが出来る。

「愚痴でも決意表明でもなんでも聞くからね」
「は……?」
「言ってみただけ」

無理に聞き出したいわけでもないから盛大な独り言を吐いておいた。彼を悩ませるのは大抵、お兄さんか潔くんか士道選手絡みのことだ。そうなってしまえば私は何もアドバイスはできない。ただ話してすっきりすることもあるし、聞いてもらうことで自分の考えがまとまることもある。だから、それくらいならできるよの意味を込めて言ってみた。

「……兄ちゃんとサッカーしてた時のコト思い出してた」

花びらが落ちる音よりも静かに言った。
私は隣を見ずに、そうなんだと風の音よりも静かに答えた。

それから凛はぽつぽつとお兄さんとの思い出を話してくれた。
小さい頃は全くサッカーに興味がなかったこと。でも乱入した試合で決めた一点により、お兄さんに言われた「俺とサッカーしろ」の一言でサッカーを始めたこと。優勝トロフィーを待たせてくれた試合のこと。買ってもらったアイスのこと。そして「世界一のストライカーになる」と言ったお兄さんをスペインへと送り出した時のこと——でも糸師冴ってミッドフィルダーなんじゃ……

「アイツは『世界一のミッドフィルダーになる』つって帰って来た」

その夜は雪が降っていたらしい。しんしんと降る雪の中、世界一のストライカーになる夢≠再び見せるためにやった一on一……しかし数分も掛からずに糸師冴のゴールにて勝敗が決まる。そして試合後に言い放たれた一言で凛の目標も変わった。

「糸師冴と、潔を殺す」

U-20日本代表戦、その試合でお兄さんが自分ではなく潔くんを認めたのだと言った。
凛の声は終始穏やかだったけれど二人の名前を出すときは僅かに震えていた。怨恨か憎悪か憤慨か、しかしその奥には言葉では言い表せない感情がまだ眠っている。それはU-20日本代表戦のラストで見せた舌を出し突き進む獣の正体なのだと思う。

「だから凛は世界一のストライカーになるの?」
「それはあくまで副産物だ。アイツらをぐちゃぐちゃにできれば何だっていい」
「そっか」
「軽蔑したか?」

私の家へはここから徒歩で帰れる。でも凛は電車に乗るために駅に向かう必要がある。目線の先にはもう駅名の文字が見えていた。だから一緒に居られる時間はあまりない。

「ううん、凛がそうしたいならそうすればいいと思う。あっでもさすがに警察のお世話にはならないでよ?」
「ならねーよ」
「あははっ」

その言い方が子どもっぽくて思わず笑ってしまう。そしたら凛も表情筋を緩めて小さく息を吐きだした。潔くんのことはもちろん嫌いじゃないけど、私は凛のことを応援したいし味方でいたい。ただ、その理由はもうファンとしてだけではない。

「じゃあね、凛」

帰宅時間と重なったためかぞろぞろと駅から人が流れて来る。部活終わりと見られる学生やサラリーマンやOLが多い。その人ごみを避けるように券売機傍の柱の前でお見送りをする。

「お前は?電車じゃねーの?」
「ここうちの最寄駅なんだ。歩いて五分くらいで帰れる」

本当は駅から歩いたら十五分掛かるし、何なら家は通り過ぎた。

「なら送る」
「近いからいいよ。それに明日朝早いんでしょ?帰って支度もしなきゃじゃん」

でも少しでも長くいたかったから嘘をついた。
見送られるより見送りたい。だってその方が相手の記憶に残る気がするから。

「大してやることねーよ」
「あっそれより後ろ向いてよ。久しぶりにやる気スイッチ押してあげる!」
「やる気……あの平手打ちのことか?クソ痛ぇからやめろ」
「そんなに照れんないでよ」
「ちげーよ。っておい、」

無理やり背中を向かせてその真ん中に、えい!と掌を叩きつける。ゴールは外したがこちらは外すことなく、パシッとダイレクトシュートが決まった。というのも結局、凛がその場から動かずに受け止めてくれたおかげだけど。

「どうだった?」
「フツーに痛ぇわ」
「やる気は?」
「元よりあるわ」

なら安心した、と笑えば凛も小さく笑った。この顔も昔の私だったら見逃していたかもしれない。

「過労で倒れないようにね」
「余計なお世話だタコ」

さぁこれで本当にお別れだ。といってもBLTVやネットニュースで凛の活躍は見れるから私が彼の顔を忘れることはないだろう。でも次会えるかも分からないし、もし会えたとしても今よりも遠い存在になっていて赤の他人のような感覚になるかもしれない。だから私が恋した糸師凛≠ニはこれでお別れ。

「廻くん達にもよろしくね」
「あ?なんでアイツらにンなこと言わなきゃなんねーんだよ」
「私の友達だから」
「ゼッテェ言わねぇからな」
「でも一番応援してるのは凛だからね」
「当たりめーだ」

言うことが可愛くなくなったな。でもそれが寧ろ可愛いと思ってしまうのは変なフィルターが発動しているからかなぁ。恋は盲目ってこういうことを言うのだろうか。

「じゃあね」
「おう」
「ばいばい」
「あぁ」

またね、は言わない。
この恋を終わらせたかったから、ばいばいって言った。

ちょうど電車が来たのか改札口から路上へと人が流れて来る。背の高い凛もその人の波にかき消されていった。自分もその人ごみに乗って駅を背にして歩きだす。

辛いとか悲しいとか、そういった感情はない。でも心にぽっかりと穴が開いたかのような虚無感がある。だからか足取りが重くて、歩く速度が遅いせいか後ろから人が次々と追い越していく。このままでは邪魔になると思い、駅ビルの壁に沿って暗闇の影を歩いた。

「……待て」
「えっ」

不意に掴まれた手、その反動で足が止まれば外灯の光を遮断するかのように真横に人が現れた。後ろは壁、でも視線の先にはターコイズブルーが光る。逆光の中でもその瞳の色だけははっきりと見えた。

「り……、んっ」

そしてその人物の名前はあっけなく飲み込まれた。避けるとか逃げるとか、そんなことを考える隙もなく。真っ直ぐに向けられた瞳に見入っていたら、全ての思考が停止して唇を受け入れていた。

「ひゃっ……」

成されるがままの私に変わり、こちらの脳波でも感知したのか女の子の声が聞こえた。視界の端に映った膝下のスカートに白いソックスと個性を感じさせない学校指定の運動靴。きっと地元の公立中の生徒だろう。

「……、っ」

時間にしてほんの数秒だったと思う。でもそれはサッカーをした時間よりも、一緒に海を見た時間よりも長く感じられた——出会ってからの全ての時間を凝縮したかのような、一瞬。

「いってくる」

鼻先が触れ合うほどの距離、目の前にある形の良い唇がそう動いた。先ほどまで触れ合っていたそれは湿っていてピンクが濃くなっている。その色に心臓が脈打つのを感じながら、同じ色に染まっているであろう唇を動かした。

「いってらっしゃい」

年下の女の子に見られているのが分かっていたから、無駄に大人ぶって淡々と答えた。

彼は今度こそ人ごみに紛れて駅の中へと消えていく。
私も今度こそ駅を背にして歩きだした。

足をどんどん加速させ、宣言通り五分で家に帰って来た。息も絶え絶えに、ただいまと叫べば「おかえりー」の返しと共に、ご飯できてるわよと母の声が聞こえてくる。しかしそれには返事をせずに自分の部屋へと駆けこんだ。

やってしまった。というかやられた。
夢じゃなくて現実、だよね……現に唇には未だにその感触が残っている。

何だったんだ、さっきのあの流れは。揶揄うにしてはタチが悪すぎるし、冗談にしては笑えない顔をしていた。もしやあれか?海外選手と共に練習をすることで向こうの文化に染まった的な。欧米はスキンシップも多いし、特にフランスは『愛の国』と呼ばれるほど愛に人生を捧げるのが美徳とされている。そしてハグもキスも挨拶の一種でありそこに深い意味はない。

考えたら負け、感じたらもっと負け。

とりあえず次会ったらビンタしとこ。
そう思いながら自分の頬を思いっきり叩いておいた。

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